Act.2 肌
「ちょっとちょっと、昨夜見たわよー。」
「・・・・・え?」
コーヒーカップにコーヒーをそそぐ手を休め、女は声の主を見た。
「もう“恋人はいません”なんて嘘ついたって駄目よ。ネタはあがってんだからね。」
「昨夜ばっちり見ちゃったんだから。あんたが男と歩いてるとこ。彼氏なんでしょ?」
「・・・あ。あれは・・・・・。」
先輩2人に囲まれて、女は俺を横目でちらりと見た。
「どこで捕まえたのよー。結構いい男だったじゃない。あんたもやるわねー。」
「そんなんじゃ、ないですよ。」
にっこり笑って見せながら、女は手にしたコーヒーを持って俺の座るソファーまでやって来る。午前中の光の中、手にしていた新聞から目を離して、俺はその女を見た。
「そんなこと言っても無駄よ。あの雰囲気は完全に男と女の関係だった。」
じゃれつく先輩二人をよそに、女は、新聞越しに見つめる俺の視線に気付かないふりをしたまま、そっとカップを俺の前に置いた。それでも、いつもとは全く違う雰囲気が漂っている事はわかる。俺と目を合わせようとはしない頑なな瞳。
そこには、罪悪感にも似た何かが漂っていて・・・、俺はその理不尽さに唇をかんだ。
「ね、どう思います?うちの社員ともあろうものが、隠し事するんですよー?」
ふいに話しかけられて、この1mほどの距離に漂っていた相手の心を探り合うような空気は途切れた。女は黙って俺の前を去り、視界の中に、その女をからかおうとしてやまない2つの顔が入ってくる。
「あの人とは、本当に何でもないんです。」
必死で否定するかのような口調。確実にいつもとは違う人格。他のやつらがこいつをからかおうとしてるのは、みんながこいつの性格を知っていて、こいつがこんなことにムキになるなんて考えてないからだ。なのに今日のこいつは冗談を真剣に否定し、そして・・・、俺と目を合わせようとはしない。
「別にどうでもいいじゃない?俺には関係ないことだし。・・・俺、部屋にいるから。みんな来たら呼んで。」
言いながら事務所を出るときに見えた女の顔に、俺は煮えきらない嫌な気持ちを感じた。
数日前に感じた、あの苦い気持ちだ。
それも、あの時俺の気持ちを操り、そして、次の日には何もなかったような顔をしていたこの女からだ。
どうしてこんなことで俺に引け目を感じる必要があるんだ?
好きな男ができたのなら、素直にそのことを認めて、この関係を終わりにしたいと言えばいい。
お互い、何の未練もなくこれを終わらせることができるはずだ。
なのに、どうしてあんなに傷ついたような顔をするんだ?
・・・・・俺たちは、この関係を割り切ってるはずだろう?
けれど、あんなに必死で“他の男”のことを否定した女の傷ついたような顔が、苛立たしいと同時に、妙に綺麗に見えて、・・・・・俺はその夜、そいつをホテルに呼び出した。
俺自身、何かを知りたかったのかもしれない・・・。
ル-ムランプの仄赤い光だけが物に形を与える部屋の中、女は長い髪をほどき、バックをソファーの上に置く。オレンジ色の光の中のその表情は、朝と同じ、いつものこの女のそれとは全く別物のようだった。
「・・・・・なにか、用ですか?」
そして、未だ俺と目を合わせようとはせず、その唇に理不尽を乗せる。
「用もなにも、こんな所におまえを呼び出す時にすることはひとつじゃない。」
ベッドの上、グラスを弄びながら言うと、女は一瞬だけ俺を見つめた。戸惑った表情。その、雨の中に捨てられた子猫のような目を、いじめたい衝動にかられる。
「・・・それとも、他に男ができたから俺に抱かれるのはやめにした?」
とっさに俺に向けられた女の目が、その色に悲しい色をも加える。その色を見て、俺はまた、わけもなく苛立ち始めた。
「その男とはもう寝たの?あ、おまえは初めて会った男とでも寝るんだもんね。寝てないわけないか。」
その苛立ちが、俺にそんな汚い言葉を喋らせさせる。これじゃ、嫉妬に狂ったただの馬鹿だ。こんなことを言いたくてこいつを呼んだわけじゃなかったのに・・・。
「どうしてそんなこと言うんですか?」
その目が明らかに傷ついた表情をする。この半年余り、この女のこんな表情は初めて見たかもしれない。
・・・いや、うれしい顔も楽しい顔も、見たことはないのか・・・。
「あなたには関係ないじゃないですか。自分だってそう言ったでしょう?」
言いながら、女はその眉間に綺麗にしわを寄せ、悔しそうに唇を噛み締めた。
「じゃ、なんでそんなに気まずそうな顔をするの?その男だって、別に俺たちに関係ないじゃない。おまえに男ができようと、俺に女ができようと、それは俺にも、おまえにも関係のないことだ。なのにどうしてそんな顔をする?・・・そんな、傷ついた顔・・・。」
見たくもない。
その言葉を言いかけて,俺は反射的に口を閉じた。
・・・“どうして”見たくないのか、自分でもわからなかったからだ。俺は戸惑いながら、自分の口に右手をあてる。
「どうでもいいじゃないですか、こんなこと。ただのカラダだけの関係なんでしょう?・・・私が他の誰と寝ようと、あなたに関係ないでしょう・・・?」
「ああ関係ないね。でも俺が言ってるのはそんなことじゃない。おまえが、どうしてそんなに重い罪でも背負ったみたいな顔をしないといけないか、だ。」
そして俺は、どうしてそのことに苛立っている?わからない。自分がなにと戦おうとしているのか。
そしてこいつが、何にそんなに罪悪感を感じているのか・・・。
「・・・・・そんなこと、関係ないじゃないですか。」
しばらくうつむいて、女は小さな声でそう呟いた。呟いて、黙ったまま靴をその場でぬぐ。床にころがったハイヒールが、妙に色っぽかった・・・。
「シャワー、浴びてきます。」
そしてなげやりにそう言うと、いつものようにバスルームへと足を向ける。“いつもの関係”を誇示しようとするその背中が、いつもより“女”に見えた。
しばらくして聞こえてきたシャワーの微かな音の中、俺はベッドヘッドに寄りかかり、さして強くもないくせに強い酒を飲みながら、考えた。
その濃い味が俺の脳裏を覚ましていく。
けれど、何の答えも見つからない。
何もわからないのだ。
自分が何にこんなに苛立っているのかも、どうしてあの女の傷ついた顔を見たくないのかも、そして・・・、どうしてあいつをここに呼び出してしまったのかも。
最近ずっとこうだ。
こんなことを思っては堂々巡りしている。
自分で自分がわからない。
そもそも、俺は一体何のためにあいつにこだわっているんだろう。女なら他にいくらでもいる。その気になれば女には事欠かない。俺はそんな人間なはずだ。なのにあいつばかりにこだわっているのは、あいつが自分にとって都合がいいから、危険じゃないから。
・・・・・ずっと、傍にいるから・・・?
あいつはいつも俺の傍にいる。事務所にいれば一緒にいざるをえないし、新人だから何かとアーティストの世話をしないといけないらしい。必然的に一緒の時間は増えてゆき、そのなかであいつは、夜の顔とは全く違う、おだやかな笑顔で俺の傍にいるのだ・・・。
気が付けばそこで笑っている。
笑って・・・・・、俺のそばにいる。
そう。
俺たちは莫大な時間を共にしているのだ。
今まで考えもしなかった。もしかすると、あいつは他の誰よりも多くの時間を俺と共有しているかもしれない。今思えば、仕事中も、ベッドの中でも、あいつは自分の存在を殺しながら俺と接していた。
だから気付かなかった。
こんなにも多くの時間一緒にいたことを。
そして、その時間がもたらすであろう、ある、『悲劇』の存在を・・・・・。
俺はとっさにバスル-ムの方を見た。
・・・女があんなに悲しそうな顔をする理由。
他の男との関係に罪悪感を覚える理由。
それが・・・、わかった気がした。
「まさか。」
だけど、思って、否定する。
そんなはずがない。
いや、そんなことがあってはいけないのだ。
この関係の中で、そんな感情は許されない。
そう思うと苛立ちはさらに増し、俺は無意識にバスル-ムへと歩き出していた。怒りという感情が俺を動かしている。そう、思った。
バスルームのドアを開けると、明らかに外とは違う湿度が俺を襲った。むせ返るほどに漂う湯気。それは、開け放たれたままのシャワールームから流れてきていて、そこに目を凝らした瞬間、俺は唖然とした。
「・・・・・おまえ・・・。」
服を着たまま、シャワーの雨の中に座り込んで背中のまま黙っている女。
「どうして。」
いつもより小さく見えるその姿が、一瞬失くした言葉を更なる怒りで閉じ込める。
「どうしてそんなに傷つくんだよ?どうしてそんな顔をするんだ?」
わけのわからない気持ちに誘われてその白い世界の中に入り、女の肩をつかみあげる。細い肩。濡れた長い髪の下から俺を見上げたその瞳が、確かに濡れていた。だから余計、その肩を強く握りつぶす。
・・・この感情は、怒り?
それとももっと別のなにかなのか?
初めて見る女の涙を見ながら、俺は沸き上がるこの感情を抑えきれなかった。
「・・・・・なんでそんな目するんだよ・・・。」
こころが、いたい。
こんなにも憂いに満ちた表情を、他の誰ができるというんだろう。
「・・・・・・・どうして今夜私をここに呼んだりしたんですか・・・。」
熱い雨の中、うつむいた俺に、女が話しかける。
自分の感情なんて・・・、涙なんて見せなかったはずのこの女が、・・・その声で、俺を責める。
「あなたが私を呼び出さなかったら、私、変な期待なんかしないのに・・・。」
言葉の最後は涙で聞き取りにくかった。けれど、言葉なんか聞かなくてもこの瞳がすべてを語っている。
・・・今更ながら確認したその事実に、俺は唇を噛んだ。
「あなたが私を責めたりなんかしなかったら、もうちょっと我慢できたのに!!」
涙でぐちゃぐちゃな顔をしながら、女は今まで一度も見せたことのないような激情を俺にぶつけた。
そして自分をつかむ俺の手に手を添え、絶句した俺の手を力ずくで引き離す。
降りつける雨の中、俺は何もできなかった。
できるはずが・・・、なかった。
「・・・・・帰ります。もう、あなたに抱かれることなんてできません・・・。」
そして女は立ち上がり、だんだん濡れてゆく俺を残したまま、その場に背を向ける。
これを悲劇だと、誰が決めるんだろう。
これはまるで喜劇じゃないか。
身体だけだとたかをくくって続けてきたこの関係が、いつしか情へと変わっていたというこの事実を、誰が悲劇だと決めるんだ・・・?
流れ落ちるしずくを見ながら、俺はぼんやり考えていた。
そしてその責任の所在と、自分の想いを探していた。
・・・・・おれは、こいつをどうしたいんだ?
「待てよ。」
そう思った瞬間、俺はそいつの手首をつかんでいた。自分が苛立っているのがわかる。
けれど、さっきまでの苛立ちとは全く違う。この女が自分から離れていくということに俺は苛立っている。そのことが、はっきりわかった。
「・・・・・どうして。」
“どうして”
「どうしておまえの涙が、こんなに苦しい・・・・・?」
教えてくれ。
なにもわからない。
俺のこの感情はなんなんだ。
どうして、おまえのその想いがこんなにも痛いんだ・・・・・?
この感情を、何と呼ぶ?
「・・・・・。」
困惑する女の瞳を見つめ、その手首を引き寄せる。
わからない。
けれど、今ここにこいつがいないと、俺自身がどうにかなってしまいそうだ。
俺はこんなに弱くはない。こんな俺は知らない。
こんな、感情に任せたSEXなんてしたくない。
だけど、“ここにいてほしい”ただそれだけで、その唇を貪る。
無理やりにその服を脱がし、下着を剥ぎとる。
昨夜は他の男に抱かれたのかもしれない身体。
・・・でも、それでもいい。
ただ、・・・このまま、ひとつになってしまいたい・・・・・。
涙で濡れた瞳で、女はただじっと俺を見上げた。
そして抵抗するでもなく俺の背中にしがみつく。
いつもは何の感情もしめさないその瞳が、俺の手に浸食されることに悦んでいるようにも見えた。
どうしてこんなにこの女を求めているのかはわからない。
けれど、俺を呼ぶその声にならない声が、俺をどうしようもないほどの感情の渦の中に引きこんでゆく。
とめることなんてできない。
この、白い肌の上を滑り落ちてゆくしずくさえもが、煩わしい。
この場所から、どこか遠い、二度とは戻れない場所へと向かっているような気がする。
こうして身体をぶつけ合うことでこの想いが何かへと変わろうとしている。
・・・・・そう、感じた。
「・・・・・・ぁ・・・。」
狂おしく唇を合わせ舌を絡ませながら、まだ何の準備もできていない身体に自分を埋め込む。
はやくひとつになりたかった。
自分の・・・、互いの存在を確かめたかった。
肩にきつくしがみつく女のくびれた部分に手をおきながら、ここから、溶けて、何もかもがひとつに混ざりあえればいいと思った。
そしたら、なにも悲しまないでいい。
なにも苦しまなくていい・・・。
こうして身体を繋げる今がここにあっても、その先は何も見えない。
だから、ここから溶けて、混ざりあって、このまま、このしずくと一緒にあの排水口の中に流れてしまえばいい。
・・・・・そしたら、だれもいない世界へゆける・・・。
「・・・もっと・・、つよくだいて・・・・・・。」
俺に身体を揺さぶられ、背中に爪を立て、涙を流しながら女は言った。
さっきまでの悲しみの表情ではなく、今まで見たこともない、悦びの表情で。
俺はその声に突き動かされるように、何もかもがわからなくなるほど、その細い身体を抱いた。
どうすればいい?この想いを。
熱く滾るこの感情を。
こうして、身体を繋ぐことしかできない。
それ以外はなにもできない。
俺たちは、この女が持て余している感情も、俺のこの名前も知らない苦い感情も、すべてをぶつけ合いながら、獣のように、ただ、求めあい続けた。
互いの身体を求め、そして、なにかを探し続けた。
身体以外はなにもいらない。
このふたつの身体以外、なにも信じられない。
・・・・・だから。
「・・・・・いっしょに・・・、いこう。」
この感情の燃えているほうへ。
なにも考えずに互いを貪り合い続けられるあの場所へ。
そのほかに、もう、どうすることもできないだろう・・・・・?
自分に素直になることが一番むずかしいですよね。
自分のことだから、気づかないフリも長続きはしない。
“彼女”と“彼”のお話。
素直になれるのは、どちらが先なのか。
それは、負ける、ことなのか・・・?




