十一ノ怪
ぐらぐら揺れる。体も軽い。また、夢の中なのかしら。
静かに目をそっと開けてみる。
やっぱり前に見た景色と同じで、わたしは水の中でまた漂っていた。
下を見れば前と比べて少しだけ水が澄んでいて、白い水底が僅かに見えた。
本当に不思議な夢ね。息も出来るし、濡れている感じはしない。なのに、身につけている浴衣や髪はゆらゆらと水中に漂い、わたしも波間に揺れている。
上を見上げれば、水面が光を零れさせて波を立たせていた。
今日は上には誰もおらず、なんの影も見当たらない。
あの上はどうなっているんだろう。どこに出るのかしら。
わたしは好奇心に背中を押されて、手足を動かして水面に向かって上昇した。
まるで魚になったみたいに、ちょっと動いただけでスムーズに水の中を泳げた。そんなに水を掻いたりしなくても、すぐに水面近くまで上がってこれたのだ。
手を伸ばせば届く距離に歪んだ四角い模様を作っている水面が迫る。わたしは少し警戒しながら、そっとそこから顔を出した。
ん? あれ、ここって……。
見えた光景に目を瞬かせる。
暗い空に鬱蒼とした木々の群れ。その中に横たわる砂利道。
ぐるりと見渡せば、いつも見てきた不気味な木々に囲まれた、あの暗い現実味の強い砂利道だった。
ど、どうなっているんだろう。だってさっきまであんなに明るかったのに。
不可解さに頭が混乱しかけて眉を寄せる。
水の中から見た頭上は陽の光が燦々と降り注いでいたのに、どうしてこの暗闇ばかりの砂利道に出るのかしら。
この一本道の砂利道は、片方の道を行けば教室のドアへと続き、光あふれる懐かしい場所に続いている。
そして逆方向へ進むと、辿り着く先には深い闇が広がり、恐らく鬼さんが作り出したのであろう、闇が蠢く深い森の中へと続いているのだ。
今わたしがいる場所は、ちょうどその中間地点といって良い場所だった。
意味が分からないながらも水の中から這い出ると、体は全く濡れておらず浴衣も乾いたままだ。
しかも今出てきた水面を見れば、やや大きめの水溜りで、わたしがなんとか通れるぐらいの大きさだ。見上げていた水面とは面積が随分と違うわ。
夢だから何でもアリなんだろうけれど、本当に不思議よね。
顔を上げて深い森に続く方向を見る。やはり暗い木々が広がるだけで、今は鬼さんがいる気配はない。黒い霧のようなものも見えない。
いつもなら鬼さんがわたしをこの砂利道の夢に引きずり込んで強制的に悪夢を見せてくるのに、何故か今日は不在のようだ。
安心してしまうけれど、じゃあわたしはどうしてこの夢を見ているんだろうと疑問に思う。
もしかして今回ばかりは、本当にただの夢ってことなのかしら。
その割には、やっぱり現実味が強すぎるんだけど。これからどうしろっていうのかしら。
ちゃぽんと水の音が鳴る。
戸惑って困っていたわたしは、直ぐ様音のした方へ振り向いた。
今さっき這い出てきた水溜りが、ゆらゆらと波を立てて水面を揺らし、キラリと光っていた。
なに? 何か飛び込んだの?
訝しんで水溜りに近寄り、水面をそっと覗き込む。
波が立ち、幾つもの輪っかが水面を揺らめかせてキラキラと光る。そして次第に波紋が落ち着いてくると、銀色に輝く満月が水面に浮かび上がった。
……え? 月?
眉を寄せて空を見上げる。
空は常闇と同じ暗闇ばかりが広がり、月どころか星さえない。なのに、水溜りには無いはずの月が映っているのだ。
どうなっているんだろう。
不思議な現象に、眉間に皺を寄せて鏡のような水面を凝視する。
月は漆黒の背に銀色に輝いて、今にも滴りそうな穏やかな光を零れさせていた。
その時キラリと銀色の何かが、月を打ち消して水底を横切った。あまりにも早くて姿が掴めない。それは素早く視界の端に消えて行った。
「あ、待って」
言った瞬間、わたしは手を滑らせてまた水溜りの中に飛び込んだ。
ざばんと波が立ち、飛び込んだ衝撃でもうもうと湧き出した泡がわたしを包み込む。
しばらく白い玉の群ればかりしか見えなかったけれど、ようやく落ち着いた頃に、やっと辺りが見えてきた。
目の前に広がるのは澄んだ水底。さっきとは違って水中はハッキリとした透明感が広がり、どこまでも続く水底には、上から零れる光で出来た網目模様が広がっていた。
「綺麗……」
水面から漏れる光が水底に波間を写して、ひらひらと透明の布がなびいているみたいだ。
もっと辺りをよく見れば、あちらこちらに赤い珊瑚が生えて、その周りを銀の粒となった泡や緑の海藻が、ゆらゆらと揺れて踊っていた。
とても幻想的。なんて素敵なんだろう。
それになんていうか、こう、懐かしいような。不思議な感じがする。
ゆらりと水流が風の様に顔の横を通り過ぎる。髪が巻き上げられて首を撫でたら、何とも言えない爽快感が体を突き抜けた。
うわ、気持ち良い! なんだかくすぐったい。
初めて見る光景なのに、やっぱり何故だか懐かしい。こんなに居心地が良いと、ずっとここに居たくなってしまう。
うっとりとして、わたしは海底に足を付けてみた。
ふわふわとして覚束無い足元。すごい。まるで無重力を体験しているみたい。
つま先が砂に触れると、少しだけ白い砂に埋もれた。
ちょっと足先に力を込めれば、いとも簡単に体が水中に浮く。
わたしここに居たいな。
ずっとこの場所で微睡んでいたい。
足を浮かせて無重力に体を倒し、水の中に背を預ける。
光が透明の天井から差し込んで眩しい。涼しげな水の中が心地良い。ここに帰りたい。
仰向けのまま輝いて揺れる水面をぼんやりと見つめた。
そこへ急に、わたしの上を銀色の影が横切った。
慌てて体を捻って影が泳いで行った先を見る。けれども、遠くの方でチカッと輝いたのが一瞬見えただけで、直ぐに何も見えなくなってしまった。
あれは一体……。なんだか魚にも見えたけれど、魚にしては大きく、ちょっと形も違うような。
あれって、なんなのだろう。
水溜りの上から見た影と同じなのかしら。
わたしはその場でふわふわと水中に浮いたまま、去っていった影を見つめ続けた。
・・・・・・・・・・・・・・・
「オイ、着いたぞ」
揺り動かされて、わたしは目を開けた。
薄らと見えた視界には、紅い鬼さんと揺れる牛車の中の様子。そしてガタガタと車輪が回る音。
あれ? ここって牛車の中?
未だぼんやりとする頭をなんとか働かせれば、これから女郎蜘蛛の所へ行くんだったと思い出す。
わたし車の中で眠っていたんだ。全然寝たの覚えていなかった。ちょっと疲れているのかな。実際寝不足気味でもあるしね。
それにしても不思議な夢だったな。
明るい日差しが白い水底に射し込む中、息も出来て散歩も出来るなんてとっても素敵な夢だった。
ああいう夢ならいつだって見たいわ。
「降りる準備をしナ。ちゃんと目を覚ませておけよ」
「はい」
言われた通り目を擦って、まだ寝ボケている頭と目を覚ますように、ごしごし顔を腕で拭う。
「さてそろそろ降りるゾ。今回は話を聞くだけだから俺の傍を離れるナ。あと誰とも口をきくナ。目を見るのもダメだ」
「分かりました」
わたしは膝の上に置いておいた笠を手に取り、頭に乗っけた。
どうしても灰梅の瞳を見られたくなくて、薄布で顔を隠せるタイプの笠を鬼さんから借りて持参したのだ。
そう考えると、他の妖怪との接点を少なくしろという鬼さんの命令は有難いというものだ。ずっと目を伏せて鬼さんの横で小さくなっていれば良いのだから。
牛車が止まり、鬼さんに促されながら車から降りる。
今日は動きやすい雀の模様をした茶色い着物を着て、首には鬼さんの所有物の証である首輪が嵌めて紅い紐が結えられていた。
鬼さんの腕がわたしの肩に掛かり、だらりと胸の前に垂れる。わたしは大きな体に押される形で歩を進めた。
後から歩く鬼さんの体に、なるべくぴったりと背中を着けて歩く。
そうでもしないと、首の後ろから繋がっている紐が丸見えになるのだ。
髪を下ろしているので、首の後ろから垂れる紐は見えずらくはあるのだけれども、鬼さんから離れすぎると紐で繋がれているのが見えてしまう。
紐で繋がれているのを他人に見られたくなんてない。
だって自分が鬼の奴隷として晒し者にされているようで、とても嫌なんだもの。
でもそうなると、必然的に鬼さんの傍をなるべく密着するような形で歩かなければならなかった。
鬼さんもわたしの意図に気づいているのか、背中を張り付かせて歩くわたしに、特に何も言わずにのんびりと歩いていた。
玄関前に佇んで、目を上げる。
妖しく灯る提灯がいくつも連なり、大きな玄関からは柔らかな光が溢れている。
前来た時とは変わらない光景。
ここに大勢の妖怪が客として来て、女郎蜘蛛たちが遊女として持て成す遊郭。
ここに連れて来られる度に嫌な思いをしてきた。思い出すだけでぶるりと体が震えた。
歓迎はされないと事前に分かってはいても、気持ちはどうしても沈んで行ってしまう。
大勢の妖怪に囲まれれば途端に好奇や嫌悪の目に晒される。おまけに今は鬼に紐で繋がれている状態だ。絶対に嫌な目に遭う。
躊躇して足を止めてしまうわたしを、鬼さんが体でゆるりと押してきた。わたしも観念して仕方なく玄関に足を踏み込んだ。
暖簾をくぐれば高い天井。広い土間。
そしてそこには藤の花が咲き誇る薄紫の着物を着た、一人の凛とした女性が佇んでいた。
「お待ちしておりました、貪欲の鬼様」
「おぉ銀糸、久しぶりだナ。ンで、錦はいるカ?」
「はい。お部屋でお待ちしております」
すっと背筋を伸ばし、涼やかな目元を優しく細めて微笑む女性。
きっとこの人も女郎蜘蛛の妖怪なんだろう。優雅な動作で鬼さんに応え、案内致しますと裾を翻した。
そう言えば、この人。何度か見たことあるかも。
他の女郎蜘蛛と違って物腰が柔らかくて、とても穏やかな上に優しげな印象の遊女さん。
いつだって別に馬鹿にするわけでも好奇の目で見るのでもなく、至って普通に接してくれるのだ。
この遊女のお姉さんに連れられて、わたしは鬼さんに紐で繋がれたまま一緒に歩き出した。
いくつもの廊下を通り、漆で黒光りした階段を上り、奥へ上へと進んでいく。幸いにも誰ともすれ違うことなく、鬼さん専用である離れの部屋へ辿り着いた。
「こちらにてお待ちしております。それでは私はこれにて失礼せて頂きます」
丁寧に頭を下げ、するすると藤の花が咲き誇る紫色の着物を垂らしながら、お姉さんは廊下へ歩いて去っていった。
目の前の金色の襖に目を向ける。
この中にあの意地悪な嫌味花魁がいるのか……。考えただけで胃がキリキリする。
「あの鬼さん……」
「なんダ?」
「わたし多分、この中にいる花魁さんに大変嫌われているからあまり会いたくないんですけれど……廊下で待っていても良いですか?」
情報は欲しいけれどあの嫌味花魁には極力会いたくない。
過去何度みんなの前で馬鹿にされ、嫌味を言われ、睨みつけられたか数え切れない。
それに鬼さんとわたしが一緒にいるのが大層気に入らないようで、わたしが鬼さんの傍にいると青筋立てているのが良く分かる。
出来れば鬼さんがこの嫌味花魁に興味が移って、ついでにわたしを家族の所へ返してくれれば一番良いのだけれど、そんな都合のいい話はある訳が無い。
だいたい帰ったとしても、みんなわたしの事を忘れているのだから意味が無い。
でもこんな真っ暗な世界にいるよりはずっとマシなんだろうけれど。
「俺だけ行ってドウする。それに鈴音が言い出した事ダロ? ナニ心配するナ。俺もいることだしナ」
ポンポンと頭を軽く叩かれると、鬼さんはわたしの前に出て襖を開けた。
「鬼様ぁっ」
聞こえた甘い声と同時に、鬼さんの体が揺れた。
肩から降った紅葉が広がる背中に、白魚の手が回され添えられた。
「お会いしたかったわぁ。どうしてもっとお会いになって下さらないのぉ」
露骨に媚びた甘えた声にぞわりと背筋が震えた。き、気持ち悪い……。
思わず露骨に苦い顔をすれば、笠の薄布越しに蜘蛛を模した金色の簪が見えた。