落ち葉は風をうらむか
鈴乃先輩の自殺の原因は誰にも分からなかった。
死ぬほど悩んでいた様子はなかったし、遺書らしきものも出てはこなかった。
私はその日、ひどい夏風邪をこじらせていて、先輩の訃報も朦朧としながら布団の中で聞いた。
悲しみや驚きは不思議と感じなかった。
頭がしびれたように麻痺して、事実を受け付けなかった。
熱のせいもあったのだろう。
浅い眠りの中で、繰り返し襲ってくる墜落感にただ翻弄され続けていた。
私は、鈴乃先輩が通っていた大学の学生ホールにいた。
定期テストが終わった後の大学はひっそりとしていた。
私の通う大学も、試験期間になると、それまでどこで生活していたのか知れない連中が、次々と現れて、滅多に講義に出てこない人達で学生ホールにも居場所がないほど込み合う。
どこの大学でも同じなのだろうか。
まだ高校を卒業する前、先輩につれて行かれた事のある美術サークルの部室まで記憶を頼りに行ったが、部員達はスケッチ旅行の準備のため、みんな出払っているという。
知った顔はなく、留守番の新入生が二人いるだけだった。
「もうすぐ帰ってきてもいい頃です。待ちますか?」
と聞かれた。
大野さんが戻ったら学生ホールに来て貰えないかと伝えて欲しい、と頼んで名前を告げた。
大野さんは、鈴乃先輩と同じサークルの人で、鈴乃先輩と一緒に何度か食事したり、遊びに行ったりしたことがあった。
雇っている清掃員も夏休みらしい。ゴミはたまる一方のようだった。
学生ホールのテーブル横に備え付けられたゴミ箱は紙コップがあふれていた。
自分が今、飲んでいるアイスコーヒーのコップもここに捨てるのかと思うと、少し憂鬱になった。
「ああ、いたいた。やっぱり君か」
窓際のイスに座ってアイスコーヒーを飲み終えた頃、画材店の紙袋を両手に持った学生が一人近付いてきた。
「大野の奴ね、急用が出来たとかで帰ったんだよ。君、確か綾部の高校時代の後輩の子だろ?俺、覚えてる?」
「……はあ……」
覚えは無かった。
「がっかりだよ。いいよ憶えてなくても。で?大野に何か用だった?」
はっきりと用件と言えるものがない事に改めて気づいた。
大野と会って話ができれば、何か分かるかもしれない、そんな漠然とした動機でここまで来たのだった。
「綾部の事でしょ?」
「はい。あの……大野さんって、鈴乃先輩と付き合ってたんですか?」
「うーん……綾部は結構美人だし、活動的な奴だったからね。
他に噂が無いでもなかったけど、多分、全部、想像の産物だな。
本人に聞いても笑って相手にもしてなかった。
付き合ってたとすると大野ってことになるんだろうけど、どうかな。
一番親しくしてたっていう程度の様な気がするなあ。
君こそ何か聞いてないの?
俺達はもっぱら噂してたんだ。
綾部はあの後輩の女の子と出来てるんじゃないかってさ」
「……なに……そんな……」
男子学生は、冗談だと笑った。
「だから、その程度の気楽な噂だよ。で?大野が綾部と付き合ってたとしたら、何を聞こうとしたの?」
「……あ……いえ……ただ、私……何か手がかりが無いかなって……」
「自殺の理由?」
男子学生が真顔になって言った。
自殺。
忌まわしい音の言葉だ。
「みんな知りたがってるよ。
よりによってあいつが自殺するなんてなあ……
俺、あの次の日、あいつと飯喰いに行く約束してたんだよ。
いやあ、つまんないカケに負けてさ。
あいつ北京ダック丸ごと食える店に予約入れるって大喜びでさ。
俺が頼むから安いものにしてくれっていっても、バイトの給料が入ったの知ってるもんだから、いくらまでは出せるはずだ、なんて、みんなと一緒に計算初めやがってさ。
ホントに予約入れてたんだよ。
後で店の人に事情を話したら、キャンセル料ただにしてくれたけどさ。
自殺するつもりの奴が、そんな予定入れるかねえ……」
「あ……の……大野さんの電話番号、教えて貰えませんか?あ……いえ、私の番号を伝えて下さい」
「ダメ。あいつ、料金未払いで電話使えないの。住所教えてあげるよ」
私は相手が、ポケットから手帳を取り出して住所を書き取るのを見つめていた。
でもそこを訪ねて大野さんに会っても、何を聞いていいのか分からなかった。
部室に来るか、という男子学生の誘いを断り、何とはなしに大学の構内を歩いていると、看板が目に入った。
夏休みに企画された、無料の公開講座だった。
「事前に申し込んで整理券を受け取るように」「定員に達した時点で締め切り」、と言う部分は黒いマジックで打ち消してある。人数制限が必要なほど人気がなかったらしい。
私は簡単な手続きをして、案内に書かれた小さな教室に入った。
何か予感めいたものがあったのかもしれない。
講座は、まだ始まって間もないようだった。
研究助手にしか見えない講師は、それでもいかにも自分の専門の手慣れた話を進めているようで、軽口を交えながら、まるで雑談をしているようだった。
少ない聴講者は概ね熱心に聞いていた。
私は後ろの席に座り、話に聞き入るわけでもなく、次々と耳に入ってくる単語から勝手な連想を膨らませながら、ただ、その場の雰囲気に浸っていた。
細胞、進化、文明、脳内の機能していない九十パーセントの謎。
「自殺細胞」という言葉に、ハッとして我に返った。
講師は黒板にはうちわのような、人の手の平を描いていた。
人の胎児の手は、はじめ平たい肉の塊らしい。
普通に考えると、そのうちに五本の指となる部分がニョキニョキと伸びてきて、手の形になりそうだが実際は違う。
平たく伸びた肉の中で、将来、指と指の間に位置することになる細胞には、あらかじめ自殺因子が組み込まれている。
そして、予定された時期が来ると、時限爆弾のようにその因子が働き、細胞が崩壊する。
その結果として肉の塊に彫刻のように切れ込みが入り、手の形が生み出されるというのだ。
人の手だけではない。オタマジャクシの尾などが同じ仕組みで消滅する。
また、細胞は永久に分裂を繰り返すわけではない。
モータリンというカウンターが分裂の度に一つずつ減っていき、カウンターがゼロになった後は、たとえ怪我をした傷を埋めるために細胞分裂が必要でも、決して分裂は起こらない。
だから生物には寿命が存在するのだ。
細胞は、本来であればモータリンの制御によって三十二回の分裂寿命が約束されている。
しかし、自殺細胞は、ずっと短い生涯を、遺伝子という、細胞にとっては神に等しい存在から命令され、より大きな目的のために死んでいくのだ。
生命の神秘と一口で片付けられない、不思議さと共に、何故かショックを感じた。
その時は単に驚きの感情だと思っていた。
講義の内容は、文明が発展と滅亡を繰り返す理由、脳の殆ど使わないはずの部分が大きく進化してきた理由を独特の仮説で説明しようとするものだった。
そのSFめいた話も十分興味深いはずだったが、私は「自殺細胞」という言葉から離れることが出来ず、迷路になった思考の階段を駆け下りていくような、軽い恐怖を覚えていた。
生命力にあふれた、鈴乃先輩の遺影に手を合わせても、何だか実感は湧いてこなかった。
ここには居ない、そんな感覚だけ強くなった。
お母さんに頼んで、入り慣れた先輩の部屋に入れて貰った。
二人でそれぞれ描いて交換した水彩画が、初めに目に入ってきた。
海のそばの公園で花壇と噴水を私が描いたものだが、その中にスケッチしているワンピース姿の鈴乃先輩も風景として盛り込んでいた。
部屋を見回した。
このどこかに遺書があるとは思えなかった。
天井まで届く本棚には、いろんな種類の本が雑多に並んでいた。
女性らしい鈴乃先輩の外観とはとても似合わない、不思議な本棚だった。
机の上に小さなスケッチブックが置いてあった。
本格的にスケッチするものではなくて、普段持ち歩いて、メモ代わりのようなラフなスケッチをするためのものだった。
私は表紙のひもを解き、ページを開いた。
紙の上に大きな蜘蛛が居たような気がして思わず手を引いた。
それは、先輩の描く、すっきりとした繊細な線とは似てもにつかないものだった。
黒い蜘蛛に見えたのは、放射状に拡がる大地の割れ目だった。
割れ目の奥深く、光が射さない虚無の空間を、細いペンで執拗に塗りつぶしてある。
異常な筆圧がかかった表面は所々ささくれ立っているようだ。
実際の風景ではないのは明らかだった。
崖の表面や岩は写実的に描き込まれているが、その構図があまりに芝居がかっていた。
これは、他人のスケッチブックなのではないか、という気がしてページをめくった。
見慣れた風景があった。
先輩と二人でよく行った公園だ。
さらにページをめくる。
鉛筆の強弱を効かせた、先輩らしい描き方だ。
それがスケッチブックの後半になると、突然悪魔的な絵に変わる。
直前の絵に、その予兆を見つけることは出来なかった。
悪魔めいた絵も、全てが禍々しい図柄と言うわけではなかった。
中には普段と変わらないタッチの絵もあったが、どこか不気味さが漂っているのは気のせいだろうか。
米粒のようなものが隙間無く並んでいる絵。
目のない魚の群。
二重螺旋状に並んだ惑星。
人間が虫のようにからみつきながら群れて、巨大な手の形になったもの。
非現実と写実性の組み合わせは、ダリのシュールレアリズムを思わせたが、先輩にそんな趣味があったのだろうか。
絵は続いていた。
計算されて描かれているのではなく、沸き立つイメージを吐き出しているような気がした。
その時、先輩がいつもと同じ、優しく美しい顔をしていたとは信じられなかった。
熱に浮かされながら、夢遊病者のように、そして何かにとり憑かれたように描いていて欲しい。
何故かそう思った。
先輩のお母さんが冷たい紅茶を持ってきてくれた。
私が見ているスケッチブックに気付いて、たくさんあるでしょう、智香ちゃん、一つ形見に貰ってくれる?と言った。
楽しい思い出が蘇るものもあるはずだった。
でも私は、何故か、今見ていた禍々しい絵に、逆に見つめ返されている気がして手放せなかった。
帰り際、もう一度遺影の前に座り、これ頂いて帰ります、と心の中でつぶやいた。
ほんの数グラム、スケッチブックが重くなった気がした。
高校時代、鈴乃先輩に誘われて行った夜の森林公園を思い出していた。
「私、この森に蛍がいるなんて知りませんでした」
「何年か前から、自然の中で育ててるんですって。私も去年、初めて見たの」
誰と来たんですか?と聞こうとして顔を見たが、やめた。
暗くてよくは見えなかったけど、何だか寂しい表情のような気がしたからだ。
乾いた木のベンチに座って蛍が出てくるのを待ったが、しばらくは何も見えなかった。
森の暗がりに目を凝らしていると、ちらちらと白い光が見えた気がする。
それは、初めのうちは自分の想像が生み出す錯覚だった。
「あ!いた!違うかな?……あ!やっぱり光った!一番蛍!」
私は思わず歓喜の声を上げた。
「初めて聞いたわ、一番蛍って」
鈴乃先輩が笑った
「あ!二番蛍!三番!」
暗闇の森に目が慣れてくると、蛍は次々に見つかった。
それは、今現れた訳ではなくて、ずっと前から目に入っていて、気付く方法を知ったとたん、その姿を光る虫に変えたようだった。
しばらくすると、小さな池のある森の中は蛍が飛び交う空間になっていた。
その雰囲気に浸っていると、森の奥から細くかん高い音が聞こえてきた。
鳥の声だろうか。
ちょうどそれは口笛の音にも似ていた。
私は、その鳴き声がどこから聞こえてくるのか知りたくて、暗い木々の間を見回した。
ヒュー
鳥の声はかなり近くで聞こえていた。
私はその声をまねて、口笛を吹いた。
すると、少しの間をおいて、反応を確かめるように鳴き声が帰ってきた。
私は鳥と会話が出来たような気になって口笛を続けた。
実際それは、会話のようなやり取りになっていた。
私は楽しくなって口笛を続けた。
「夜、口笛を吹くと蛇が出るわよ」
鈴乃先輩が少し咎めるような口調で言った。
私は何となく口笛をやめ、乾いた木のベンチに座りながら、ぼんやりと星の瞬きのような光を眺めていた。
光が一粒、すぐ手が届きそうなところを飛んでいった。
ゆっくりと真っ白い光を放って飛んでいるのは間違いなく蛍の筈だったが、こんなに近くで見ても虫の体は見えなかった。
時間が経つと共に、蛍の数は増えていった。
森の木々の隙間から見えるのは、微かに明るい空だと思っていたら、それらは枝に止まる、たくさんの光点だと気付いた。
「村の外れに年頃の娘と小さな妹が住んでいたの」
何の話か分からず振り向いた。
先輩の顔の前を蛍が横切った。
その光で、私を見た先輩の目が一瞬見えた気がした。
「口笛を吹いちゃいけない理由。智香ちゃん、夜這いの風習って知ってる?」
「え……何となく……」
「私はね、夜、口笛を吹くと蛇が出る、って言うのは、その風習と関係があるんじゃないかと思うの。
家族が寝静まって、娘が外にいる男に小さな口笛で合図を送る。
すると相手は裏口とか縁側とか、窓から部屋に入ってくる」
私は淡々と分析して考証するような口調の先輩の話に、なんだか頭がぼうっとしてきたのを感じた。
「でもその娘にまだ幼い妹がいたりしたら……
夜中にふと目が覚めると、かすかに口笛が聞こえる。
隣の部屋の姉さんらしい。
何で、口笛を吹いたりするんだろう。
翌朝、聞いてみても、知らないよ、気のせいだろう、というだけ。
ある日、夜に姉さんのまねをして口笛を吹いた。
そしたら叱られるのね。
夜、口笛を吹くんじゃないよって。
どうしてって尋ねられても、子供に説明するのは難しいでしょ?
でも止めさせないと。
暗い部屋に手探りで入ってくる相手は、
妹と姉を間違えて犯してしまうかも知れない。
だからこう言って脅かしたの。
夜、口笛を吹くと蛇が出るよって」
目の前から蛍が二匹同時に舞い上がった。
その夜は小さな無数の爬虫類に追われる夢を見た気がする。
バスタブにぬるいお湯を張って、その中に横たわっていた。
ビニールのクッションを沈めて、顔だけが水面から出るようにする。
ユニットバスのライトは消えていて真っ暗だ。
いつもなら脱衣所の明かりがかすかに漏れている。
でも今日は、その明かりも点けていない。
家中が寝静まった真夜中だった。
目を開いても閉じても全く同じ。
完全な暗闇。
体の感覚が遮断されて意識だけがしんと研ぎ澄まされていく。
本当に顔が水面から出ているのかどうか、仰向けなのか、うつぶせなのか、そういう感覚がどんどん曖昧になってくる。
何か、かすかに音が聞こえる。
耳も水中だから、こもったような、くすぐったい刺激として、何かが聞こえる。
手足の力は完全に抜けていて、もう、全く動かすことができない。
もし、このまま沈んだら、そのまま眠ってしまうのではないか……
かすかな音はまだ聞こえる。
ゆったりとした、安心感が湧くような、懐かしい……
これは心臓の音だ。
胸の鼓動が水中に低く響いて聞こえている……
しばらくぼんやりと音を聞いていた。
目は水面の上、耳は水中、別々の世界に存在している。
その奇妙な感覚。
これは何かに似ている。
それが何だったのか思い出せない。
自分の心音が、水を伝って聞こえているのか、それとも体を通して聞こえてくるのか。
ふいに何かを感じて目を開いた。
開いてもなお、暗黒はそのままだ。
脳は見えるべき映像がないとき、辻褄を合わせるために幻覚を生み出すという。
でも私には映像としての幻覚はめったに現れない。
何か聞こえる…あれは……声?
水の中のくぐもった音とは違う。
私は耳をすます。
何か……まだ聞こえる。
……違う、耳に聞こえるんじゃない……
どこか……別のところ……
耳をすませばすますほど、心音が邪魔をして声が聞こえなくなる。
耳じゃない…
もう一度、目を閉じ、全身の筋肉をくまなく緩めた。
体が水に溶け、意識が頭から流れ出してバスタブ一杯に拡がった。
「……ちゃん…智…」
声が意識の中に入り込んでくる。
これは……この声は……
「智香ちゃん、私が自殺なんてすると思う?」
幻とは思えないほどはっきりと、耳元で鈴乃先輩の声が聞こえた。
熱く湧き出した涙が静かに流れた。
海に面した崖の上は、風が縦に吹き上げていた。
遥か下に見下ろす海面は青黒く渦巻き、ゆったりとした膨張と収縮を繰り返す。
そのたびに白い泡が水中に吸い込まれる。
一ヶ月前、この場所から鈴乃先輩は身を投げた。
意識して視線を真下に向けないようにしていたが、まるで引力があるかのように、目は足元の岩場へ向けられた。
岩場は藻屑や流れ着いたゴミが重なり、意味もなく丁寧に波で洗われていた。
ふさわしくない。
そう思った。
不慮の事故ならともかく、覚悟の自殺で、先輩がこんな場所を選ぶだろうか。
あまりにも似つかわしくない岩場の様子が私を確信させた。
先輩は自殺などしていない。
観光地になっているこの海岸には、みやげや軽食を出す店がいくつかあった。
私は、崖に一番近い店に入った。
知りたいのは先輩が落ちたとき、正確には落ちる前の様子だった。
もしかしたら店の中で陽気に置物などをみていたかも知れない。
もしそうだとしたら……
そうだとしたらどういうことだろうか。
私は長いこと店の中を回って、一人で海に来た女子大生がいかにも買いそうなものは何か、自然に見られるには何を買ったらいいのか、そんな無駄なことを考えるのにエネルギーを費やした。
小さな貝で出来た小物の代金を払うとき、やっとの思いで、「崖から落ちた人がいたそうですね」と尋ねた。
自分では何気なく聞こえるように言ったつもりだが、どう聞こえたかは分からない。
自殺の名所と言われてもいいような危険そうな崖だったが、意外なことに、事故以外、明らかに自殺というものは、ほとんどなかったらしい。
五十年ほど昔、地元出身の画家が一人、飛び降りたという事だった。
それ以上、何の話も聞き出すことなく店を後にした。
「あいつは自殺なんかする奴じゃない」
大野さんはアパートの近くのファミリーレストランで静かに話し始めた。
「臓器バンクにも登録してたな。
移植を待ちながら死んだ友達がいるんじゃないかな。確か。
そういう人が、健康な体で自殺する人をどう思うか。
安直に死ぬなら、自分たちに健康な臓器をくれ、とも言えず、
そう思ってしまう自分自身の身勝手さに嫌気がさす。
例えばそんな風に人を傷つけているなんてことは、
自殺する人は全く考えてもいない。
死ぬなら、体中の臓器の移植手続きをして、病院の前で死ねって言ってた。
あの綾部がだよ?
過激だよね。
でも本心だと思うよ。
その本人が自殺するなんてな。
魔がさすっていう事なのかな。
見た人がいるんだよ。
崖から飛び降りるところを。
事故や事件じゃないそうだ。
あいつは自殺なんて事を頭では徹底して批判して、でも何故か飛び降りた。
もしかしたら意志に体が逆らったのかな。
絵を描いてた時みたいに。
死ぬ少し前からかいてたスケッチだよ。
君も見たんだろう?
オカルトの世界に自動書記というのがあるらしいけど、それに似ていたようだ。
自分の中に描こうとする力と、やめさせようとする力が同時に働くらしい。
気付くと夜中、執り憑かれたように絵を描いていて、自分の目はそれを醒めて見ている。
怖いらしいんだよ。
その湧き出てくるイメージが。
それを自分の手が、リアルに再現していくのがもっと恐ろしい。
そういえば近々、カウンセリングを受けるつもりになってた筈だ。
時々、ふっと不思議な気分になるって。
それが、自殺願望ってやつだったのかなあ」
私の良く知っている鈴乃先輩と同じ人の話とはどうしても思えなかった。
まるで多重人格の人の話を聞いているようだった。
もちろん、私が先輩の全てを知っている訳ではない。
他人より多くを知っているとも言えないと思う。
他の人にはあまり見せない姿を見せてくれていた面もあるだろうし、誰もが知っている面を私は知らないのかも知れない。
私は、先輩に自分をどこまで見せていただろう。
私にとって先輩は、壁を作らず接することが出来る、殆ど唯一の存在だった。
先輩はありのままの私をそのまま受け入れてくれた。
口下手な私のペースに合わせて話を聞いてくれたし、私の興味や考えを批判せずに、一緒に楽しんでくれていたように思う。
私は、先輩のように明るく、活発で、芯の強い女性に憧れていた。
先輩のようになりたいと思っていた。
些細なことでも共通点を見つけられれば嬉しかったし、私がひどく劣っているところを感じても、先輩に接していれば自分が少しでも上等になれる気がした。
先輩と同じ画材を揃えたり、こっそり同じ香水を探したり、そんなことが楽しかった。
だから、先輩が自分の友達に会った時、私のことを「妹分」と紹介する度、とても優越感を感じていた。
大野さんから預かったのは、とても古い画集のようなものだった。
鈴乃先輩が「恐ろしくて手元に置きたくない」と言って大学に持ってきたものを、大野さんが持って帰っていたらしい。
古書店で見つけたという、かなり傷んだ画集で「理の形」という題も、作者の名前も聞いたことはなかったが、特別な存在感だけは感じられた。
私は、恐る恐る画集を手にとって開いた。
皮の表紙は傷みと黒ずみで、タイトルさえ読みとれなかったが、内表紙には毛筆体で「理の形」と書いてある。
私は喉の渇きを覚えながらページをめくった。
ずっしりと、あるはずのない重さを感じた。
中は絵だけでなく、写真もあれば、図表の類まであった。
全てのページは左右に作品が対になるように並べられている。
全体に傷みが激しく、一瞥しただけでは何の絵なのか、写真なのか、分からないものが多かった。
多くは黒ずんだ画面の中に微かに、何かが沈んでいるといった具合だ。
いくつかははっきりと分かった。
前に見たことがある絵と似ていた。
大きな樹が三本、枝を張って葉を付けている絵と、葉脈の浮き出た、小さな三枚の葉。
その二つを良く似た構図で並べてあった。
これと同じコンセプトの絵は……
鈴乃先輩のスケッチブックだ。
あの中にも良く似た絵が確かにあった気がする。
黒い空間に明るい光と、それを回るいくつもの球体の絵もあった。
その絵の隅には望遠鏡から見た天体写真が小さく置かれている。
絵は太陽と惑星だろう。
隣のページも良く似た絵だった。
でもこれは隅に、原子核と電子の模式図が添えられていた。
つまり、太陽系にも見える絵は、極小の世界の姿ということだ。
見にくい他のページも、その殆どが、全くスケールが違っていて、しかも形の似ているもののようだった。
タイトルの「理の形」とはどういう意味なのだろうか。
先輩はどうしてこれをそんなに恐がったのか。
「これ、フラクタル図形っていうの。面白いでしょ?」
鈴乃先輩のノートパソコンの画面には、珊瑚のような図形が出ていた。
色付きだしたモミジのように、緑色から黄色、赤と虹のように色が分けられている。
規則的に短い枝分かれをした図形。
先輩に言われて枝の先を見る。
先は縁の部分が滑らかではなく、細かくギザギザの形になっている。
その珊瑚の中に自分が吸い込まれるような感覚。
錯覚だった。
画像がゆっくりと拡大していたのだ。
珊瑚のような模様は画面の端の方からはみ出し、消えていく。
その分、枝の先のギザギザが大きくなり、それら一つ一つが実は突起状の形をしていたことが分かってくる。
拡大はまだ止まらない。ゆっくりと、しかし、どんどん大きく膨らんでいく。
突起の先は二又に、いや、三つ又……違う、手のひらのように枝分かれしている。
さらに拡大する。
分かった。
枝は初めの全体図形と全く同じ形をしているのだ。
画面いっぱいに特徴のある珊瑚の枝が表示された。
拡大はまだ続く。
わずかに速度を上げているようだ。
又、枝の一部を中心に拡大していく。
細かな波のように見えていた縁が、実は細かく枝分かれした突起であること、それが、全体の形と全く同じであることが分かる。
画面の中心から緑、黄、赤と色が湧き出し、めまぐるしく循環する。
全体は個であり、個は全体。
自分がどんどん小さくなって、不思議な色と形をした画面に吸い込まれていくようで、めまいがした。
天野竜也。
神奈川県出身昭和二十八年、作品集「理の形」出版直前に投身自殺。
鈴乃先輩が怖くて手放した、という画集の最後のページにあった、作者の略歴。
膨大な作品を残してはいるが、個展で認められたり、作品集が評価されたり、という名声は得られなかったらしい。
この作品集にしても、廉価版の自費出版のようだった。
紙質が悪く、変色が激しい。
まるで全面に黒いカビが拡がるように、絵や写真を覆い隠そうとしている。
私は公園の木陰にあるベンチに座って、先輩の最後のスケッチブックと、古い画集を見比べていた。
木の葉と大木が同じ大きさに並んでいる絵は、やはりよく似ている。
でも、コンセプトが同じというだけで、絵自体は似ていない。
模写したわけではない事は明らかだった。
目を凝らして黒いページを見ようとすると、何も見えなくなる。
あきらめてページをめくる瞬間、ふと、全体像が見えた気がして戻る、という事を繰り返した。
スケッチブックの中にも、宇宙の絵らしきものがあった。
大きな球体の周りに浮かぶ小さなもの。
球体のものもあれば、ジャガイモのようにいびつな形をした岩に見えるものも描かれている。
巨大惑星とその周りの衛星のようだ。
その間の空間は、異常なまでの細かさで真っ黒に塗りつぶしてある。
そして、それと対になっているもの、これは直感で細胞の立体図と分かった。
画面の半分を覆うような球体。
その核の中にX型のソーセージのような染色体が浮かぶ。
核の周りには粒状のものや果実に見えるものがふわふわと漂っている。
これはきっとミトコンドリアだ。
やはり、極小と極大の世界のよく似た形の対比……
「これはね、世界の仕組みのような気がするの。
小さな世界と大きな世界、全くスケールの違うところにそっくりな形がある。
雨が降って栄養分を運びながら川が流れて、海にたどり着く。
そして水は蒸発して雲になって……
まるで一つの生き物の体の中みたいじゃない?」
フラクタル図形を見ているときの鈴乃先輩の声が蘇った。
世界の仕組み……理の形……あの昔の画家も、世の中の理の中に、そういう共通点を見つけて作品に残したのかも知れない。
そのタイトルから直感的に興味を持って、この本を手に入れたのは、先輩らしい気がする。
スケッチをめくった。
絵は、相似形の対比として描かれているところもあれば、思いつくまま、空いているスペースに図柄を描き込んだところもある。
でも、どれもが、イラスト風にデフォルメしたものではなく、写実的な細かいデッサンになっている。
その為、かえって何が描かれているのか分かりにくいところが多かった。
魚の群に見えた。
手前から向こうまで不規則に、帯状に並んだ魚……
いや……このヒレは……
イルカだ。
イルカの群だ。
……でも群ならもっと方向性が一定になるものではないのか……
イルカは、あるものは右を、あるものは左を向いたままびっしりと身を寄せ合い、また、あるものは白い腹を上に向けている。
一瞬、モノクロであるはずの絵が、赤く血の色に染まって見えた。
これは波打ち際だ。
浜に打ち上げられたイルカの群が、死んで血の波に洗われている……イルカの集団自殺。
海洋汚染、ホルモン異常、潜水艦の超音波、地磁気の乱れなど、イルカをはじめ、鯨の仲間の集団自殺行動の原因はいろいろと推測されるが、実際のところは謎だ。
病気でもないものが、ある日突然、自ら破滅するような行動をとる。
人間であれば、自分をとりまく社会との関わりの中で、不自然なストレスがかかることもある。
将来を悲観するというような思考は人間特有のものに違いない。
でも野生の動物は、生きること、それ自体が目標と本能に導かれているはずだ。
その野生動物が、どうして自殺という行動をとるのか。
ページの上に葉が一枚、落ちてきた。
まだ瑞々しく若い葉だった。風に吹かれて付け根から取れたらしい。
見上げると木々の枝にびっしりと残る葉はどれも若く、陽の光が透けて、重なりが影絵のように見えた。
私は落ちてきた葉を手に取った。
一枚の葉と大木。
意識を葉の葉脈の隙間に注いだ。
細胞壁におおわれた細胞そのものが見えた気がした。
細胞の中は宇宙だ。
「これはね、世界の仕組みのような気がするの……」
「自殺細胞っていうのがあるだろ……」
不意に断片が次々と繋がった。
私はその概念を理解すると同時に、殆ど恐怖のようなひらめきを覚えた。
小さな細胞の中が宇宙ならば、その中の住人は自分たちの宇宙の外に世界があることを想像しているだろうか。
全体は実はさらに大きな全体の個に過ぎず、個もまた、より小さな個にとっては全体である。
ならば人間一人一人の存在というのも、その上位の存在からすれば手のひらの上の細胞のようなものだ。
あるものは自殺細胞として、生まれながらにして自殺という行動をプログラムされ、組み込まれているのではないか。
そして胎児の手と同じように、大きな上位の存在から見て、その個人が指と指の間の位置にたまたま存在していたら。
その、細胞の一つである個人は何の自覚もないまま、自殺させられるのではないか。
神の意志によって。
集団自殺するイルカ達。
彼らは胎児の指と指の間に位置する細胞だったのではないか。
私はその恐ろしいひらめきが、鈴乃先輩の死という現実を正しく捉える唯一の方法であるように思えた。
鈴乃先輩は…
画家、天野竜也は……
もしかしたら、神が決定しているこの不条理な仕組みに、気付いたのかも知れない。
自分は神の世界の自殺細胞だと。
天野竜也は「理の形」という概念で見出した姿をこの世の法則として世に出し、崖から身を投げた。
鈴乃先輩も、夢遊病者のようになりながら何かを感じ、執念を込めて同じ法則を描いた。
そして、私も気付いてしまった。
知ってはいけない、神の意志ではなかったのか。
それを知るということ自体、全体の調和を乱すことだ。
神はそんな一粒の細胞をどうするだろうか。
新たな自殺細胞としてプログラムし直すだろうか。
…いや…そんな必要は無いのかも知れない。
自殺細胞としての因子を埋め込まれたものだけが、この事に気付くとすれば、初めから私も自殺細胞そのものなのかもしれない。
許せなかった。
神の意志は木の葉にとっての風のように、あらがうことの出来ないものかもしれない。
でも、私はその風を認めはしない。
神とは、悪魔だ。
私は、ある意味では宗教家以上に神というものの存在を確信するようになっていた。
それも許しがたいエゴイズムの宿主として。
鈴乃先輩が自殺をしたとされる崖の上は、荒涼とした強い風が吹いていた。
岩場に漂っていたゴミはどこかに流れたのか、ただ、青黒い渦がうねっている。
自殺などではない。
それは、意志とは無関係に仕組まれた、偽の自殺だ。
それによって大いなる存在がいかなる恩恵を受けようと、私は絶対に許すわけにはいかない。
神は悪魔だ。
後ろから叫び声がした。
私は崖の突端から足を踏み出そうとしているところだった。
海からとびのくようにして思わず座り込んだ。
足下から崩れた小石が落ちていき、波打ち際の岩に当たって砕けた。
足の震えが止まらなかった。
その時、私は確かに感じた。
はるか頭上から見つめる、悪意に満ちた視線を。
気付くと周囲の風も木々のざわめきも、私の死を前提としてふるまっているような気がした。
何故、予定通りに死なないのだ、そういう非難めいた声まで聞こえてきそうだった。
何人かの人影が助けに駆け寄ってくる気配を感じたが、その行為すら神のプログラムによって起きている気がして、不意に腹立たしくなった。
私は空の向こうの邪悪な主をにらみつけた。
私は負けない。
あなたの決めた未来など、決して受け入れない。
私は自殺細胞の一つとして死ぬことを決定づけられている。
そう知らされた今も、絶望感は少しもなかった。
これで邪悪な神と戦うことが出来る。
鈴乃先輩の敵を討つことが出来るかも知れない。
私が感じたのは、喜びだった。
それを警告するかのように、突然、水平線上に稲妻が走った。
私はそれを見ながら自分でも驚くほど落ち着いて微笑を浮かべていることに気付いた
終