十二ノ怪
「ねぇ鬼様。私鬼様と二人きりでお話したいですわ」
鬼さんの肩にしな垂れ腕を絡ませる。
わたしはその様子を部屋の隅に背中を預けて眺めていた。そうでもしないと、このプライドの高い女郎蜘蛛はわたしを睨み殺さんばかりに睨んでくるんだもの。
鬼さんにしがみ付いた後、この嫌味花魁はうっとりと鬼さんの手を取って、部屋に招き入れようとした途端にわたしの存在に気づき、案の定物凄い目つきで睨みつけてきた。
そして鬼さんに散々苦言を言ってのけたものの、鬼さんが黙らせるように花魁にキスをしたことによって、ようやく渋々としながらわたしも部屋の中へ入れたのだ。
「今日は目交う為に来たんでは無いンでな。また今度相手してくれ」
手をひらりとさせて、拗ねる花魁を鬼さんは宥める。
それを上目遣いで濡れて光る目を向け、するりと鬼さんの胸元に華奢な体を滑り込ませた。
「気紛れなお方の『今度』なんて信用できませんわぁ。今すぐお相手して下さいな」
銀糸の蜘蛛の巣に金糸で彩られた蝶が刺繍された着物が、鬼さんの膝と畳の上に垂れる。帯も暗めの金と黒が複雑な模様を浮かべて扇情的に映える。
「俺がお前との約束事を違えた事はナイだろう?」
「鬼様の今度はいつになるか分りませんわ。こうしてお会い出来たのですから、ね? お話はそれからでも遅くないですわ」
艶っぽい唇が鬼さんの顔や首筋に寄せられ、紅葉の着物の線をなぞるように白い指が動く。鬼さんもまんざらでも無いようで強く止めるようとはしない。
ただ皮肉っぽいとも困ったともとれる顔をして、花魁の髪や頬を撫でて何かしらを形の良い耳に囁いている。
うっとりと睫毛の長い瞳が濡れて妖しく光り、鬼さんの紅を覗き込むように添えられ、端正な鬼の口に花魁の形の良い指がなぞる。
な、なんだか本格的にいちゃつき始めたわね。大人の世界に入るならわたしが居るのを忘れないで欲しい。
とにかく、ここにいるのは居心地悪いし、そっとこの部屋から抜け出そうっと。
鬼さんが誰といちゃつこうが一向に構わない。むしろそれでわたしに対する興味が薄れるのならまさに願ったりだ。
ただ興味が無くなった後の待遇は良いものではないと予想できるから、それはそれで頭の痛いところではあるけど。
元の世界に戻れないのであれば、常闇で誰もいない場所を探してひっそりと暮らすしかない。衣食住などの問題は山積みとなるが、片足を妖怪の域に突っ込んだこの体であるなら、無理をすればなんとかなるかもしれない。……とっても楽観的な考えではあるし、自分の状態を認めたくはないけれど。
チラと見ればわたしの首から垂れる紅い紐は鬼さんの腕に繋がったままだ。ギリギリ扉の外までなら大丈夫そうだわ。
静かに物音をたてないよう細心の注意を払って扉の取っ手に手をかける。それから開けようと指に力を込めた。
静かに静かに。二人に気づかれませんように……
ドスンッと物凄い音と同時に、顔の真横に何かが刺さった。
声も出ずに固まる。それから錆びたロボットのような動きで顔を横へと向けた。
目には金色の簪が一本頑丈な扉に突き刺さっており、あと数センチで自分の耳に掠める位置だった。思わず青褪め頭がくらりとした。
それから息を詰めつつ、ギギギという音が鳴りそうな動きで恐る恐る振り返った。
「何処に行こうとして居るのカナ」
目の先には紅をぎらつかせてわたしを睨む鬼さんと、鬼さんの肌蹴た胸に手を置き、目を見開いて驚く嫌味花魁がこちらを見ていた。
花魁の頭に刺さっている蜘蛛を模した簪は広げた足の部分が一本欠けており、扉に刺さっているのは恐らくその欠けた一本なんだろう。
本当に危ない事この上ない。
ていうか、なんで声をかける前にこんな危ないことをするんだろう。当たったらどうするの!?
内心縮み上がりながらそれでも悪態をつき、鬼さんに目を向けた。
「あ、えーっと、お邪魔みたいなので、失礼しようかと思いまして」
「変な気を利かせンで良い」
戻れと指でわたしに指示するのを見て、わたしはゴクリと喉を鳴らしたあと、渋々元居た場所に座った。
まさか鬼さんと花魁がイチャつくのを見ないといけないの? 本当に心から勘弁して欲しい。
「今日はこの通り俺の雀が一緒なんダ。近いウチに必ず寄ってやるから機嫌直せ。ナ?」
小さな顎に指を添えて鬼さんが花魁の頬を軽く撫でた。
嫌味花魁も今日はもう無理だと悟ったのか、「んもう!」と渋い顔を浮かべて鬼さんから離れた。
「私を袖にしたこと。高くつきますわよ」
「分かってるカナ。倍にして支払ってやるサ」
ツンと顎を上げて綺麗な顔を背ける。それでも鬼さんは軽く肩を竦めて、悪いとは思っていないのが明らかな態度で「すまんナァ」と笑った。
花魁はむっつりと黙り、それから静かに鬼さんとわたしを交互に見やって、きつめの目元を細めた。
「それで? 御用というのは?」
「ここ最近で現世の水辺に住んでいる奴等が襲われ消えているらシイ。網を張り巡らせたお前ならナニか知っているダロ?」
鬼さんの言葉にちょっと目を下げた後、「あぁ」と呟いて紅を引いた唇を動かした。
「私達女郎蜘蛛もそうですけれど、お客様の間でもちょっと噂になっているのですよ。鬼様もご存知でしょうけれど、現世から川男が逃げてきたでしょう? その前にも何人か常闇に逃げて来た者がいるみたいで」
「俺ら鬼の国以外にも、逃げて来た奴の知らせがあるのカ?」
「えぇそうみたいですわね。しかも皆口を揃えて見たことがないようで。なんでも水面に突如大口が開いて、妖怪を丸呑みにしてしまうとか。あまりにも一瞬のことでその正体を見た物は未だにいないようですわ」
二人の会話を聞いてわたしは興味津々に見つめる。
鬼の国って以前誰かが言っていたけれど、鬼さん達が治める以外にも他の妖怪が作り上げた国ってあるみたいね。
正体不明の妖怪については誰も見たことがないとなると、なかなか捕まえるのも難しそうだ。
その妖怪の目的とか分かればまだ打つ手がありそうなものだけど、どうにかならないかしら。
そもそも妖怪なんて食べてどうするんだろう。人間を襲うならまだ分かるけれど、妖怪や土地神(っていうのかな)を中心に食べてしまうなんて。何が目的なのかしら。
「ですが貪欲の鬼様が自ら動くなんて、どうなさったのです? いつもならご興味がなければ黙っていらっしゃるのに」
不思議そうに艶っぽい首筋を傾けて鬼さんを見る。
悔しいけれど、やっぱり女のわたしから見ても花魁はとても綺麗だ。仕草一つ一つが艶かしい。
「この雀もそうダガ、他の奴からも何度が嘆願が届いていてナ。別段珍しくもナイと放っておいたンだが、現世から滝の主まで出しゃばって来やがって。まぁ暇だしナ。動いてやることにしたワケだ」
……ということは、わたしが直談判しなくても鬼さんは動くつもりはあったのね。
なんだ。結構勇気を振り絞って鬼さんに立ち向かったのに、なんだか損した気分だわ。
あ、でも滝の主が現れる前までは行く気が無かったのは事実だから、わたしの訴えも無駄にはなっていないのかな。
「私達も滝壺を扱っている身としては他人事ではありませんから。鬼様が動いて下さると頼もしい限りですわ」
滝壺を扱う? え? 蜘蛛って泳げるの? 泳がないにしても滝壺を使うって何に使うんだろう。
確かこの遊郭って、大きな滝をコの字に囲むように建てられているのよね。
その龍を連想させる荘厳な滝の真下には大きな滝壺があり、そこから淡い光が漏れ、周りの花が咲き乱れる庭をとても幻想的に浮かび上がらせていた。
今回は外の廊下を歩いてい行かなかったから見えなかったけれど、きっと今見ても綺麗なんだろうな。
「常闇ではまだ襲われた話は聞きませんが、まだ若い妹分は庭の滝壺に近寄るのも怖がるような者も出てきておりまして。大きな騒ぎではないとしても、困っているのですよ」
やっぱり妖怪のことって、まだまだ分からない事だらけだわ。こう妖怪同士の話を聞いていると、いかに自分が常闇の常識を知らないのか嫌でも知る事になる。
「マァ何か分かったらマタ教えてくれ。花代も弾むカナ」
「必ずですよ。私はいつも鬼様を想ってお待ちしているんですから」
拗ねつつも指が妖しく動いて、艶やかな眼差しで鬼さんを見つめる女郎蜘蛛。鬼さんのどこに惚れたのか全く理解できない。
金払いの良いお客さんだから親密な接客をしているわけではなさそうだし。……恋愛経験の無いわたしが言うのも変だけれどさ。
「それにしても鬼様の雀。なんだか水の匂いがしますわね。魚臭いと言いますか」
「え?」
いきなり水を向けられて肩が跳ねる。
目を見開いて嫌味花魁を見れば、どこか複雑そうな顔をした、何とも言えない顔をしてわたしを睨むように見据えていた。
「魚の匂い? 水? それってどういう」
「錦」
わたしの声を遮り、鬼さんが花魁の肩を掴んできろりと紅を向けた。
「コイツには誰とも話すナと言ってある。だからお前も余計なことは言うナ。外くらいお喋り雀は黙って貰わンとナ」
ふざけた口調で言いつつも、有無を言わさない雰囲気を出しながら花魁の肩をそっと撫でる。
嫌味花魁も何かを察したのか、ひと呼吸おいてから「畏まりました」と珍しく改まって応えた。
なに? 今の何なの?
不安に二人を交互に見るけれども、またわたしを抜いて話を始めてしまった為、わたしはじっと部屋の隅で壁に背を預け、待つしかなかった。
二人の話は終始艶っぽい事は無く、本当に仕事の話や世間話ばかりで大人の会話、というものだった。
どこの誰が私腹を肥やしているとか、領土争いでどこぞの妖怪と妖怪が小競り合っているとか。現世では土地神の苦情がどうたらとか、そんな話ばかり。
女郎蜘蛛がそうなのか、または遊郭という場所がそうなのかは分からないけれど、どうやら情報収集に長けているようで、様々な情報を鬼さんに伝えている。
わたしも耳をそばだてて注意深く聞いてみる物の、聞き慣れない言葉や知らない妖怪のことばかりでまったく要領が得られない。
やっぱり常識も世間も知識も無ければ、目の前にヒントが転がっていても、拾う事が出来ないのね。
はぁとわたしは二人から隠れるように肩を落とした。
ようやく帰る時間になると、鬼さんがわたしを紐で引いて部屋から出るよう促した。
紐で繋がれた今の状況からして、きっと何かまた嫌味花魁から言われるんだろうと身構えていた。
でも意外な事に花魁は繋がれたわたしに対して何も言わず、目を合わせないで鬼さんの傍に寄りながら廊下を進んでいった。
いつもなら会った時同様、鬼さんが居てもいなくても睨んでくるとか、鼻で笑ってきたりするのに今は何もしてこない。
今日は思いのほか機嫌が良いのかしら。
鬼さんとはイチャつけなかったとは言え、会えたんだしね。
来た時と同じ道順でいくつもの階段や廊下を通り、嫌味花魁は玄関まで鬼さんを見送る為に、豪華な着物を黒い床に広げながら佇んだ。
「またお待ちしております。近いうちに必ずいらして下さいね」
「アァ分かったカナ」
鬼さんはそう言ってヒラリと手を振った。
あっさりとした別れの挨拶にチラリと花魁を見ると、何故か鬼さんではなく、わたしを見ていた。
な、なに?
相変わらず睨んでいるんだけれど、その眼差しには別のものが含まれている気配があった。
なんというか、無表情とも取れると言うか、有り得ないけれども憐みとも取れるものが伺えると言うか。複雑なものが艶めかしい視線から読み取れる。
鬼さんがいないなら色々聞きたいところではあるけど、そうはいかない。
話すわけにもいかないし、取り敢えず会釈でもしておこうかな。黙って背中を向けるより、きっとその方が無難よね。
わたしは気持ち程度に花魁へ頭を下げて、鬼さんの背を追いかけるように暖簾を潜ろうと踵を返した。早く行かないと文句言われてしまう。
「お前はもう年季が明けないのね」
追いかけてきた声に足が止まる。
訝しんで振り返ればじっとわたしを見る女郎蜘蛛の花魁。華やかな着物に身を包み、その豪華さに負けないほど整った綺麗な顔をして、漆黒の床に佇んでわたしを見つめる。
「年季?」
花魁は、眉間に皺が寄せられ、機嫌が悪いとも苦渋ともとれる表所を浮かべている。
こんな顔を見るのは初めてだわ。
それに年季ってなんだろう? 年季が入っているとかなら聞いたことがあるけれど。それとは違うのかしら。
ぐいっと首に繋がる紐が引っ張られる。
思わず強く引かれて転びそうになり、問い返す間もなく頭に暖簾が被さって、強制的に玄関から出てしまった。
花魁の姿が見えなくなる直前、厳しい顔をした彼女の姿がどこか哀れんだものを含んだものなんだと、何故だか感じずにはいられなかった。