十四ノ怪
水のうねる音が聞こえる。
ゴボゴボとした泡の塊がわたしの足もとから立ち上り、脇を通り抜けて上へと上って行くのを感じた。
また、この夢……。
最近この夢をよく見る。鬼さんと一緒に水関係の妖怪に会ったり考えたりしているからこんな夢を見るのかしら。
けれども常闇と違ってまるで南国の海中の様だった。白い砂が広がる水底に、天井にはエメラルドグリーンの水面。どこまでも透き通った青い水中。まさに天国だ。
こんな夢なら大歓迎だわ。どうせ夢なら楽しまないと。
鬼さんもいない事だし、のんびりとしよう。
水の中だからやっぱり歩くよりも泳いだ方が早いし楽だ。
珊瑚も綺麗だし、前にはいなかった時折見かける見たことも無い魚も可愛らしい。
「……え? わ!」
物凄い勢いで背後から何かがわたしを追い越して行った。
目を白黒させながら必死でその何かを目で追うと、きらりと銀色に光って向こうの方へ泳いで行った。
「な、なに今の?」
海底の砂を巻き上げて、小さな泡粒が竜巻みたいに渦を巻いて消える。
なんだか魚にしては何か様子が変だったような。泳ぎ方もなんだか、歪と言うか、妙に違和感があっておかしいというか。
と、とにかく、こういう時は追いかけてみよう!
自分も手で水を掻き、足で水を蹴って泳ぐ。一応これでも水泳の授業は良かった方なんだから! ……中学の時の話だけれど。
ちなみに高校は水泳の授業は無かくて、夏休みでプールとか海に行く時ぐらいでしか泳がなかった。
先を行く正体不明の銀の光は、もう豆粒くらいの大きさになってしまって幽かに見えるぐらい。こんなに綺麗な水で無ければ、きっととっくに見えなくなっているわ。
必死に泳いでこれ以上距離を離されないように手足を動かす。
さすがに現実味の強い夢だけあって、泳ぎ始めて間もないのに疲労を感じ始めて手足が重くなってくる。
どうせ水の中で息が出来るなら、体力的な所も超人並みにしてくれれば良いのにっ。
意味も無く夢の内容に八つ当たりしてもう動けないと泳ぐのをやめる。疲れた。水の中にいるのだから汗は垂れないけれど、無意識に腕で額を拭ってしまう。
その時下を見れば何かが通った後の様な、明らかに他の凹凸とは違った窪みが白い水底に一本、道を作っていた。
そっか。あれだけ砂を舞わせたからそこだけ砂が抉れたのね。
本当の海底でもこうなるかは分からないけれど、とにかくこれを辿っていけば目的のものに会えそうね。
あまり悠長にしていては、波で目印が消えてしまうかもしれない。
わたしはその窪みに寄り添って、また泳ぎ始めた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その窪みを黙々と追って水を掻きわけていく。途中疲れたら水に浮いて立ち止まり、ある程度休めたらまた泳ぐを何度か繰り返した。
辺りはすこし薄暗く、背後を見ればキラキラと日差しが差し込む南国の海が見える。
かなり遠くまで泳いできたのかな。なんだか少し寒くて暗くなってきた気がするけれど、この先に行って大丈夫かしら。
前を見れば陽が沈んだばかりの空のように薄暗い。その先に行けばもっと暗くなったりするんじゃないかな。
うーん。どうしよう。
どうせここまで来たならもっと先まで行きたい気がするし、思い切って行ってみようかな。
もし真っ暗で危険を感じそうなら直ぐ引き返して、あの明るい場所で目が覚めるのを待てば良いか。うん、良し。そうしよう。
怖々とする気持ちを抑えながらまた泳ぐ。横に進んでいるのにまるで暗い海底に進んでいるような気分になって少し恐怖心を煽られる。
でもまだ大丈夫そう。怖くなったらすぐ引き返せばいいというのもあって、なんとか進み続ける。
次第に暗さは増し、目の前はもう暗闇同然だった。後ろを振り返れば明るい海はずいぶん小さくなって星みたいに瞬いて見えた。
……さすがにこれ以上進むのは止めよう。戻れなくなりそうで怖い。あの影は何だったか気にはなるけれど、深入りは禁物だわ。
そう自分に言い聞かせて暗闇に目をやった時だった。暗闇の中にキラリと銀色に光る鱗の様なものが見えたのだ。
息を呑んで静かに、慎重に泳いで見えたものに近寄る。底すれすれまで下降して、そのまま砂に手をつきながら這うようにして進む。
どうやらその何かも底に横たわる様に沈んでいて、ゆらゆらと動いていた。
もっと近くによれば、徐々にその姿が見えてきた。
え、嘘……人魚!?
艶やかな長い黒髪が海藻のようにふわりと靡いて腰まで覆い、見える魚の尻尾は動くたびに銀に光っていた。
後ろ姿と髪がとても長いせいで背中や腕、顔は見えないけれど、姿かたちはどうみても人魚だ。
ほ、本当に人魚? 人魚って西洋の海の妖精じゃないの? 日本にも棲んでいるの? そもそも妖怪の一種なの?
驚きと感激で怖さなんて吹っ飛んだ。
どうしよう? 声かけても大丈夫なのかな。また逃げ出たりしちゃうかな。本物の人魚に会えるなんて思わなかったし。
ドキドキして顔が興奮したせいか赤くなっていくのが分かる。
色々考えた末、わたしは思い切って傍に寄った。
「あの、こんにちは」
少し震えた声が口から出る。何て声をかければ良いか考えた結果、まず普通に挨拶してみることにした。んだけれど……。
「…………」
うーん、いくら待っても返事は無い。
寝ているのかな?
「あのすいません。聞こえてますか?」
さっきより声を大きめに出して再度試みる。
するとゆらりと尾びれが動いた。もしかして反応してくれたのかな。
「えっと突然すいません。姿が見えたので、追いかけてしまったんですけれど」
なるべく失礼の無いように言葉を選びながら話し掛けた。
小さい頃から憧れた人魚が目の前にいるんだもの。緊張しないなんで無理だ。
「知っておりましたとも。人の娘」
想像していたよりも甲高い、そして小さな女性の声が聞こえた。
大きく呼吸をしたのか、ゆっくり髪に隠れている体が上下した。
「妾は古より生きる人魚である。永い時の間を泳いで参った」
「やっぱり人魚なんですね!」
嬉しくて声を上げてみせるも、わたしとは正反対に人魚と名乗るその女性はずっと暗い雰囲気を出して水底に横たわっていた。
なんだか自分のハイテンションっぷりが場違いに思えて気持ちを落ち着かせると、そっとまた近付いた。
「どうしてわたしの夢に出てきたんですか? ここはあなたが作り出した世界なんですか?」
「妾が成したのでは無い。かと言って、関係無いという事でも無い」
作った本人じゃないけど、無関係じゃない?
ならこの水の世界の事情は知っているという事になるわよね。
「えーっと、もっと詳しく説明してもらっても良いですか?」
あまり鬱陶しくならないように努めて丁寧にお願いしてみる。
そうすればまた大きく尾びれを動かした。水の風がわたしの体を通り抜け、髪を靡かせる。
「今の妾は魂である。肉体はそなたの血肉となり溶け込んでいってしまった」
「……え?」
「もう暫し時が経てば何れ。我が魂もそなたの魂から離れ、常世の海へ渡る事になろう」
「まま、待って下さい! ちょっと待って! あなたの肉体はわたしの血肉にって、それってどういう意味ですか!?」
わたしの体の中に人魚の肉体が入っているって言う事!?
いつの間にそんな事が起きたって言うの?
「哀れな人の娘。お前は永遠に安らかな死から見放された」
「だからそれってど――」
混乱のあまり乱暴気味で掛けた言葉は、途切れて声にならない悲鳴に変わった。
ぐるりとこちらへ向いた彼女の体は、頭は人間そのものなのだが、首の付け根から下は全て魚だったのだ。
人面魚?! いや、そんなんじゃない! 顔だけが人間の顔じゃない。頭部が丸ごと人の頭になっている!
なんなのこれ!?
「そなたの云う人魚は存在して間もない若き人魚であろう。しかし妾は古より生まれた人魚。呼び名は同じなれど姿宿りし霊力は異なる者なり」
慌てパニックになるわたしを、無表情な能面のような顔をした女性が冷めた目で見つめてくる。
これが人魚?! これが!? あ、これなんて表現失礼だけど。
いやいや、今はそういう事は良い! もっと大事な事がある。ちょっと落ち着こう。
「ごめんなさい。驚いてしまって。その、初めて見たので」
本当はまだ混乱していて、受け入れたくない様々な事実はあるんだけれど、とりあえず今は黙らせる。
何度か目を強く閉じて無理やり落ち着かせると、改めて人魚と名乗ったその魚の体を持った女性を見た。
その目は虚ろで澱んでいてあまり生気は感じられず、疲れ果てているようにも見え、その姿のせいもあり不気味に見える。
あのわたしを通り抜けた活気のある泳ぎが出来る様には到底結びつかない。
でも、あの銀色の影がこの人魚なのか聞いてみたいけれど、今は別の事が最優先だ。
「あの、訊きたいんですけれど、さっき言っていた、あなたの肉体がわたしの血肉になったってどういう事ですか?」
「そなたは妾を食した。妾の肉を口にしたのだ」
「あなたの肉を?」
知らずに出されていた料理の中に目の前の人魚の肉が入っていて、それをわたしが食べたって言う事?
確かに見た目が普通の食事と変わらないであるなら、わたしは疑問も無く食べてしまったのかもしれない。
「人魚を食した事によって常闇に染まったそなたの魂に水の気が生まれ、この水の世を作り出したのだ。尋常ならざる人であるが為成せる事よ」
「尋常じゃない……」
その言葉にガツンと強い衝撃で殴られた気分になった。
ここに来てまで普通じゃないと言われるのか。しかもこんな初対面の人魚にまで言われるなんて。
「だが其れだけではこの奥の闇は創られぬ。これより先の闇は別の者がそなたの魂に結びつこうとするが故の闇である」
「魂に結びつく?」
「そなたがいるこの世はそなたの魂と鬼の呪いが結ぶ事によって創られたもの。この水の世とは別の場もあると思うが、心当たりはあるであろう」
「あ、はい。ここに来る前は鬼さんの、貪欲の鬼が見せる夢の砂利道がありますけれど、今の話からするとあの場所は」
「左様。鬼とそなたを結ぶ場所となる」
あそこはそういう場所だったのか。最初はただの夢だと思ったんだけれど、鬼さんに縛られた時から出来あがった夢だったのね。
それならいつ見ても普通の夢じゃないというのも納得がいくわ。
でも、他の誰かがわたしの魂(人魚の女性が言った、今いるこの夢と言えば良いのかしら)に誰かが接触しようとしているっていうのは、かなり気になる。
また河童の子みたいにわたしに用件がある妖怪なのかしら。
夢から覚めたら鬼さんに聞くなりしてみよう。きっと何かしらは知っていると思うし、対処してくれるだろう。
そう思った考え付いた瞬間、紫さんの言葉が頭に響いた。
『一人では何一つ出来ず』
思わずギュッときつく唇を噛んだ。
あの時紫さんの剣幕に圧倒されて反論らしい反論は全く出来なかった。それだけじゃなく、実際わたしは何一つ出来ないのも事実だ。
……ならせめてここは自分の夢でもあるんだもの。自分でなんとかしてみせようじゃない!
「色々教えてくれてありがとうございます。助かりました。……あと、知らないとはいえ、あなたを食べてしまってすいませんでした」
まさかあの一見普通の食事に人魚の肉が入っているだなんて予想できなかったんだもの。お刺身も普通に食べていたし、やっぱり生肉だけじゃなく生魚も避ければ良かった。
「そなたは人魚を食すと如何様な者になるか知っているか?」
「え? いいえ」
「今から幾数百年か前。一人の女が妾と同じ人魚を食したそうな。その女は不老長寿となり孤独に一人生き永らえ、最期にようやく塵となって天に上ったそうだ」
虚ろな目がわたしに向けらた。その焦点の合わない瞳はどこかあの花魁たちと同じ憐みを滲ませて濁っている。
「常闇に染まった魂からか、それとも妾の肉がそなたの血肉に良く馴染んだのか。そなたは不老不寿と成った」
「……は? 不老、不寿?」
「哀れな。いくら若さを保とうと、安らかな死から見放されるのであれば、病や傷を負い苦しんで死ぬより他は無い。なんと哀れな人の娘よ」
意味が分からない。なんなの? 不老不寿?
そんなまさかお伽噺じゃあるまいし。だいたい人魚を食べたらそんな事になるだなんて聞いた事ないわ。
必死で今聞いたものを否定しようとしたものの、全身は強張って顔も引き攣っている。
なにより哀れだと痛々しくわたしを見る人魚の澱んだ目が何より、自分の身に起きた異変が本当の事だと知らされずにはいられなかったのだ。