敬畏
それから二年が経ったある日、クリスは突然あることをアンに言いだした。
「私はともかく、アンさんが一生ここを出られないのはおかしいですよ。」
高い壁に唯一開けられた出入り口から簡単に外へ行くことはできる。だがその穴には鉄格子が下りており、それは外からしか上げることはできない。しかし、外にでる準備をするよう急かすクリスに、アンは仕方なく手持ちで最も小さいリュックに貴重品だけを入れて出口に向かった。
出口に着くと、クリスは左手をアンに差し出した。
「握ってください。」
素直にアンがその手を握ると、クリスはその手を握り返した。
「絶対に離さないでくださいね。」
するとクリスの足元を中心に、あの日掌で見ものとは違う、しかしその何十倍もの大きさの陣が展開された。
「最近足元からも出せるようになったのです。」
そういうと、クリスは正面を向き膝を少し曲げた。
「私が飛べって言ったら、ジャンプしてくださいね。」
ここまでくると従うしかなかった。
クリスの合図とともに、遊びでやるように二人同時にジャンプする。すると二人に体は中に跳ね上がり、それは一瞬にして壁の半分に到達し、みるみるうちに壁をも超えてしまった。体が落下を始めた瞬間、クリスは空いている右手を壁に翳し、そこに陣を映した。そこから腕が生えたかと思うと、二人を握り壁の上に下した。腕は壁に戻った。
「まだ外に出てませんよ。」
クリスはアンの手を握ったまま迷うことなく壁の縁へ走り、下に落ちた。すぐ右手を地面に突き出し陣を映す。地面に激突する寸前、体が浮く感覚がすると地面に尻もちを着いた。
アンは間放心状態でその場を動かないが、クリスは直ぐに立ち上がりにやにやしている。しかしなかなか立ち上がらないのを見かねてアンに手を差し出し、引き上げた。
「この道をまっすぐ行けば一般道に着きます。一番近い町へはそこから歩いてに二十分もしたら着くと思います。図書館にあった本からの情報なので変っているかもしれませんが。」
「クリスさんは行かれないんですか?」
「私はここでいいです。まだいくつかこの壁を使って試してみたいことがあるので。日帰りなんてケチなこと言うつもりありませんから、なんなら久しぶりに家族に会いにでもいったらどうですか? 彼らにばれない範囲で。」
しかし、そこから動こうとしないアンに見かねてクリスは言った。
「勝手に出て行ったりしませんよ、約束します。」
クリスはアンに対して嘘を言ったことは今までに一度としてない。だが、アンは踏ん切りをつけることがなかなかできなかった。
「帰ってきたら、外のこと教えてくださいね。あ、ここに着いてたら私の名前を呼んでください。聞こえるので。」
そういうとクリスは来た時と同じように壁を越えていってしまった。
残されたアンは仕方なく町に向かうことにした。
アンはその日の夕方帰ってきた。決してクリスが信じられなかったわけではない。自分だけこのような、と思ったことは否定しないが、その日に帰ってきた最大の理由は不安になったからだった。出ていったかもしれないという不安ではない。陣の展開に失敗かなにかしていたらという不安だった。
しかし入り口でアンがクリスの名を呼ぶと十五分もしないうちに彼女は壁の上から現れた。
「楽しめましたか。」
「・・・はい、ありがとうございました。」
「それはよかった。夜ごはんはもう準備できてるんです。食べながら何があったのか聞かせてください。」
「はい、喜んで。」
それ以降、三か月に一階のペースでクリスはアンを外に送った。アンもそれを拒むようなことはしなかったが、家族に手紙を送り、図書館にはない本を探したり、少し遠出してみたりしたが必ずその日の夕方には壁へ帰ってきた。
アンはこの十年、クリスに仕えてきた。それは彼女の力を恐れてではない。彼女にカリスマ性とは少し違う、あの絵の中に居るルドルフのような抗いがたい何かを感じるのだ。




