十六ノ怪
「鈴音?」
不機嫌な声で呼びかけられ、蒼褪めながら我に返る。
あぁそうだ。箸を落としたんだ。拾わないと。平常心をなんとか保たないと。
傍らに落ちた箸を取ろうと手を伸ばすが、誰の目から見ても手は震えていた。
都合の悪い事に鬼さんの間に箸は落ちている為、震えは鬼さんの目にも入ってしまった。
「何故震えているンダ?」
「お、鬼さんが、いきなり怒るから、驚いたんです。驚かさないで下さいよ」
茶化して言ってみるけど、恐らく何もかもが引き攣っているわたしに、鬼さんは不審に思っているに違いない。
冷たくなった指で箸を拾った。でも食事を続ける気にもならず箸を握り締めたまま固まってしまった。
不意に顎をすくわれ、緩やかな動作の割には強引とも思える力強さに視線を合わされる。
「お前何か知ったんダロウ」
「いやその、変な夢を見たから、気になっただけで」
「どんな夢ダ?」
畳み掛けるように言われてゴクリと喉が鳴る。
目をなんとか逸らすと、はっと息を吐いて目を閉じる。
「夢の中で人魚が出てきたんです。なんだか変な人魚で、わたしが知っている人魚とは全然違って、頭が人間の女性の頭で、首の付け根から下は魚だったんです」
鬼さんのいつに無く押し潰されそうな気迫に縮み上がりながら正直に答える。
途中で恐る恐る目を開ければ、鬼さんはわたしが話せば話すほど眉間に皺を何本も増やして行き、激情を殺すように口を真一文字に結んでいた。
「へ、変な夢だったんですけれど、なんだか気になってしまって。鬼さんなら何か知っているかなって思って、その、軽い気持ちで聞いただけだったんですけれど、ごめんなさい。気に障ったみたいで」
これ以上鬼さんの機嫌を損ね無いように、なんとか無難に終わらせようと必死に言い募った。
言い終えれば鬼さんは黙ってわたしを冷たく見下ろし、わたしも蛇に睨まれた蛙そのもので、硬直しながら黙って鬼さんの出方を待った。
「で? ソレはただの夢だったのカ?」
眉を片方吊り上げて鬼さんは訊いてきた。
口調は冷たいけれど、重い感じはなく、先程に比べれば発言しやすい雰囲気だ。
「きっとそうだと思っています。ここ最近は正体不明の水辺の妖怪のことばかり考えていましたし、会う妖怪会う妖怪、みんな水関係の妖怪だったので、そんな夢を見たんだと思いまして……」
人魚の肉を食べたとか、水の入口はあの砂利道に通じた等の重要なことは、敢えて伏せて簡単に説明をする。
言わなくて良い事を言って何かされたんじゃ堪らないもの。言うとしても、もうちょっと様子を見てからだ。
「そんな夢見るならもうお遊びはやめれば良いカナ。そうすりゃ良く寝れるだろうヨ」
ニヤリと意地悪く笑った顔を浮かべる鬼さん。案に外に出るなと牽制してるのだ。
鬼さんからすればわたしが外へ出る事に対して、基本的に良い顔出来ないみたいだからね。
「悪い夢ならこの常闇に来てからほぼ毎日見てますから、今更です」
というか、夢に関しては鬼さんに何とかして貰おうとは思っていない。
紫さんに指摘された『自分ひとりでは何も出来ない』という事実を挽回したいのもあるし、あれが何であれ、自分の夢なら自分で解決したいのだ。
ついでに余計な事を言って、鬼さんの顰蹙を買うのだけはなんとしても避けたいところでもある。
でも……ひとつだけハッキリさせたい事がある。
人魚の言っていたあの肉。あれは実際は本当なのか。現実なのか。
ただの夢に出てきた変な人魚が言った、所詮夢でしかないデタラメなのか。
それだけはハッキリさせたい。
「鬼さん。以前わたしに食べろといったあの生肉は、なんだったんですか?」
普通に話そうとしても背筋もお腹もブルブル震える。何度も鬼さんに世間話として話そうとしようとしても、声が震えてしまう。
「あの時に魚の類と言っていましたけれど、具体的になんの肉だったんですか? 気になってしまって」
ぎこちなく見返した先。そこには射抜かれるような鋭い視線。
まるで刃の切っ先を向けられているような気分になり、瞬時に質問を撤回しようかとも思ったが、どうしても気になり、わたしは己を叱咤して鬼の紅い眼差しに踏ん張った。
「ど、どうしても気になるんです。教えて下さい」
鬼さんは暫く黙り続けた。ひたすら妖しい紅を不気味に光らせて、その眼光の強さでわたしを雁字搦めにする。
唐突にずっとわたしの顎を掴んでいた手を離して、まるで見下すように顎を上げると、ジッとわたしを見下ろした。
「お前が食ったあの肉は人魚の肉カナ」
「……人魚」
ぽつりと自分の口から溢れる。
やっぱりという気持ちと、有り得ないと思う気持ちが同時に浮かぶ。
「お前は不老長寿、もしくは不老不死に成った。少なくとも老いからも寿命からも遠く離れた者になったカナ」
呆然として目を見開いた。
夢の中ではなく、現実の世界で告げられた人魚と同じセリフに、わたしは言葉を失う。
「鈴音。お前は人としての寿命はお前には無い。お前は俺と共に生ける命を得たことになっタ」
そっと大きな手が頬に添えられ、次に抱きしめられる。抵抗することも忘れたわたしは、呆然として動けないでいた。
不老不寿だって人魚は言っていた。
老いが消えて、寿命が無くなったって……そして紅い鬼も、わたしが人の寿命が無くなったといった。
「時間はある。ゆっくりと常闇に、俺に馴染めば良い。俺と楽しく暮らそうじゃないカ鈴音」
わたしの横顔に鬼さんの横顔が擦り寄り、猫が甘えるような仕草で首筋に埋めてくる。
「お前の遊びにも付きやってヤルとも。俺の傍にいる限り、お前がお情けごっこを楽しいと感じるなら、俺も共に遊んでヤロウ」
老いたら飽きると思っていた。それがどんなに途方もなく先の話だとしても、いつか終わりが来るんだと無理に納得させてきた。
でも、それすら絶たれた。わたしは鬼さんがこの先どんなに時間が経ったとしても、弄ぶことが出来ることになったのだ。
わたしは耐えられるのだろうか。
半永久的に鬼の傍にいて、慰みものにされる恐怖に怯えて過ごし続けるのか。
紫さんや他の妖怪から蔑まれ責められ嘲笑われ、それでも追い詰められることなく耐え続けることが出来るんだろうか。
全身から力が抜けた。
また一つ、わたしが大事に持っていた頼りない光が消えた瞬間だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
籠の隅で膝を抱えて丸くなる。
声を押し殺してもどうしても涙混じりの嗚咽が溢れてしまう。
自分がどんどん化け物に変わっていく。
瞳も変わった、妖怪の食べ物も食べれるようになった。そして今度は寿命まで。
それで? 次はなに? 今度は角でも生えるの? これから先どうなるの? わたしはどうなってしまうの?
「……御姫さん」
小さな声が背後から掛けられる。
どうしても返事をする気になれなくて、わたしはただ頭を緩く振るだけにとどめた。
今は誰とも話したくない。話したとしても無意味な八つ当たりをしてしまいそうで、放っておいて欲しかった。
「人間とは誰であれ、不老不死を夢見ているものだと思っていたんですけれどねぇ。ですが御姫さんは違うようで」
違うもなにも、そんなもの信じていなかったし、望んでもいなかった。人並みの生活と人生が送れたらそれで良かった。
もっと違う形で不老不寿になったら、また違った感情をわたしは持ったのかな。人類の永遠の夢が叶ったと喜んだのかしら?
ううん。少なくとも今は喜ばしいとは全く思わない。
鬼に良いようにされる可能性と期限が、永久的に伸びたという絶望的なものしか感じられなかった。
鬼さんと生活するのだって、あくまで人間として生きていけるのならと、そう自分に奮い立たせて頑張ってきたのだ。
……それなのに。
「わたし、大学に行って、就職して、それから恋愛もして、結婚して家庭を作って……大好きな人と一緒に歳をとって……」
漠然とした将来ではあったけれど、いつだって幸せな未来を描いていた。それに向けて努力もしようと心に決めていたし、大学に入ってから本格的にどう将来を決めるか考えようと思っていた。
わたしの夢は言ってしまえば在り来りな、誰もが思い浮かべる将来の夢。叶うかどうかは別だけれど、そういう日がいつか来ると信じて疑わなかった。
でも現実は違った。
非現実的なことが起きて、描いていた将来は全て潰れた。
自由な生活は取り上げられ、日光も無い。家族とも友達とも引き離されて、将来の夢どころか、明日の命すら危ういものとなった。
鬼に連れ戻される前から分かっていた筈なのに、結局わたしはぼんやりとも分かっていなかったのだ。
今更ながらこの段階になって、ずっと見えていたはずの現実を間近で直視することになったわたしは、今絶望のど真ん中にいるのだと思い知らされた。
「御姫さん。遅かれ早かれ、こうなることは分かっていたのではないですか?」
決して責めるような口振りではない、紫さんの声が上から降ってくる。
「人間の寿命は短い。一時の慰めでなく、常に傍に置いておく身であるのなら、人の寿命を捨てさせるしか術はないのです。……鬼様はここまでして御姫さんと共に過ごしたいのですよ」
ふわりと空気が動く気配がした。
すぐ近くに、空気の塊が寄り添う感覚がする。
「御姫さん。この際はっきり申しますが、人間としての人生はお諦め下さい。鬼様と契を交わしたその時から、御姫さんの人生は鬼様の物となったのです。……私は同情することしか出来ません」
同情。昨日会ってきた女郎蜘蛛の花魁や、濡れ女さんがわたしを見る目。向けてきた眼差し。
そうなんだ。きっと彼女たちもわたしの変化を感じていたんだ。だから憐れんだ表情が見え隠れしたように見えたんだ。
「わたしはこれから先、鬼さんと、どうなるんですか?」
抜け殻同然となった状態で意味のない疑問を口にする。
返ってくる言葉なんて予想できるのに。
「仲睦まじくなれば宜しいかと。甘えてみては如何ですか?」
てっきり怒られるのかと思っていたけれど、紫さんは優しく諭すように言って穏やかに声を掛けてくれた。
でもわたしにはその案を採用することは出来ない。
「無理ですよ。鬼さんに触られるだけで緊張するんです。わたしだって仲良くなるように努力しています。……でも、鬼さんの望んでいる仲と、わたしが願っている仲とは違うんです」
ぎゅっと膝を抱える力を増して目をきつく閉じた。
「もうどうして良いか分からないんです! 鬼さんに無理強いされそうになった時から、もう二度と触られたくないんです! 甘えるだなんて、どうしたって出来ないです!」
一緒にいるだけでも辛いのに、その鬼さんに甘えるだなんてどうやって出来るっていうの? しかも甘え続ければどうなるか分かりきっているじゃない!
「ではこうしましょう」
頑なに跳ね除けるわたしに、ふわりと蛇のように長い姿を宙に浮かして、僅かに覗かせているわたしの目元に鼻先を向けた。
「あくまで、鬼様と居る時は『鬼様の雀』として割り切って過ごされては如何でしょう?」
「……割り切って?」
「えぇそうです。鬼様と接している間、御姫さんは『人間としての鈴音』ではなく、『鬼様に仕える雀様』と割り切れば良いのです」
「……そんな簡単に出来るものでしょうか……」
「気持ちは楽になると思いますよ。生きる為、光を失わない為、人間でいる為。全て自分自身の為に、鬼様とご一緒にいる間は本当の御姫さんとしてでは無く、あくまで鬼様の雀として接すれば宜しいのです」
「本当の自分ではなく、鬼さんの雀に成りきる……」
「鬼様と共にいる時は甘えても、笑っても、それは本当の御姫さんではありません。鬼様の雀様が心から笑い、傍に仕えるのです」
どうにも釈然としなくてわたしは曖昧に頷いた。
そんなわたしを紫さんがふわりと囲んで、穏やかな香りを放ち漂わせた。
「大丈夫ですよ御姫さん。何事も慣れです。私が常にお側におります。大丈夫ですとも」
まるで慰めているかのようなその香りと紫さんの言葉に、わたしは複雑に思いながらそっと目を閉じた。
そうすればまだ目尻に残っていた涙が、頬に一筋流れ落ちた。