表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

私の恋を邪魔するな!

作者: カドクラ

「呪う」という行為と「嫉む」という行為が、ほとんど変わらない思っている人間が多いから困る。嫉んだゆえに呪うのであり、その「呪う」という行為を抑えるということは、ふかふかの布団を敷いてそこで寝ないような、あるいは箸を持って目の前の白メシを食わぬような、ヨダレがだらだらのお預け状態なのである。



 寒さが顔を見せ始めた十月の中頃。

 並木は陽光を浴びて葉の上にガラスの粉を散らしたようにキラキラ輝き、まるで神様が私を祝福してくれているよう。梢から覗く空は、私の心のように透き通る青色。小鳥たちがぴーちくぱーちく歌って、こつこつと人々が石畳の街路を踏み鳴らす音に伴奏をつけている。清々しくて、とてもいい気分。

 ふんわりと背後から流れるそよ風に私の二つ結びの髪がなびき、私は「やあん」と肩を上げ耳をくすぐる毛先を押さえた。自分で言うのもアレだけど、ああ! なんて乙女な仕草なんだろう! 今の私はまさに乙女の権化そのものであり、あの前を歩くカップルの女や、やたら派手なギャルの二人組み、道路を飛び越えて向かい側に見える広告看板のアイドルなどの、以前の自分だったら呪ってやまなかった人間たちと同じステージに上がっている。それどころか、皆々私に羨望と嫉妬の入り混じった眼差しを向けているような気さえする。

 ふいにむらむらと愛すべき自分の姿を拝みたくなって、私はバックから小さめの手鏡を取り出し、左上斜め三十五度のキメ顔をつくる。私の女の子パワーが後光をぱっときらめかせた。

「やばい私、どっからどう見ても可愛いの女の子。絶対可愛い、可愛すぎる!」

 その辺の一般人が「えっ、なにあの子?」みたいにざわめき出したが関係ない。私は世間一般で言われる可憐な乙女で、たまに嫉むが誰も呪わない、穏やかな女の子。だから、大丈夫。絶対に上手くいく。

 私は不安をドキドキ訴える胸を押さえて、目の間にそびえ立つ巨大なマンションを見上げた。最近建設された二十階建ての超高級マンション。茶色を基調にしたモダンな外装に派手さはなくとも、金持ち特有の見栄と高貴がありありと溢れてくる。いくら今の私が穏やかだとはいえ、さすがにこんなものを見せつけられると、最上階でワイン片手に優雅に市民を見下す富豪の様子が思い浮かんで鍛え上げてきた嫉み脳が反応してしまいそうになる。

 私は慌ててぶるぶる頭を振るって、嫉み脳へ繋がりかけた回路を正常に戻した。

 これから先輩と会うというのに、嫉みなことばかり考えていてはとてもじゃないが大事を成しえない。そうだ、私は変わったんだ。だからもっと乙女らしく、愛すべき人のことを考えよう。

 私は半ば無理矢理に「あそこに、堂本先輩が……」と恋に恋する十代の思考に切り替え、いじらしく小指をくわえた。

 先輩の顔を思い浮かべると、もどかしくて居ても立ってもいられなくなり早足でマンションに向う、というのがこの状況で恋する乙女がとる行動として最適なものだとも思われるので、私はしこを踏むような歩調で気合を入れながらマンションに向かった。



 堂本先輩は、傲岸不遜という言葉を擬人化して、それにうら若き乙女の夢と希望とドロドロして臭くてばっちい欲望を一切合切詰め込んだような人だった。

 題材である「傲岸不遜」のその通り、先輩は誰に対してでも常に上から目線で、「俺様、神様、仏様」とでもいうようなワガママぶりには凄まじいものがあるが、でかい口叩くだけあって、イケメンで勉強も出来て運動神経は万能。しかもワガママに見えて、その実、弱いものを放って置けず誰にでも親切に手を差し伸べ、絶対に人は裏切らず、約束をなんとしても守るという男気溢れる人でもある。少々ぬけているところもあるけれど、逆にそれがカワイイと女子たちの間では評判で、我が校の女子の二人に一人は堂本先輩に憧れているといっても過言ではなかった。

 一体どこの少女漫画の登場人物だ! と僻む男子も多いだろうが、先輩のいい所はまだこれだけじゃあない。やめてくれ、やめてくれえ! と耳を塞いで現実逃避するモテない男子の姿が思い浮かぶようで、やめてやるかボケエ、と意地悪言いたくもなるが、語りだしたらキリがないのでこの辺でやめておく。

 とにかく、先輩はそんな長所も短所も絶妙に兼ね備えた完璧な男なわけである。

 一方で私は、あまり深く思い浮かべると必要以上に煩悶して繊細なハートに鞭を振るわねばならないのであっさりと説明するが、高校までの自分を一言で言うなれば、地味で根暗で性格が悪かった。

 あの頃の私には、恋人どころか、友達も一人もおらず、いつも教室の隅で呪いの言葉を呟き、世界中の人の不幸を願っていた。楽しそうにしているクラスメートはもちろんのこと、全盛期にはふと見かけた人の歩んできた人生を妄想し、その全てにいちいちいちゃもんをつけて、人間を根本から呪うのが日課になっていたほどである。その怨念たるや我ながら思い出して寒気を覚えるほどだが、ある事件をきっかけに先輩に出会い、恋し、なんとかお近づきになろうと乙女的に許容範囲内の卑劣の限りを尽くして、今日、先輩の家で勉強を教えてもらえるまでに辿り着いた。

 私はもう、人を呪い続けていたあの頃の自分とは違う。嫉むことはあるが、決して呪わないという大きな進歩を遂げたし、死にかけのメダカみたいだった外見も立派な乙女に変身した。

 そう、私は変わった。

 これからが私の輝かしい青春の始まりなんだ!


 

 ここでアカデミー賞の授賞式でもやるんですか? と嫉みたくなるようなエントランスを抜けてエレベーターに乗ると、十九階にあるという先輩の部屋まではすぐだった。堂本の表札の下にあるインターフォンを押すと、ぱたぱた足音が聞こえて、扉が開く。

「いらっしゃい」

 その細く響く声に私は咄嗟に返答出来なかった。なぜなら、その声の主が先輩ではなく見知らぬ若い女性だったからだ。

 黒い長髪のキレイな人だ。まるでここで暮らしているような、青いタンクトップにホットパンツという随分ラフな格好で、嫌味にデカイ胸の谷間が顔を覗かせている。髪はしっとりと濡れていて、何だかほにゃららを済ましてシャワーを浴びた後のような、けだるい大人の雰囲気が漂っていた。心なしか、私を見る目が怖い。

「ど、どなた、ですか?」

 私は恐々と訊ねた。

 すると、女性の背後から騒々しい足音と共に先輩の姿が現れる。寝ていたのだろうか、普段完璧にセットされた髪はボサボサで、まだ目が半開きである。ああ、やっぱりよろしくやりやがっていたんだなコノ野郎! と私の嫉み脳が本気で力を覚まそうとした瞬間、先輩は女性を押し退け、彼女に向かって怒鳴った。

「勝手に出るなよ、母さん!」

「お、お母さん?」

 母だと言う女性はふんわりと笑った。先輩ほどの息子がいるのだから最低でも三十の半ばを超えているのだろうが、いやに若く、まだ二十台前半くらいに見える。下手すれば、高校生でも通用する。

 驚愕する私を尻目に二人は言い争いを始めた。

「しかも、なんなんだよその格好は!」

「だって着替える時間がなかったんだもん」

「じゃあ出るなっつうの」

「なによいいじゃないの、挨拶するぐらい。だいたい、あなたが彼女を連れてくるなんて始めてのことなんだから、私だって嬉しいのよ」

「こんなやつ彼女じゃねえ!」

 先輩がすぐに訂正するので、私はなんだかショックだった。彼女じゃないのは事実だけど、少しくらい照れたりしてくれたっていいじゃない、と乙女らしく思ったりする。

 そんな私の気持ちを察してか、お母様は息を荒立てる先輩の頭を「デリカシーなさすぎよ」と小突いた。彼女はふくれる先輩を乗り越えて、私に右手を伸ばす。

「こんな息子だけど、よろしくね」

「あ、はい!」

 金持ちのくせに意外にいい人だなあ、と私は差し出された手を握る。

 こういうときには手の内に慎ましく画鋲を仕込ませておくのが乙女の嗜みというものだろうが、どうやら彼女は私の味方のようだし、その必要はなさそうだ。ゆっくり手を握ると、お母様の細い指も私の手を包んだ。うふふと微笑みたくなる春の日差しのような穏やかな雰囲気も一瞬、握った手がぐいっと力強く上下に振られた。

 私はお母様を見上げて唖然とする。

 優しげだった瞳が暗くドロリと揺らめき、ふんわりとしていた笑顔は鋭くつり上がって今にも少年少女をとって喰わんとする口裂け女のようになっているではないか。その嫌味にデカい胸の谷間からは、油田のように黒くてねばっこい邪心が滾々と溢れ出しているのが見える。

「よろしくね、ああよろしく、私の手塩にかけた可愛い息子をよろしくね」

 上下にぶんぶん振られる手に痛みが走った。お母様が私の手の甲に親指の爪を食い込ませていやがった。しかもこの人、わざわざ付け爪までつけてやがる。

 こいつ私と同類だ! と勘付いた瞬間、嫉み脳は抑え切れないほど回転し、私が今日のために努力して被り続けてきた乙女の皮がぱあんと風船のように弾け飛んだ。私の輝かしい青春への道をじゃまするなんて! ああ憎ましい忌々しい嫉ましい! 溜まっていたものが暴走して、もう手がつけられない。

 私はニコリと笑い、ぶんぶん振られる手を腕相撲の要領で無理矢理とめた。

「お母様は随分おしゃれなんですね、そんな年で悪趣味な付け爪つけちゃって。私なんかはこんな爪つけてたら料理も出来ないダメ主婦になっちゃいそうで、絶対つけられません」

 ピシリとお母様のコメカミに青筋が走った。

 この静かな戦いに先輩は気づいた様子はなかった。私にお母様を見られたのが恥ずかしいのか、そっぽを向いて頭をかいている。このババアの醜い様子を見ろよ! と言いたくもなったが、私も同じくらい醜いのでやめておく。お母様がドブの底で溜まるヘドロだとしたら、私は牛乳を拭いた雑巾で、まさに目くそ鼻くその様相である。

 それからしばらく、お母様と私はぐいぐい腕を押し合って互いの手首をヘシ折ろうとしたいたのだが、先輩がくるりと振り返り「てか、今日は勉強しにきたんだろ」と言うので、私たちは即座に乙女的非力握手に戻し決別した。「じゃあ、私はお茶を用意しないと」と下手な台詞を吐いて甲斐甲斐しく働く主婦に戻るお母様の背中を睨みながら、私は先輩について部屋に入る。

 ドアの隙間から見えるお母様の口が、ゆっくりと、しかし確実に「コ・ロ・ス」と動いたのを私は見た。



 先輩の部屋はキレイに片付いていた。

 ドアから向かって左にモノクロ柄のベットが置かれ、その対面には趣味だと言うギターなのどの楽器類が、奥には知的な本がぎっしり詰まった本棚が見える。先輩は先立って部屋に入ると、部屋の中央にちょこんと居座る丸テーブルの傍らに腰を下ろし、座布団を投げた。

「まあ、座れよ」

 私は純情っぽく体の前で構えたバックを床に置き、背後からの奇襲を警戒しながら座布団に座る。先輩は「ほら、さっさと勉強道具出せよ」とか言っているが、私は初めて踏み込む男性の部屋に興味津々で、先輩の言葉を無視して改めて部屋中を見回すことにした。私の部屋とは違い埃一つ落ちておらず、先輩同様いい匂いがする。さすがイケメンは違うなと思っていると、ふいに先輩と目が合って、私は自然と微笑んだ。あの性格の悪いお母様から、こんな愛らしい先輩が生まれてきたなんてとてもじゃないが信じられない。

「なに笑ってんだよ」

 先輩は何だか怒ったように言った。

「あ、そのごめんなさい。なんか、つい」

 さっきお母様と話していたときとは声も態度も違うな! という意見は野暮である。女とは得てしてそういう生き物なのである。

 それからしばしうれしはずかしな青春風味の無言が流れ、先輩が突然「あー! もう!」と頭を振って私のバックに手を伸ばした。そして、「まずは数学からだ! 俺様が言うんだから絶対だからな!」と続けて叫ぶ。私は自然と漏れる笑みを浮かべながら頷いた。

「だいたいなんで俺様がお前なんかに勉強教えなくちゃいけないんだよ」

 先輩はむっつり脹れて、取り出した教科書類をドンと机に叩きつける。

 私は唇を尖らせ、先輩の約束を破れないという性格を巧みに狙った。

「ひどい先輩! ちゃんと約束してくれたじゃないですか、勉強くらいだったらいくらでも見てやるって。それなのに、今さらになって約束を破るんですか? ひどい、ひどいです先輩。先輩は最低なうそつき野郎です」

「うっ。べ、別に、そういう訳じゃあないんだが……」

「じゃあどういうわけです?」

「えっと、あの……それは、悪かった」

 先輩は素直に頭を下げたので、私は思わず笑ってしまった。

「私と出会ったのが運のつきですよ」

 そうやって私が言うと、先輩はぷいっと顔を背けてしまう。

「ちくしょう、俺様としたことがお前といるといつも調子が狂う」

 ぶつぶつ呟きながらも先輩はそそくさと勉強道具を用意してくれる。

 そんな微笑ましい様子を眺めながら、私はわざとらしくノートに手を伸ばし、わざとらしく手を触れ合わせて「あ、すいません」「お、おう」という青春ドラマのワンシーンを再現しようとするのだが、あともう少し! というところで背後のドアが弾けるように開いてそれは中断された。

「やあね、このドア立て付けが悪いわあ」

 これまたわざとらしく嘯きながら、お母様は部屋に乗り込んできた。片手には定石どおりお茶の乗ったお盆がある。そして定石どおり、コップは三つある。お母様は邪魔者根性丸出しで、居座る気マンマンだ。帰れババア、コノ野郎! なんて下品なことは思っても言わない。さっきは理性がはじけ飛んでしまったが、先輩の前で本性をモロ出しして、せっかく掴んだチャンスを逃すわけにはいかないのだ。

 お母様は膝を着くと、

「ごめんね、安いお茶だけど」

 と言いつつお茶を配って、空いた席に自分のお茶も置き、さも当然のように会話に加わろうとした。私はすかさず何がはいっているかも分からないお茶を一気に飲み干し「あ、すいません。お茶のお替りもらえますか?」と牽制する。すると、お母様は頬をひくつかせながらも自分のお茶を私に差し出すので、それをまた一気飲みしてやるとようやく部屋から出て行った。

「よく飲むなあ、お前」

 先輩が呆れたように言う。

 私はたぽんたぽんになったお腹を抱えて、恥ずかしがるフリをした。

「お母様の入れるお茶がおいしかったから」

 心の中で私は豪快にガッツポーズを決める。

 


 高校入学当時、まだ私が世界中の厭世を粘土のようにこねて創られたドロドロ人形だった頃。教室で人を呪うのにも飽きてトイレで花子さんでも呪おうかとしていたときに、私は先輩と出会った。

 トイレに向かう私はふらふらとボウフラのように廊下の端を歩いていたのだが、運悪く横一列になった不良さんたちとぶつかり、あらぬ因縁をつけられていた。彼らははためいて鬱陶しいだろうと思われる前開きの学ランを見せびらかすように胸を張り、無精ひげの生えた顔を必要以上に近づけてくる。私は背が可愛らしいので、背の高い不良さんは腰の曲がったおばあちゃんのようにして迫った。そんなにしてまで顔を近づける意味があるのか? と聞きたくなるが、それが古来からの決まりらしいのでしょうがない。

 と、こうしてやや皮肉を交えて過去を振り返る私だが、そのときは恐ろしさのあまり声も出ず、隅に追いやられて小兎のようにぷるぷる震えていた。人を呪い続けてきた私もれっきとしたか弱い乙女であり、人の不幸を喜べても、自分の不幸は大嫌いなのである。

 廊下に人通りはあったが、誰もが厄介ごとをさけて助けてはくれない。

「やだあ、たすけてえ……」と我ながらガラにもない悲鳴を小さな小さな声で漏らしていると、突然前の一人が姿を消した。

「なんだあっ?」

 不良さんたちが一斉に振り返る。そこには股を押さえてうずくまる不良さんAと、コキコキと首を鳴らす堂本先輩の姿があった。

 トイレにわざわざ出向いてそこに住む妖怪まで呪おうとしていた私だが、恥ずかしげもなくその先輩の姿をカッコイイと思った。胸が嘘みたいにドキンと跳ねて苦しくなり、一瞬投げかけられた先輩の優しい目も相まって、私は力が抜けて立っていられなくなった。ずるずるとその場にへたり込む。

「やっちまえー!」と先輩に勝負を仕掛けた不良さんたちは、すぐにギャグ漫画のようにコテンパンやられ尻尾を巻いて逃げていった。先輩も颯爽とその場を後にする。

 私は呆然と胸を押さえながら、たぶん世間一般で言われる一目惚れという感情に戸惑い、しかし幸せというような気分で先輩の後姿を視線でなぞった。恋は唐突に、とはよく言ったものだが、一目惚れには家を出てすぐダンプカーに撥ねられたような唐突さと衝撃がある。あの天に召されたように体がふわふわした感覚は未だに忘れることが出来ない。とても幸せな気分だ。

 そしてそのとき、私は心に誓った。

 これからの人生、あの人の隣で過ごしていくと、そのためなら手段なんか選ばないと。

 かくして、他人を巻き込みまくる迷惑極まりない私の恋路が始まりを告げたのである。



 先輩はさすがに上級生で、しかも三年間学年一位の成績を保ち続けているだけあって、教えるのも非常に上手かった。

 本当は分かっているけれど、わざわざ分からないフリをしちゃういじらしい私に、先輩は逐一丁寧な解説と応用問題まで講釈してくれる。このまま私の家庭教師になってください、とお願いしたくなるほどで、私はそのことでちょっとハレンチな乙女の妄想をした。家に先輩が居る生活、ああ、なんて素敵なのだろう。早くこの家から先輩と二人で出て行きたい。

「なあ、お前そんな問題で詰まるほどバカだったのか?」

「わわっ、すいません! ボーッとしてました」

 垂れそうになった涎を拭い、私は意識を勉強に戻す。

 しかし今の辺りの問題はあまりにも簡単で、質問しようにも「足し算ってなんですかあ?」というトンチンカンなことくらいしか難点は見当たらず、話しかけるタイミングが中々掴めない。もどかしくてちらちら先輩を覗いていると、「集中しろ!」と丸めたノートで頭を叩かれた。ニブチンな先輩に、私は一人むっつり膨れる。

 せっかくお母様もいなくなって二人きりになれたのに、こんな風にチャンスをみすみすドブに捨てていてはあのドブのように汚いババアに喜ばれるだけだ。だいたい、私はどうにもチャンスに弱いという面がある。過去に何度かあったチャンスだって、ここぞというときに勇気を出せず、決定的な一打へ踏み出すことが出来なかった。今日だって、こんな勉強してエロい妄想しにきたわけじゃないし、もちろん、あのドブババアを退治しに来たわけでもない。

 そうだ、今日は、その、ついに、あ、あ、愛の告白しにきたんだ!

 再び決意を固めると思わず手に力が入り、シャーペンが音を立てて砕け散った。破片が飛び散り、先輩が「うおう」と悲鳴を上げて仰け反る。

「どどど、どんな握力してんだよ!」

「その、すいません、つい」

「女子が、つい、でシャーペンを砕くか普通っ?」

「砕くんです、普通」

 先輩はまだ訝しげだったが、私は力押しで乗り切った。

 ワガママなのに案外押しに弱い先輩はぶつぶつと文句を垂らしながらも、甲斐甲斐しく飛び散ったシャーペンの破片を拾ってくれる。そんな先輩を見ていると、私は馬に手渡しでエサをやって食べてもらえたときのような感動を覚え胸を打たれた。ふわふわとしたどうしようもない気持ちを抑えきれず、破片拾いを手伝いながら、もう一度、偶然の手のふれあいを演出しようとするのだが、今度は頭上に冷たいものが降ってきた。

 どうやら先輩の腕が机の脚にあたり、お茶がこぼれたらしかった。

「わりい!」

 先輩は慌てて叫んだ。「大丈夫か?」

「あ、あははは」

 笑顔で対応しながらも、外からお母様の高笑いが聞こえてくるようで私はわなわなと怒りに震える。神様、コノ野郎! あまりにも私への風当たりが強すぎる!

「待ってろ、すぐタオルとってくるから!」



 先輩が部屋を出てすぐ「きゃあ!」と悲鳴が上がって、私も慌てて外に出る。

 声の方向は廊下の奥で、私は滴る水滴を手の甲で拭いながら早歩きで向かう。なんだか不穏な予感に胸がざわめいて、私はきゅっと唇を噛んだ。

 廊下のどん詰まりにある開けっ放しのドアに辿り着き、恐る恐る中を覗く。

 そこはどうやらお風呂場らしく、中を見るとまず奥に曇りガラスの仕切り戸が見え、左に電球で照らされた洗面台が、続いて先輩の背中があって、そして下着姿のお母様が――

「ち、違うんだこれは! タオルを取りに来て、その、あの」

 先輩が振り向き、真っ赤になった顔の前で手をぶんぶん振った。

 お母様はその横で、たゆんたゆんとその恨めしい胸を揺らして顔を赤らめている。

「お母さんの着替えを覗くなんて、もう」

 恥ずかしがるような台詞を言いながらも、お母様の口元はニヤニヤと喜びに笑っていた。私が濃い怨念を込めた目で睨むと、お母様は再び醜く肥えた脂肪の塊を揺らし、私の横から光を当てても一抹の翳りも出来ない清々しい胸を見てふんっと鼻で笑いやがる。こ、ここここここここの、なに偉そうにしてやがるんだ大胸筋デブ! お母様に言いたいことは山ほどあったが、とりあえず、未だに実母の裸体に顔を赤くしている先輩を殴った。先輩はなにか喚くが、この判断は間違っていないはずだ。私はもう一発殴った。

「なにをしてるんですかお母様?」

「着替えよ、着替え。あなたの前で、あんなラフな格好じゃあ失礼かなと思って」

 どうやら、お母様はこれを狙っていたようだ。

「それにしても、ごめんなさいね、こんな息子で。かわいい彼女がいるのに、わざわざお母さんの裸を覗くなんて、なにか不満でもあるのかしらねえ、もう」

 と、また私の胸を見た。見た!

 殴った頭をさすっていた先輩が叫ぶ。

「ただの事故だって!」

「いいから先輩は出て行ってください」

「でもだなあ」

「うるさいです」

 ぴしゃりと言いのけると、先輩は「なんで俺様が命令されなくちゃいけないんだ」とぶつくさ言いながらも部屋に戻る。

 先輩がいなくなり、女二人だけとなった地獄のような空間で、ついに私たちは本性を現した。

「あらあら、あんたみたいな汚いメス豚は女は男をたてるものだってことを知らないのかしら?」

「アバズレ年増は、息子に裸を見せていいのは六才までって知らないんですか?」

 ゴゴゴゴと辺りに暗雲のようなものが立ち込める。

「ちょっと、裸を見せるって酷い言い草ね。さっきのはしょうがないでしょう、あの子が勝手に見たんだもの」

「嘘ですね」

「嘘じゃないわよ、どっかのだれかさんの貧相な胸に嫌々してたんじゃないの」

「いちいち胸を揺らさないでくださいます?」

「揺らしてないわ、勝手に揺れちゃうの。ほら、たぷんたぷん」

「へえー、ふうーん」

「まあ、このくらい普通よね。たぷんたぷん」

「キィー! 腹立つうう!」

「あら、貧乳ブス猫がお猿さんのモノマネ?」

「うるさいドブデブババア!」

 荒い息を吐く私にお母様はタオルを投げつけると、私を風呂場から突き出した。

「まあいいわ、早く勉強でもなんでもして帰って頂戴、彼女でもなんでもない、ただの、お友達さん」

 ああ、コイツとは絶対仲良くなれない。



 女は汚い。

 まあ私も大概ではあるが、私の周りにはとくに酷いヤツが多くいる。今を見れば、もちろん先輩のお母様が筆頭するし、過去を振り返れば、ややお母様より劣るものの世間一般で言えば十分汚い「堂本先輩親衛隊」が思い浮かぶ。私の恋路が他人に迷惑をかけまくる迷惑極まりないものになったのも、半分以上は「堂本先輩親衛隊」こいつらの心の汚さのせいだと言い切れる。

 では、「堂本先輩親衛隊」とはなんなのか。

 これは簡単に言えば、なんの権限があるのかは分からないが堂本先輩の周囲を監視し、告白またはプレゼント等の恋愛的行為を取り締まるという、自分が告白する勇気のないことを棚に上げて他人の恋路を「いやらしい」とか「すけべすけべ」と軽蔑するモテない卑屈女の集まりである。古今東西ありとあらゆるファンクラブがあろうとも、こいつら以上に卑劣な組織はないだろうと言い切れる。彼女らの卑劣な根性は骨の髄まで染みていて、堂本先輩に近づく者は教師だろうが、他校生だろうが、おばあちゃんだろうが、幼女だろうが、ホモセクシャルだろうが、年代性別国境感情ありとあらゆるものを無視して、水面下でネチネチとした制裁をくわえてゆく。

 その残虐非道ぶりは学校に蔓延る女子派閥の中でも頭一つ抜けたものがあり、高校入学当時の私でもすでにその存在を知っていた。そして不幸にも、すぐに出会うことになる。

 先輩に助けられた後日、私の机の上にはご丁寧に彼女たちからの手紙が貼つけられていた。


「猥褻な妄想を浮かべてニヤけているであろうあなたの夢を砕くようで大変申し訳ないのですが、堂本先輩はあなたになんの気も持っていません。不良からあなたを助けたのも、道端に落ちている空き缶をゴミ箱に入れるような彼の一般的な道徳心であり、あなたを特別視しているとか、運命の出会いとかというものとは遠くかけ離れたものです。

 もし、あなたがこのような警告を発してもまだ先輩に対していらぬ好意を抱いたり、直接的な、所謂告白などという不埒な行為に及ぶようであれば、こちらも実力行使に望まざるおえません。そのような手段は出来るだけ避けたいと我々も考えるところであって、あなたがそのような馬鹿な行為に望まないことを祈ります。くれぐれも猥褻な妄想を押さえ、愚かな恋心を慎まれるようお願いいたします。

 堂本先輩親衛隊一同」


 私はその手紙をすぐにびりびりに破き、ゴミ箱に捨てた。

 不良さんたちみたいな直接的圧力に弱い私も、このようなネチネチとした間接的圧力には強い反感を覚える。卑劣である。このさい、私が日々行ってきた人々の不幸を願い呪うという間接的攻撃行為は無視するとしよう。だいたい、個々は気弱でモテない女の癖に、集団になると急に威張り散らしてさも自分たちが完璧な正義だと言わんばかりの彼女たちの腐った性根が気に入らない。私の尊い恋路を邪魔するのも非常に気に入らない。

 私は軽く彼女たちを呪うと、さっそく警告を破って先輩に会いに向かった。

 あわあわと昨日の礼を述べ、たどたどしくも先輩と会話できた幸せにスキップで教室で戻る乙女な私の机には、再び彼女たちからの警告文があった。内容は簡潔に「次、先輩に近づいたらコロス」。周りを見れば、数個の人影が壁に隠れた。監視されているようであったが、私は警告文をくしゃくしゃに丸め、面子の要領でゴミ箱に投げ入れる。

 どこからでもかかってこいやコラア! と私は巻き舌を唸らせて、心の中でひっそり叫んだ。



 私は投げつけられたタオルで髪を拭い、ついでにそれを「キィーッ!」と噛みながら先輩の部屋に戻った。

 先輩はベットに悠然と腰掛けながらもまだ頬が上気しているように見え、私はいよいよ早期の告白を迫られる。他人に先輩を取られるのも嫌やだけれど、先輩と血のつながりのあるクソババアに取られるようなことがあっては私はもう死ぬしかない。

 私はじっとドアの前で立ち尽くした。

 先輩は胸で女を選ぶような人ではないし、実母を女として見るような変態でもないはずだ。むしろ、あれだけモテているのに恋愛経験がないという先輩が、女性に何かしらの性的感情を覚えているのかすら分からないときもあるが、彼は決してホモではないと信じたい。

 先輩は私に気づき顔を上げた。

「おう、さっさと勉強再開するぞ」

 別に可愛い子ぶっているわけでもないのに胸に添えられる手で、ドックドックと働きすぎの心臓を感じる。雰囲気もへったくれもあったものではいないが、こういうものは決意したその勢いで言わなければ一生言えない。黙る私に、先輩は何故か顔を赤らめた。もしかしたら、私の告白するという決意が毛穴からどばどば漏れて、この時点でほぼ告白を済ましているような状況なのかもしれなかった。

 だけどそれでも、言わなくちゃいけない。伝えたい!

「おじゃましまーす」

 ドアが開いてお母様二度目の来襲。

 てめえええええええええええ、コノ野郎おおおおお! と告白を中断されて行き場の失った感情が暴走して、お母様にたいする罵詈雑言が体中が駆け巡った。ここに先輩さえいなければ私は容赦なくそれを解き放ち、お母様を悪口の圧力でペシャンコにさせるのに! 無駄にボディラインの見えるワンピースに着替えたドブデブババを私は久々に呪わざる終えなかった。シワが増えろ! ぜい肉が増えろ! 胸が垂れろおおおおおお!

「あれれ、お邪魔だったかな?」

 またも確信犯はしゃあしゃあと言う。

 こういうときの女のライバルに対する無意味な察しの良さは本当に腹が立つ。もう私の腹は乱立しすぎて、一寸先を確認することさえ困難となっていた。くやしくて、地団駄を踏みたがる足を必死に押さえていると、お母様が私の耳元に口を寄せ呟いた。

「まあまあ、落ち着いて」

 その小脇にはまた何かある。電話帳くらいの本だ。お母様はそれをにこやかに持ち上げた。

「じゃーん、アルバムでーす」

 傍らの先輩が血相を変えて飛びかかった。

 お母様はそれを年増のマタドールのように華麗に避け、悠然と丸テーブルにアルバムを広げる。

「さあさあ見ましょう、見ましょう」

「待てよ、おい!」

 先輩が顔を真っ赤にして叫んだ。「俺様の許可なしに話を進めるな」

「いいじゃないの。減るものじゃないし」

「いやだ!」

 先輩は断固として拒絶しているが、こういう事態になってしまっては私もお母様に味方せざるおえない。小さい頃の先輩とか、すっごく見たいじゃないか。

「先輩、見ましょう!」

「お前まで俺様に逆らうのか!」

「だって、見たいじゃないですか。幼稚園児の先輩とか、絶対可愛いですよ」 

「べ、べつに可愛くない!」

 先輩はふんと鼻を鳴らして、壁を向いていじけてしまった。

 ここは慰めておくべきところかと一瞬迷ったりもしたが、私はすぐにアルバムの魔力にやられてお母様の隣に座る。アルバムを覗けば、愛らしくてもう何かいろいろな体液が出てきそうな幼き先輩の姿がある。赤ちゃんなのに先輩は、偉そうにゆりかごの中で腕を組んでいた。二の腕がマシュマロのように白くて柔らかそうで、その感触を妄想しながら宙で手をむにむにして私は夢見心地となる。お母様もまた同じようにうっとりしていた。

 まだ一ページ目の一枚目の写真だというのにこのアルバムの破壊力はなんだ。これが後二十ページほどもあるなんて、第二次世界大戦中にこのアルバムがあったのなら戦争に終止符をうつのは核兵器でなかったに違いない。あのような悲劇は起こらず、皆々先輩の可愛いさに酔いしれ、「ああ、こんな可愛い子を巻き込んでまで、戦争なんかするものじゃない」と各国首脳は平和を求めたことだろう。私とお母様も今はしがらみを忘れ、肩を擦り寄らせてアルバムをめくり、きゃっきゃうふふの思い出話を織り交ぜた成長記録に夢中になっていた。

 幼稚園時代のページでは、

「この頃はねえ、大きくなったら母さんと結婚してやるって聞かなかったのよ。今も昔もマザコンねー」

 とお母様が自慢話を差し込んだりもしたが、私もとくに噛みつかない。そんなことに気をとられている場合でもなかった。

 しばらくして一通りアルバムを見終えると、今度はお母様が幸せに呆ける私に促した。

「で、二人の馴れ初めはどうなの?」

 お母様は机に肘をつき、放課中の女子生徒のようなニンマリとした笑顔を浮かべて言った。その顔から、以前のようなドス黒い邪気が感じられないのはどういうことだろうか。あまりの変わりように罠ではないかとドキドキする。

 ちらりと様子を覗えば、先輩はもういじけて膨れに膨れきった身体を自由に動かすことも出来ないようで、壁の方向を向いて胡坐をかいたままぴくりとも反応しない。

 馴れ初め、と言えるほど綺麗なものはないが、私と先輩が急速に近づくことになったあの史上最大の作戦「堂本先輩と二人っきり作戦」を思い出す。

 自分で画策しておきながら言うのもなんだが、あれは本当にみっともなかった。



 「堂本先輩親衛隊」から送られた二度の警告文を捨てた私の周囲には、厳重な警戒が張られることになっていた。もっと他にすることはないの? と呆れるほどだが相手はいたって真面目で、常時三人ほどの監視員が教室の隅でぼんやりしている私を見張っていた。日々変化のない私を見張るのは敵ながら暇で辛い任務だったと思うが、彼女たちは強面を崩しはしなかった。

 もう新緑も盛りを過ぎた五月のことである。

 ジャブのような嫌がらせや、学校内での監視を受けつつも、私は着実に先輩への恋心を育み日々乙女への道を歩いていた。それと同時に「堂本先輩親衛隊」への悪巧みも育み、悪女への道へも突っ走っていた。主に悪女の道に重点を置いていたのは言うまでもない。

 私は反逆の準備のため、反「堂本先輩親衛隊」として地下活動を続ける生徒と接触を謀った。密会が漏れないように朝は早く、校内には朝錬の野球部の姿さえ見当たらない。太陽さえまだ目を半開きにしているような早朝だ。

 暗い教室内で、反「堂本先輩親衛隊」のリーダーは短く切りそろえた黒髪を揺らし、淡々と挨拶を済ました。目は鋭く切れ長で、非常に知的な雰囲気が漂うキャリアウーマンみたいな女子だった。きっと将来は「私は自立した女なの」とか言い訳をする立派な売れ残り女になることだろう。

 軽い握手を交わすと、リーダーは早速切り出した。彼女のいらだったように吊り上った眉が高圧的だった。

「私たちの頭数はそんなに多くないし、力もない。それでいても、この状況を打破出来るような完璧な策戦を思いついたというのか?」

「もちろんです、はい」

 まず私は所詮「堂本先輩親衛隊」など義理も人情も友情もなく、己の弱さと卑劣さで成り立っているグループだということを説明した。「だから、付け入る隙はそこにあるのです」と示唆したのち、ふんふんと冷静に頷くリーダーの耳に口を寄せ、天啓とも言うべきにして思いついた悪魔的策戦を私は伝える。

 策戦はこうだ。

「堂本先輩親衛隊の誰かが、先輩に告白するようにしむけるのです」

「それだけか」

 リーダーは憮然と言った。

「まあ万が一にも告白を承諾されるという危険性を考えれば、話しかけさせるだけでもいいかもしれません。それだけでも彼女たちは嫉妬に怒り狂って同士討ちを始めることでしょう」

「無理だ。じゃあな」

 帰ろうとする先輩を、私は慌てて引き止める。

「今日の三限目の放課は親衛隊の主力メンバーたちが体育の授業の準備で、先輩の護衛はいくらか弱まるはずです。リーダーたちは護衛を食い止めてください。私が私の監視員たちを引き連れて行き、あとは上手くやりますから」

「ふむ」

 先輩は立ち止まり、腕組をして思案しているようだった。ややあって、何か決心したように頷き、私に鋭い眼光を向けた。「単純だが、確かに効果はあるかもしれん。やってみるのも悪くはないが、お前を信用するかは別の話だ」

「え?」

「だから、私たちが護衛を止めている間に先輩に告白したりはしないだろうな」

 リーダーの瞳がさらに鋭くなる。

 私はへへえと頭を下げた。

「ええ、絶対に告白なんかしません。告白なんか」



 いざ三限目の放課となると、私もさすがに緊張した。

 リーダーから準備完了のメールが入り、私は服装を整えて立ち上がる。決意を固めて一歩踏み出すと、監視員たちの動きも慌しくなった。私は彼女たちを一瞥し、中でもまだ卑劣に染まりきっていなさそうなウブさが残る一人を生贄に定めた。親愛をこめて彼女のことを生贄さんと呼ばせていただく。

 大儀に胸をFカップくらいに膨らまして、先輩の教室を目指すと、辺りは一層騒がしくなる。徐々に放課中の喧騒に、女の怨念が混じり始めた。

 いよいよ教室の前に辿り着くと、タイミングよく先輩がふらりと姿を現した。

「堂本せんぱあい!」

 私が恋によって目覚めた猫をフルに被って可愛らしい声を上げたそのときの、周りに隠れていた護衛やら監視員たちの怒声たるや筆舌に尽くしがたいものがある。鉄パイプを切断するときのような金きり声に混じった怨念が耳から滑り込んで来て、体中は一瞬にしてモテない女汁で埋め尽くされた。さすがの私もこれには悶絶する。続いて息をつく間もなく地を揺らすほど強い足音が前後左右から迫り、私は本気で命の危機を感じて駆けた。

「まてやコラァ!」

 監視員たちが乙女にあるまじき声を上げる。眼前の先輩が唖然としていても遠慮なしだ。

 あまりの恐怖にこのまま本当に逃げ出してしまおうかとも思ったが、リーダーたちは策戦通り護衛たちを押さえてくれているようだったし、ここでやらねば女がすたる。私が意を決して先輩の前で急ブレーキをかけると、監視員たちは勢いあまってよろめいた。その間に私はそそくさと生贄さんの背後に回り、その背中をぽんと押す。

 先輩は誰に対しても優しいので、例え彼女たちの本性を見て唖然としていても、倒れかける生贄さんの身体を反射的に抱きかかえた。

「おっと、大丈夫か?」

 先輩が言う。

 すると般若のような顔をしていた生贄さんが瞬く間に可憐な乙女の顔となり、ぱあっと花を散らしたように頬が赤らんだ。

「あ。す、すいません」

 このときのリーダーたちと押し合い圧し合いしていた護衛や、傍らの監視員たちの怒声は、これまた筆舌に尽くしがたいものがあった。目標が私から生贄さんに移り変わり、さっきよりも怨念は五倍増しである。一応は、志を共にして共闘してきた仲間だというのに、一瞬にしてここまで掌を返して敵意を向ける彼女たちの腐った性根には感動さえ覚えたものだ。そして、絶対こうはならないと心に誓った。

「てめええええええ!」とか「このやろおおおおおおおお!」と叫んで他の監視員が生贄さんに飛びかかった。リーダーたちが押さえを解いたようで、護衛たちもそこに加わる。瞬く間に、廊下がヘドロでヘドロを洗うような醜い戦場と化した。

 彼女たちに弾き飛ばされて尻餅ついていた私の腕を、リーダーが持ち上げた。

「やったな」

 リーダーは嬉々として言った。彼女の後ろを取り巻く、反「堂本先輩親衛隊」の諸君も勝どきを上げている。「大成功だ!」

 私は立ち上がると彼女たちにニッと笑って見せた。

「まだまだ、本番はここからですよ」

「えっ?」

「だって堂本先輩は私だけのモノですもん」

 私はリーダーを突き飛ばした。

 倒れるリーダーはきっと走馬灯が流れるがごとく私を信用したのを後悔し、世界がスローモーションになるのを感じていただろう。私はケケケと悪魔の高笑いをした。リーダーのあんぐり空いた口から怒号が上がる。「裏切りだッ!」

 反「堂本先輩親衛隊」の諸君が飛びかってきた。私は即座に「堂本先輩親衛隊」のヘドロ戦争の中に身を投じ、するすると蛇のような身のこなしで唖然とこのヘドロ戦争を眺めている先輩の下へと駆け寄る。反組織の方々はヘドロ戦争に足止めされて着いて来れず、中で殴られたり殴ったりもみくちゃになっている。

 その隙に私は先輩の手をとり、叫んだ。

「ここは危険です、一緒に来てください!」

「あ、ああ」

 戸惑う先輩を一本投げするような勢いで引きずり、私は予め策定しておいた自作避難経路を辿る。ぼちぼちヘドロ戦争を抜け出してきた反組織の方もいるようで私の逃げ足はオリンピック選手級の韋駄天となり、「ちょっとぉ歩くのが早いよ」とかカマトトぶって男子の裾をつまむ一般女子とは真逆の様相を呈していた。それでも、さっぱりしていそうな外見とは裏腹に愛欲が強いらしいリーダーが馬のようにいろいろ垂れ流して必死に走り、あわやというところまで追いついてくる。文字にすることさえ困難な罵声が私の背中に投げつけられ、ついでにハンカチとかポケットティッシュまでも投げつけられた。

「待てえ! 待てえ! ぬけがけに告白をしようとしていたのは、私の方がさきなんだぞ!」

 ひたすら喚きまくっていたが、私が華麗に上履きを脱ぎ捨てるとリーダーはそれを踏みつけ滑ってこけた。リーダーはここで退場である。

 その後はなんとか捕まることなく目的地の給水室に辿りつき、私は先輩をそこに投げ込んだ。給水室は屋上の給水タンクの下にあり、中はなにやら機材が並ぶ薄汚い小部屋となっている。扉を閉めて、内鍵をかけると一筋の光もなくなり、闇に慣れない私の目には愛すべき先輩がぼんやりと映った。

「一体全体、どういうことなんだ?」

 先輩は声を荒げて言った。

 私は諭すように説明する。

「第六天魔王波旬の復活によって海底から溢れ出た邪気が、この学校の汚い心を持つ女子たちに取り憑き、あのような汚いヘドロ戦争を始めさせたのです。私はそれを再誕した神様からいち早く聞きつけ、先輩を助けに向かったのです。そしてここが神様のに守られた聖域なのです」

「……なにを言っているのか全然分からん」

「とりあえず、ほとぼりが冷めるまでここで待ちましょう」

 私がちょこんと三角座りすると、先輩も腑に落ちないように頭をかきむしりながらも対面に座った。

 しん、と給水室に沈黙が流れる。

 かと思われたが、さっきの全力疾走とこの状況下により、私の鼻息が荒々しく部屋中に響いていた。暴走する心臓を治めようとして小さな胸を押さえるが効果は無く、私は膝の中に顔を埋めた。

 暗い密室に若い男女が二人きり。それも片方は冴えない私だが、片方はイケメン完璧男子の先輩である。ほこりっぽい空気さえ先輩色に染まり、彼が居るだけで空気がうまくなる。こうなることを策謀していたというのに、私は先輩と足先が当たるだけでいちいち死にそうになっていた。それも上履き越しの接触だというのにだ。想像の百倍緊張する。これでは夜な夜な妄想してきた、ちょっと大人な少女漫画みたいにここで、その、キ、キキキキキキキス! とかはもう先輩を殺人犯にしかねない。

「おい、大丈夫か?」

「だ、い、じょうぶ、で……す」

「おい、おい!」

 本気で心配してくれた先輩が私の半ば痙攣する手を取り、ついに先輩の柔肌が私の肌に直に触れた――

 情けないが、ここから先の記憶はない。

 あまりのことに気絶したらしく、気づいたときには夕暮れで、私は保健室のベッドで寝ていた。そこに先輩の姿はなかった。代わりにと言っては何だが、死神みたいに不吉な顔をしたリーダーが枕元に立っていた。どういう経緯かは分からないが、どうやら先輩に「面倒見てやってくれ」と頼まれたらしく、しぶしぶ引き受けたらしい。

「なにも、なにもしてなかったでしょうねえ!」と胸倉を掴んでくるリーダーに、「先輩に生肌を触られました」とニヤニヤして言ったら、凄い勢いで頭突きをされた。



 その後日、この件で元から薄かった「堂本先輩親衛隊」の結束がいよいよ崩壊し、「堂本先輩親衛隊」は空中分解寸前となる。

 そんな中、リーダーは抜け目無く親衛隊メンバーを味方に取り込んでいたようで、その後彼女が新しく立ち上げる「ネオ堂本先輩親衛隊」は圧倒的な力で学校の女子派閥を牛耳った。リーダーはその持ち前のキレる頭脳をフル活用し、隊の運営、他派閥への圧力がけ、先輩に近づく女の排除(主に私である)と、勉強そっちのけで日々精力的に動き回っている。非常に迷惑な精力だとしか言いようがない。

 ちなみに、旧「堂本先輩親衛隊」の隊員からの圧力から一時はあわや不登校と思われた哀れな生贄さんも、私に恨みがあるという点でリーダーと意気投合し、今や「ネオ堂本先輩親衛隊」の幹部となって私の監視へと復帰している。

 まあ、またいずれ「ネオ堂本先輩親衛隊」も潰してやるつもりである。


○ 


 ということを私は掻い摘んで掻い摘んで、自分に都合のよい感じで語りつくした。

 お母様はそれをふんふんと聖母のような穏やかな顔つきで聞いていた。先輩は相変わらずむくれっぱなしであったが、途中「先輩に生胸を揉まれました」と嘯くと、「手を握っただけだ!」と即座に否定し、そこからは戦時中の検閲官みたいに強い顔つきで私の話に耳を傾けていた。

 やがて自分でもびっくりするほど美談に纏まった話が終わると、妙に悟ったような顔をしたお母様が私の元に寄った。

 お母様の肩は淋しげに下がり、しかし瞳には強い意志が見受けられる。一歩間違えば、このまま自殺するのではないかと思われるような雰囲気がお母様にはあった。いくら私がお母様のことが大嫌いとはいえ、出会ったその日に自殺されては目覚めが悪い。

 私がやや心配していることにきづいてか、お母様はふんわりと笑った。

「今まで意地悪しちゃってごめんなさいね。これから息子をよろしく」

 そう言って、私が反応する間もなくお母様は私の頬を殴った。しかも本気で、しかもグーで。

 殴り飛ばされた私は「へぶう!」と悲鳴を上げる。

 愛する我が子をどこの馬の骨かも分からないような小娘に引き渡す決意をしたお母様が、自分の気持ちにケリをつけるために私を殴るのは分かるが、なにもグーはないだろう。こういうときはマナー的にもビンタと決まっている。じんじん痛む歯茎に私はつい躍起になって思いっきり殴り返そうとしたが、お母様は早々に立ち上がり背を向ける。

 そうしてそのまま出て行くかと思いきや、お母様は振り返り今度はビンタしてきた。一回目のビンタはマナーの範囲内だと確かにさっき言ったが、二回目となるとビンタとはいえマナー違反だ。というより、二回目自体がマナー違反だ!

「なんで二回も叩くんですか!」

「あああ、もう、やっぱり無理だもん! 理解ある、いいお母さんになろうとしたけど無理! こんな子に私の可愛い息子を上げたくない!」

 お母様は髪を振り乱して、いよいよ癇癪を起こした。

「いい加減大人になってください、お母様」

 私は諭すように言う。

 お母様は人食い鬼のように顔を歪めた。

「私がどれだけこの子に手をかけて、愛情を注いできたか分かってるのっ? あんたのために育てたんじゃないのよ、この子は私の王子様なんだから! 私にみたいに美人で、グラマーで、教養があって、料理もできて、そんな完璧な女じゃないとつり合わないんだから!」

 お母様はまだまだ止まらない。「大体、なんであんたなのよ! もっと他にいい女もいたでしょうに、なんで貧乳で、ブスで、性格悪くて、口が悪くて、妙に態度のでかいあんたを選んだのよ! ああ、もうイヤ、殺したい。あなたを殺して、親子二人で幸せに暮らしたい!」

「好き勝手いってくれるじゃないですか。お母様だって私と大して変わらないくせに!」

「うるさい馬鹿娘! その使いすぎたまな板みたいな顔が気に入らないんだよお!」

「こっちの台詞じゃボケえ! 出目金の死体みたいな顔しやがって!」

 その後も散々キャンキャン言い合って、殴り合ったが、青春ドラマみたいに熱い友情は芽生えなかった。ただ傷だけが残るのは、いかにも現実的である。ドラマの欠片もない。

 やがて私たちの広辞苑三冊分くらいある悪口ボキャブラリーが尽きかけたころ、ある重大な事実に二人は気づく。

「だいたいあんたの態度がハッキリしないからいけないのよ! どっちか選びなさいよ!」

「そうですよ先輩! いっつも女に興味のない振りしやがって! 中二かっつうの!」

 私とお母様の矛先は先輩に変わった。

 これまで呆然と私たちを眺めていたらしい先輩はビクリと肩を上げて、あんぐりと口を開く。

「おっ、俺!?」

「そうだ馬鹿息子!」お母様が歌舞伎のように髪を回して叫ぶ。

 私もお母様に負けじと叫んだ。

「どんだけ鈍感なんですか! でも、そんなとこもカッコイイ!」

「ちょっと、なにドサクサに紛れて言ってやがるのよコノヤロウ! ずるいぞ小娘!」

「あはは、ばーかばーか」

「黙れ、もっと馬鹿っ」

 再び取っ組み合いを始めようとする私たちの間に、先輩が割って入る。

「おい、やめろやめろ。だいたい、なんで俺が悪いんだよ?」

 この後に及んでのおとぼけ発言に、私もお母様もぷるぷると怒りに震える。

「「大馬鹿!」」

 二人は声を合わせて言った。



 私は少女漫画に憧れていた。

 カッコよくて、くさい台詞とか言っちゃうけど、自分を愛してくれる彼氏がいて、なんでも相談できる友人、理解ある彼氏の母親、そんな人たちに囲まれて暮らす日々。教室の片隅でいつも一人ぽつんと人を呪っていた私は、毎日秘かにそんな生活を想っていた。友達とカラオケに連れて行かれたかと思えば、サプライズ誕生日パーティーを開いてくれて、その後彼氏にプレゼントを貰ってラブラブ二人で過ごす。欲張りだけど、そんな高校生活が欲しかった。先輩の傍で一生を過ごすと誓ったとき、私は同時に、あの暗い生活から抜け出すチャンスだとも思って、頑張ったのだ。

 しかし、現実はどうだ。

 先輩に対しては文句はない。きっと向こうも私に好意を抱いてくれているであろうし、カッコイイとか諸々の事も含めて、後は私が告白するだけである。なにより、私が初めて訪れた先輩の家であんなに醜い本性を晒したのにも係わらず、次の日から一緒に登校させてくれるような人は他にいないだろう。今まで読んできた数々の漫画のヒーローより、カッコイイ。大好き先輩はーと

 しかし、その記念すべき愛の初登校に堂々と着いて来るお母様。ここからもう私の理想とかけ離れている。彼女に左脳はあるのだろうか? 

 さらに、いけしゃあしゃあと「おっはよ~」とあたかも普段から仲良しの友達ように着いて来るリーダー。それに生贄さん。彼女たちが連れて行ってくれるカラオケは「一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため……」という曲しか歌えない地獄のような場所だろう。なによりまず、友達じゃない。

 なんだこの惨状は。私が努力の仕方を間違えたとでもいうのか。

「あらあら、たくさんのお友達に囲まれて毎日が楽しそうね」お母様が言う。

「ホントそうだよねー。私たち一生友達」

 リーダーはワザとらしい台詞に、ワザとらしい笑顔を浮かべた。

 その傍らの生贄さんはどうやら監視の仕事をし過ぎて表立って歩くことに慣れないらしく、電信柱の陰やらゴミ箱の陰をそわそわ見ていた。

 神様、チクショウ! あんたは最後まで私の敵か!

「いい青春が送れそうだな」

 先輩が呆れたように言った。


 ああもう! みんな呪ってやる!


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ