出発
十五分ほど経った頃、鳥が去って行った方向の木々の間からレオが人の姿で現れた。彼は自分の後ろを親指で差しながら口を開いた。
「ここをまっすぐ行ったところに整備はされていないが細い道がある。それを太陽が見えている方角に進めば森を出られる。」
クリスは礼を言うと、本を鞄に詰めて立ち上がりレオに近づく。彼女がレオを通り過ぎてそのまま進もうとした時、クリスの足元を見て口を開いた。
「お前、そのまま森を歩くつもりか。」
「これしか持ってないしね。」
口をへの字にしながらの回答にレオはため息を吐き、カモシカに姿を変えた。
「乗れ、森を抜けるまで乗せてやる。」
生まれてこのかた馬にも乗ったことがないクリスは、屈んで乗りやすくしているレオの背に恐る恐る跨る。レオはクリスが自分の上で重心を安定させるのを感じて曲げていた足を伸ばして戻ってきた道を歩きだした。
クリスは十mを越える壁に上ったことがあるので高さに対する恐怖心はない。反対に、自分が歩いていないのに動く風景や規則的な揺れ、いつもより倍以上高い視線は彼女を年甲斐もなくわくわくさせた。バランスを崩さないように慎重に空を見上げる。先ほどまでいた場所と同じく、高い木々の枝で空自体は見ることはできないが、間から零れる光がクリスには葉が輝いているように見えた。
「まるで子供だな。歳は幾つだ。」
顔を下げて左右を眺めながらクリスは答える。
「最近二十三になったとこ。生まれ育ったのは町中だったし、十三歳からずっと壁に囲まれた家で暮らしてたから、こういう景色に全く縁がなかったんだ。憧れてもいた。」
「そうか。」
木の葉の擦れる音に混じって鳥の鳴く声がする。人工物が何一つない世界が彼らを包む。今が夜じゃなくてよかったとクリスは密かに思った。夜にはこの森は完全な闇に包まれるだろう。例え動物に襲われる可能性が低くても、ここで野宿は避けたかった。
十分ほど歩いた後、レオは立ち止まってクリスに降りるよう指示を出した。クリスが彼の背を下りて前を覗くと、そこから坂になっており、木々の間隔も広くなっていた。
「ここを下れば道に出る。乗せて降りられなくはないが、失敗すると私はともかくお前が危ないからな、私の髭でも掴みながらゆっくり下りろ。」
クリスは言われたと通りにレオの髭を掴み、ゆっくりと坂を下る。二十メートルほど下ると、人が歩いて出来たと思しき獣道に出た。レオは森の出かたを説明した時、道に出たら太陽がある方向に進むと言っていたのを思い出し、クリスは空を見上げて太陽を探した。木々に隠れてなかなか見つけられないクリスを置いて、レオは左側に体全体を向けて再度腰を屈めた。それに跨ると、再び二人は野山を歩き出した。
「私たちは方角としてはどっちを向いてるんだ?」
「西だ。この世界でも太陽は東から昇り西へ沈む。」
「じゃあ、もう午後は過ぎてるな。」
「あちらの世界を出たのが二時ごろだったか。なら四時前ってところだな。」
「向こうとこっちって時間の経過一緒なの⁉」
クリスの声が予想以上大きかったのか、レオは耳を少し内に丸める。
「この際、世界の成り立ちくらい知っておくか。」
「ご教授お願いします。」
クリスは少し前屈みになって背に手を付き、レオの話に集中した。
「お前がこれまで生きていたあちらの世界は地上世界と呼ばれる人が人を統治する世界だ。その他にも三つの世界が有る。一つは、全ての世界で生きる者達が死に、そして次に生まれるまでの安息の地である霊魂世界。お前の様な者以外は死んでからしか行くことのできない世界だ。二つ目は異形の者たちが住まう地獄世界。朝昼という概念はあるが晴れることのない雲に空が覆われ常に薄ぐらい世界だ。そして最後はお前が今いるこの世界、神が実在しかつ神が人を統治していた世界、天上世界だ。」
「していたって、過去形ってことは今は神様はいないの? 」
「地上世界は一度生命の全くいない更地になったことがあってな。その際、四つの世界のバランスが保てなくなって四つの世界は一度崩壊している。その名残が虚無の海だ。その際、再び世界を創造するのに体がもたなくて全ての神が眠りに就いてしまった。本来なら神が治めてるはずのこの世界は更地になることはなくても常に不安定な状態なんだ。」
「眠ってる、ね。」
「神が起きていても、彼らが地上世界の人間のように政治を行うわけじゃないがな。」
「それってどういう」
「森を抜けたぞ。」
クリスは遮られた質問をあきらめて前を向くと、そこには彼女ほどの高さしかない木と草だけが広がり、青い空がようやく見えた。
「もう少しこの景色が続くが、ゆっくり行って一時間ほどしたら小さな町が見えてくる。取り敢えず今日はそこまででいいだろう。」
「そこまで見てきてくれたんだ、ありがとう。」
クリスはそう言いながらレオの背から降り、伸びや屈伸をして体を慣らした。
「まだだいぶ歩くぞ。」
「町に着くまで乗ってる訳にはいかないでしょう。別に急いでるわけじゃないし、時間もまだ余裕が有るみたいだからゆっくり行こう。」
彼女の言葉にレオもカモシカの姿から人の姿になり、二人は町を目指して道をまっすぐ歩き始めた。
十五分ほど歩くと、片側に畑の様なものが広がり始めた。何が栽培されているのか分からないが、徐々に人の存在を感じる物が目に付き始め、世界自体が違うが、自分は今壁の外にいるんだという開放感が彼女の中に満ち始めた。




