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悪役令嬢は、処刑台で笑う

作者: you
掲載日:2026/09/28

「エレオノーラ・ヴァルディエ」


 名を呼ばれた瞬間、大広間に流れていた音楽が止んだ。いや、正確にはその少し前から、楽団の演奏など誰も聴いてはいなかったのだろう。


 王立学院の卒業を祝う夜会だった。無数のシャンデリアが磨き上げられた床を照らし、色鮮やかなドレスと礼服に身を包んだ若者たちが、つい先ほどまで酒と音楽に浮かれていた。


 今は全員が、同じ場所を見ている。


 王太子レオンハルト・アークレイ。その隣には聖女リリア・フェルミナ。そして二人と向き合う、ヴァルディエ公爵家の一人娘。


 エレオノーラは手にしていたグラスを給仕へ返した。


「何でしょう、殿下」


 声は普段と変わらなかった。


「今日ここで、はっきりさせておきたいことがある」


 レオンハルトは一度だけリリアを見た。彼女は青ざめ、胸元で組んだ指を震わせている。


「君はリリアに対して、度重なる嫌がらせを行ったな。先月の夜会ではドレスを破損させ、学院では階段で腕を掴んだ。晩餐会では本人の意思を無視して王宮から追い出している」


「ええ」


 広間がざわめいた。


「否定しないのか」


「事実ですもの」


「何故、そんなことをした」


 答えはいくらでもあった。


 けれど、エレオノーラは薄く笑った。


「気に入らなかったからですわ」


「……何?」


「平民の娘が突然聖女として持て囃され、王宮を出入りし、挙句には王太子殿下のお隣ですもの。目障りに思ったとしても、不思議ではないでしょう?」


「エレオノーラ!」


 怒声が響いた。


「リリアは君に何もしていない!」


「嫌いな相手を嫌うのに、理由まで必要ですの?」


 広間の空気が冷える。


 リリアが傷ついたように俯き、レオンハルトの目から最後の迷いが消えていく。それを見て、エレオノーラは胸の内でだけ呟いた。


 それでいい。


「……失望した。昔の君は、こんな人間ではなかった」


「昔のお話をされても困りますわ」


「私は君を信じていた」


「だから殿下は甘いのです。王になるのでしょう。人を簡単に信じる癖くらい、直した方がよろしいかと」


「最後まで私を馬鹿にするのか」


「あら。助言ですわ」


 レオンハルトは長く息を吐き、王太子として姿勢を正した。


「エレオノーラ・ヴァルディエ。今日この場をもって、君との婚約を破棄する」


 誰かが息を呑んだ。


 エレオノーラは怒りも悲鳴も見せず、一度だけ目を閉じる。


「承知いたしました」


「……それだけか。私たちは十年以上、婚約者だったんだぞ」


 その言葉に、幼い日の記憶が蘇った。


『これからよろしく、エレオノーラ』


 金色の髪の少年が、緊張しながら差し出した手。


『はい、殿下』


 あの頃は、この人の隣で王妃になるのだと信じていた。


 エレオノーラは笑った。


「私が殿下を愛していたとでも?」


 レオンハルトの顔が僅かに歪む。


「幼い頃に家同士で決められた婚約です。私も、あなたとの関係には飽き飽きしておりましたの」


「……そうか」


「ええ」


 傷ついたのが分かった。だからこそ、笑みを崩さなかった。


「後日、正式な調査を受けてもらう」


「承知しております」


 エレオノーラは完璧な礼をして、大広間を後にした。


 扉が閉まる。悪女、傲慢、可哀想な聖女――背後から聞こえる声は、もう届かない。


 誰もいない廊下へ出たところで、初めて右手が震えた。左手で強く握り込む。


「……大丈夫」


 婚約は破棄された。


 まず一つ。


 予定通りだった。


「お嬢様」


 顔を上げると、侍女のマリアが足早に近づいてくる。


「旦那様がお見えです」


 震えが止まった。


「……そう」


「控えの間でお待ちです」


 エレオノーラは一度だけ目を閉じた。


「お会いしますわ。ヴァルディエ公爵に」


 ◇


 父を「公爵閣下」と呼び始めてから、半年になる。


 夕食を共にする回数を減らし、書斎にも行かなくなった。父が帰宅する時間を知っていれば、その時間だけ外出した。贈り物も断った。


 以前なら、父が屋敷にいると知れば自分から探しに行ったのに、今では逆だった。


 父がいる場所を知っているから、そこへ行かなかった。


 控えの間へ入ると、アルベルト・ヴァルディエは窓際に立っていた。灰色を帯び始めた黒髪に、左頬の古傷。王国北部を十五年守り、敵国から《黒獅子》と恐れられた男。


 そんな父が、娘を見るなり言った。


「怪我はないか」


「ありません」


「そうか」


 責めるでもなく、理由を聞くでもない。昔からそうだった。自分の矢傷なら「かすり傷だ」で済ませるくせに、娘が指を切れば医者を呼ぶ。


「話は聞いた。帰るぞ」


「戻りません」


「調査なら屋敷でも受けられる」


「殿下の命令です」


「王と話す」


「必要ありません」


 アルベルトは少しだけ娘を見つめ、それ以上は言わなかった。


「なら、私もここに残る」


「公爵閣下まで残る必要はありません」


 その呼び方にも、もう反応しなくなった。


 慣れたのだろうか。


 そう思うと、胸の奥が痛んだ。


 しばらく沈黙したあと、アルベルトが手を伸ばした。昔なら、そのまま頭を撫でられていた。


 エレオノーラは一歩下がる。


「触らないでください」


 手が止まった。


「私は、あなたの娘であることを誇りに思ったことなどありません。戦しか能のない男。敵国から人殺しと恐れられ、王宮では腫れ物のように扱われる。そんな方を父に持ったことを、ずっと疎ましく思っていました」


 父の目が、ほんの少しだけ揺れた。


「そうか」


 それだけだった。


 アルベルトは扉へ向かう。


「エレオノーラ」


「何でしょう」


「お前が私をどう思おうと、それは自由だ」


 幼い日の記憶が蘇る。


『私、悪い子になったら嫌いになります?』


『ならん』


『どうして?』


『お前が悪い子でも、私の娘であることは変わらん』


 あの時は嬉しかった。


 今は、その言葉ほど困るものはない。


「私はもう、あなたの娘ではありません」


 父は少し黙った。


「そうか」


 扉が開く。


「だが私は、お前の父であることを一度も恥じたことはない」


 父の姿が消れてから、エレオノーラは椅子へ手をついた。


「……ごめんなさい、お父様」


 涙が一滴だけ床へ落ちた。


 ◇


 三日後、審問が始まった。


「聖女のドレスを故意に破損させた。相違ありませんか」


「ありません」


「階段で腕を強く引いた」


「事実です」


「晩餐会の途中、本人の意思に反して王宮から帰した」


「ええ」


 何を問われても、エレオノーラは認めた。


「理由は?」


「目障りでしたので」


 老侯爵はため息をつく。


「あなたほど聡明な方が、何の考えもなく不利な証言ばかりするとは思えません。何か事情があるのでは?」


「ありませんわ」


「父君も証拠の再検証を求めています」


「公爵閣下は関係ありません」


「親子でしょう」


「それが何か?」


 その時、審問室の扉が開いた。


「お待ちください!」


 リリアだった。


「どうして全部認めるんですか」


「事実だからですわ」


「でも、分からないんです。ドレスを破いたあと、エレオノーラ様はご自分の上着を貸してくださいました。階段でも、私を手すり側へ引いて――」


「お黙りなさい」


 エレオノーラの声が鋭くなる。


「あなたは私に嫌がらせを受けた。それでいいのです」


「よくありません!」


 リリアは泣きそうな顔で首を振った。


「本当に私を嫌っているなら、そんな顔しないでしょう」


「……どんな顔ですの」


「今にも泣きそうな顔です」


 エレオノーラは一瞬だけ黙り、やがて小さく笑った。


「見間違いですわ」


 そのまま審問室を出た。


 廊下の角を曲がり、人目がなくなったところで壁に手をつく。


 馬の息。泥。燃える村。血に濡れた父の背中。


 一瞬だけ、古い記憶が脳裏を横切った。


「……まだ」


 目を開ける。


「まだ、思い出す必要はないわ」


 ◇


 裁判の日は雨だった。


 審問と同じ罪状が読み上げられ、エレオノーラは同じように全て認めた。


 休廷中、差し出された水のグラスを持つ手が震える。


「寒いのですか?」


 マリアが尋ねる。


「違うわ」


 死ぬのが怖い。


 たぶん、それだけだった。


 法廷へ戻る。


「判決を言い渡します。エレオノーラ・ヴァルディエ――死罪」


 分かっていた。


 それでも心臓は速く鳴った。


「何か申し立ては」


「ありません」


 手枷をつけられた瞬間、妙に現実味が増した。


 本当に死ぬ。


「エレオノーラ!」


 レオンハルトの声がした。


 振り返る。


 何か言いたそうにしている。


「ごきげんよう、殿下」


 それだけ残して法廷を出た。


 廊下の先にアルベルトがいた。


 父は娘の手枷を見て、低く呟く。


「……死罪か」


 その顔に、別の光景が重なった。


 炎。


 血。


 剣を握る父。


『今度こそ、お前を守る』


「来ないで」


 アルベルトが止まる。


「エレオノーラ」


「来ないでください」


 父の横を通り過ぎる。


 ここからだった。


 いつも、全部が壊れ始めるのは。


 ◇


 その夜、エレオノーラは地下牢へ移された。


 マリアが訪れ、父が王へ判決撤回を求めていること、さらにヴァルディエ家の騎士が王都へ向かっていることを告げた。


「何人?」


「二百ほどだと」


 エレオノーラは青ざめた。


「止めて」


「ですが、旦那様はお嬢様を助けるために――」


「だからよ!」


 声が地下牢へ響く。


 エレオノーラは鉄格子を握った。


「死ぬのは怖い。死にたくないわ。まだ食べたいものもあるし、読みかけの本もある。春になれば庭の薔薇だって咲く」


 声が震える。


「生きたいに決まってるじゃない」


「なら、どうして……」


「公爵閣下を止めて」


 それ以上は言えなかった。


 一度目。


 エレオノーラは父と逃げた。


『お父様、本当に大丈夫ですの?』


『ああ。国境を越えればいい』


 父が自分を選んでくれたことが嬉しかった。


 だが追手が来た。十二人の騎士を父が斬り、次には王国軍が来た。父を慕うヴァルディエの兵も集まり、いつしか逃亡は戦争になった。


『もうやめて!』


『戻れば、お前が死ぬ』


『でも!』


『お前は死なせん』


 半年後、アルベルトは王国軍に包囲され、娘の目の前で槍に貫かれた。


『お父様!』


『……すまない』


『何が』


『守れなかった』


 冷たくなる手で頬を撫でられた。


『お前は、生きろ』


 それが最後だった。


 そしてエレオノーラも死んだ。


 次に目を覚ました時、十二歳へ戻っていた。


 二度目。


 今度は父を巻き込まないと決め、一人で逃げた。


 王国の南端まで辿り着いた十五日目。路地の先に、泥だらけのアルベルトが立っていた。


『……お父様』


 父は何も言わず、娘を抱きしめた。


『馬鹿者』


 結局、父は追ってきた。そしてエレオノーラを利用しようとした貴族たちを殺し、再び王家と対立した。


 二度目も、父は死んだ。


 三度目。


 だから全部話した。


 自分が未来を知っていることも、一度死んで戻ったことも、何度逃げても父が死ぬことも。


 アルベルトは最後まで黙って聞いた。


 そして言った。


『なら、その前に王家を潰す』


『……何を言っているの』


『お前を殺す人間が分かっているなら、先に消せばいい』


 三度目の父は、六年かけて王家と神殿を追い詰めた。


 原作で婚約破棄が起きるはずだった年、王都が燃えた。


 追い詰められたアルベルトは、王家の禁書庫から奪った禁呪に手を出した。身体に黒い紋様が這い、使えば使うほど人としての姿を失っていく。


 それでも父は止まらなかった。


『エレオノーラを守れるなら、どうなろうと構わん』


 王城を半壊させ、幾千もの兵を退けたその姿を、人々は《魔王》と呼んだ。


 その時になって、エレオノーラは初めて知った。


 物語の中で、悪役令嬢の処刑後に現れる魔王。


 聖女と王太子に討たれる怪物。


 その正体が。


 娘を奪われ、壊れてしまった自分の父だったことを。


『今度こそ、お前を守れた』


 炎上する王都を背に、父はそう言った。


 エレオノーラは泣いた。


『違う』


『何がだ』


『私だけ生きて、これだけ死んで、何が守ったなの』


 父の手を振り払う。


『私は、私だけ助かりたかったんじゃない』


 そして。


『お父様にも、生きてほしかっただけなのに』


 三度目の人生でも、結局父は死んだ。


 魔王として。


 四度目。


 エレオノーラはようやく理解した。


 一緒に逃げても駄目だった。


 一人で逃げても、父は追ってきた。


 全部話せば、父は未来そのものを壊そうとした。


 この人は、自分を救うためなら世界を敵に回す。


 だから今度は、逃げない。


 助けを求めない。


 父とも距離を置く。


 それでも足りないと思った。


 無実の娘が理不尽に殺されれば、父は必ず世界を憎む。


 ならば。


 自分は、殺されても仕方のない娘になればいい。


 聖女を虐げ、王太子に見放され、国中から悪女と呼ばれ、本人さえ罪を認めている女。


 そうなれば、父が復讐する理由を一つでも減らせるかもしれない。


 だからリリアを守る時でさえ、守ったようには見せなかった。


 呪詛の仕込まれたドレスを破った。


 落下する装飾から助けるため、階段で乱暴に腕を引いた。


 刺客が待つ部屋へ戻らせないため、晩餐会から追い出した。


 理由は言わなかった。


 弁明もしなかった。


 助けながら、傷つけたふりをした。


 守りながら、嫌ったふりをした。


 父に嫌われるため。


 世界に悪女だと思われるため。


 そして、自分がいなくなったあとも。


 父が人間のまま生きるために。


 半年かけて。


 エレオノーラは、自分自身を悪役に仕立て上げた。


 ◇


 処刑まで、あと二日。


 父から面会を求められたが、エレオノーラは四度断った。


 夜になっても父は王宮から帰らなかった。


 そんな時、半年前の誕生日を思い出した。


『旦那様が、今夜の夕食をご一緒にと』


『断って』


 その頃にはもう、父を避け始めていた。


 父は一人で食卓についた。


 夜遅く、マリアが小さな皿を持ってきた。


 蜂蜜とナッツを練り込んだ焼き菓子が三つ。


『旦那様が、お嬢様のために用意なさったものです』


『……いらないわ』


『では、ここへ置いておきます』


 マリアが去ったあと、エレオノーラは長い間、その菓子を見ていた。


 一つ口へ入れる。


 昔と同じ味だった。


 蜂蜜の甘さと、少し焦げたナッツ。


『あと一つだけ』


『駄目だ。夕食が入らなくなる』


『お父様のけち』


『何とでも言え』


 記憶が蘇った瞬間、涙が落ちた。


 それでも、一つ、二つ、三つ。


 全部食べた。


『……美味しい』


 一人きりの部屋で、それだけ呟いた。


 現在。


 マリアが再び地下牢へやってきた。


「旦那様が王都を出られました。騎士たちと合流されたそうです」


 エレオノーラは紙とペンを求めた。


『ヴァルディエ公爵閣下へ。


 兵を戻してください。私は救出を望みません。


 私は公爵閣下とは、もう何の関係もありません』


 涙で一度書き直した手紙を、マリアへ渡した。


 その夜、アルベルトは野営地で手紙を読んだ。


「兵をお戻しになりますか」


 マリアが尋ねる。


「戻さん」


「ですが、お嬢様は」


「あれは昔から、嘘が下手だ」


 アルベルトは手紙を軍服の内側へしまった。


「嫌われた程度で父親をやめられるなら、苦労はせん」


 兵は戻らなかった。


 ◇


 処刑前夜。


 エレオノーラはとうとう父との面会を受け入れた。


 鉄格子を挟み、二人はしばらく何も話さなかった。


「今年は、小麦の出来がいいそうですわね」


「そうらしい」


「葡萄は?」


「まだ分からん」


「そう」


 明日死ぬ娘と父親が、小麦や葡萄の話をしている。


 けれど、エレオノーラにはそれが心地よかった。


「庭の白い薔薇。今年も咲いた」


「……来年も咲きます?」


「咲くだろう」


「そう。なら、よかった」


 父は何も言わなかった。


「何か食べたいものはあるか」


「ありませんわ」


「最後くらい言え」


 最後。


 その言葉だけが、妙にはっきり聞こえた。


「……蜂蜜のお菓子」


「ああ」


「ナッツの入った。昔よく食べましたわね」


「十七の誕生日にも用意した」


 エレオノーラは俯く。


「……すみませんでした。夕食を断って」


「もういい」


 優しすぎる声だった。


「公爵閣下」


「何だ」


「明日、私がいなくなっても、ちゃんと食事をしてください。寝てください。領地へ戻って、薔薇も見てください」


「やめろ」


「でも」


「死ぬ前提で話すな」


「明日、処刑されます」


「知っている」


 父の声が低くなる。


「だから、その話はするな」


「……何もしないでください」


 アルベルトは答えなかった。


「明日、何があっても。お願いです」


「それは約束できん」


「どうして」


「お前が娘だからだ」


 やはり。


 何を言っても、この人は変わらない。


「私は、公爵閣下を嫌っています」


「そうか」


「ずっと迷惑でした」


「ああ」


「私が死んでも、悲しまないで」


 父はしばらく娘を見ていた。


「無理だ」


 それだけだった。


 やがて騎士が面会の終了を告げる。


 アルベルトが背を向けた。


「公爵閣下」


 呼び止める。


 ありがとう。


 ごめんなさい。


 大好きでした。


 全部、喉まで出かかった。


「……何でもありません」


 父が再び歩き出す。


「お父――」


 漏れた声に、アルベルトの足が止まった。


「……今、何と」


 エレオノーラは笑う。


「何でもありませんわ」


 父が去る。


 完全に足音が聞こえなくなってから、エレオノーラは鉄格子へ額をつけた。


「……お父様」


 もう一度。


「お父様」


 涙が落ちる。


「お願いだから、今度こそ死なないで」


 夜明け前。


 看守が小さな皿を持ってきた。


「ヴァルディエ公爵からです」


 蜂蜜とナッツの焼き菓子が三つ。


 エレオノーラは一つ取って口へ運ぶ。


 甘い。


 半年前と同じ味だった。


「……馬鹿」


 泣きながら、三つとも食べた。


 やがて窓の向こうが白み始める。


 処刑の日が来た。


 ◇


「時間です」


 地下牢の扉が開いた。


 エレオノーラは立ち上がった。ほとんど眠れなかったが、頭だけは妙に冴えている。


 手枷をつけられ、長い階段を上る。


 地上へ出ると、空は腹が立つほど青かった。


「……また晴れ」


 一度目もそうだった。


 二度目も。


 三度目も。


 世界が壊れる日ほど、空だけは綺麗だった。


 囚人用の馬車に乗せられ、王都を進む。


「悪女!」


「聖女様を苦しめた報いだ!」


 石が馬車へ当たり、鈍い音がする。


 エレオノーラは格子の向こうを見ていた。


 知らなくていい。


 この人たちは何も知らないまま、明日もパンを買い、仕事へ行き、家族と食卓を囲めばいい。


 その明日の中に、自分がいないだけだ。


 馬車が止まった。


 処刑場の中央には、高い木組みの台。その上から一本の縄が垂れている。


 見た瞬間、足が止まった。


 怖い。


 やっぱり怖い。


 死にたくない。


 それでも、エレオノーラは震える足で階段を上った。


 王家の席にはレオンハルト。その隣にはリリアがいた。


 リリアは彼女を見るなり立ち上がる。


「待ってください!」


 手には何枚もの紙が握られていた。


「調べました! ドレスには呪詛が仕込まれていました。階段の装飾も、あの直後に落ちています。晩餐会の夜だって、私の部屋に刺客が――」


 処刑場がざわめく。


「エレオノーラ様は、私を傷つけていたんじゃありません! ずっと、守ってくれていたんです!」


 レオンハルトが立ち上がった。


「……本当なのか」


「さあ」


「エレオノーラ!」


「今さらでしょう」


「今さらではない! 判決が間違っていたのなら、執行を止める!」


 側近が慌てて彼を制する。


「殿下、処刑命令には陛下の御璽がございます。執行停止にも陛下の御璽が必要です」


「ならば父上のもとへ走れ!」


「既に使者を!」


 その時。


 別の鐘が鳴った。


 警鐘。


 北門の方角から轟音が響く。


「兵だ!」


「黒い軍旗……ヴァルディエ軍だ!」


 エレオノーラの顔から血の気が引いた。


「……来た」


 群衆の向こう。


 黒い軍勢。


 その先頭を、一人の男が歩いている。


 アルベルト・ヴァルディエ。


 右手には剣。


 左手には黒い魔石。


 そこから伸びた黒い紋様が、既に腕へ這い始めていた。


「駄目……」


 三度目と同じだった。


「お父様!」


 半年ぶりに。


 何の迷いもなく、その呼び方が出た。


 アルベルトが止まる。


「それを使わないで!」


 父が左腕を見る。


「……知っているのか」


「知っています。全部」


 アルベルトは再び歩き出した。


「なら話は早い。降りてこい」


「嫌です」


「エレオノーラ」


「来ないで」


「帰るぞ」


 昔と同じ言葉だった。


 幼い頃、眠ってしまった自分を抱き上げた時も。


 喧嘩して家を飛び出した時も。


 一度目の人生でも。


 父はいつもそう言った。


 帰るぞ。


「帰れません」


「帰れる」


「帰れないの!」


 エレオノーラの声が処刑場へ響いた。


「一度目は、お父様と逃げました。そのせいで戦争になって、お父様は死んだ!」


 アルベルトの眉が寄る。


「二度目は一人で逃げた。それでもお父様は追いかけてきた。結局、また死んだ!」


「エレオノーラ」


「三度目は全部話した!」


 父の腕に這う黒い紋様を見る。


「あの時のお父様は、私を助けるために王都を焼いた。禁呪を使って、皆から魔王と呼ばれた!」


 アルベルトの表情が消える。


「そして最後には、また死んだ」


 涙を拭う。


「三回です。三回も、お父様を死なせました」


「お前のせいではない」


「私のせいじゃなくても嫌なの!」


 アルベルトが言葉を失った。


「だから今回は逃げなかった。助けてもらうのもやめた。お父様から離れた。それでも足りないと思った」


 エレオノーラは処刑場を見渡した。


「私が無実のまま殺されたら、お父様は絶対に許さない。王家も、聖女も、この国も、全部憎む」


 父へ視線を戻す。


「だから私、悪女になったんです」


 アルベルトの目が揺れた。


「リリアを守っても、守ったようには見せなかった。助けても、傷つけたように見せた。全部認めた。弁明もしなかった」


 涙が頬を伝う。


「殺されても仕方のない娘なら、お父様も少しは諦めてくれるかもしれないって」


「……馬鹿者」


「ええ」


 エレオノーラは笑った。


「馬鹿ですわね。半年も頑張ったのに」


 声が震える。


「全然、嫌いになってくれなかった」


 アルベルトの剣先が下がる。


「そんなことで、私が娘を捨てると思ったのか」


「思えなかったから困ったんですわ」


 それを聞いたアルベルトの顔が、初めて歪んだ。


「降りろ」


「嫌です」


「命令だ」


「私はもう、子供ではありません」


「なら勝手に死ぬな!」


 怒鳴り声が響いた。


「生きろ」


 アルベルトの声が震えていた。


「頼む」


 《黒獅子》と呼ばれた男が。


「帰ってきてくれ」


 父親として、娘に頼んでいた。


 エレオノーラの心が揺れる。


 帰りたい。


 あの屋敷へ。


 父と夕食を食べたい。


 また勝手に書斎へ入りたい。


 来年も白い薔薇を見たい。


 十八歳の誕生日には、またあの菓子を食べたい。


「……帰りたい」


 声が漏れた。


 アルベルトが一歩踏み出す。


「なら」


「でも」


 エレオノーラは首を振った。


 三度目。


 黒く染まった父の目を覚えている。


 王都に転がった死体を。


 父が最後に倒れた姿を。


 忘れられない。


「私は、お父様に守られたかったんじゃありません」


 アルベルトが止まる。


「お父様にも」


 涙が頬を伝う。


「生きてほしかったのです」


 風が吹いた。


「だから、それを捨てて」


 黒い魔石を見る。


「お願い、お父様」


 エレオノーラは笑った。


「今度だけは、私を助けないで」


 長い沈黙。


 やがて、金属音が響いた。


 アルベルトの剣が地面へ落ちる。


 続いて、黒い魔石。


 父はそれを踏み砕いた。


 腕を這っていた紋様が、ゆっくり消えていく。


 エレオノーラはそれを見た。


 四度目。


 初めて。


 父が剣を捨てた。


 初めて。


 魔王にならなかった。


「……よかった」


 心の底から、笑った。


「使者だ!」


 遠くから声が響く。


 レオンハルトが振り返った。


 馬を飛ばして、一人の騎士が処刑場へ駆け込んでくる。


「陛下より――!」


 その瞬間。


 鐘が鳴った。


 執行の鐘。


 騎士が御璽の押された文書を掲げる。


「処刑を停止せよ!」


 だが。


 ほんの数秒。


 遅かった。


 床が開く。


「エレオノーラ!」


 アルベルトが走る。


 エレオノーラには、もう父しか見えていなかった。


「お父様」


 最後に、ちゃんと呼ぶ。


「私」


 笑う。


「お父様の娘で、幸せでした」


 そして。


 エレオノーラ・ヴァルディエは。


 処刑台で笑った。


 ◇


 アルベルトは、剣を拾わなかった。


 娘の亡骸を前に、長い間ただ立っていた。


 兵たちも、王国軍も、レオンハルトも、リリアも。


 誰も声を出せない。


「閣下」


 副官が呼んだ。


 返事はない。


 やがてアルベルトは娘の頬へ触れた。


「馬鹿者」


 声が掠れる。


「誰が、こんな守り方をしろと言った」


 返事はなかった。


 アルベルトは目を閉じる。


 そして立ち上がった。


「帰るぞ」


 副官が顔を上げる。


「……どちらへ」


 アルベルトは一度だけ娘を見る。


「あいつが、帰れと言った」


 ヴァルディエ軍はその日、一人も殺さず王都を去った。


 ◇


 アルベルト・ヴァルディエは、それから三十二年生きた。


 軍権の多くを失い、領地へ戻った。


 食事をした。


 眠った。


 畑を見た。


 春が来れば、庭に咲く白い薔薇を見た。


 娘に言われた通りに。


 ただ、生きた。


 七十九歳。


 アルベルトは戦場ではなく、自宅のベッドで静かに死んだ。


 魔王にはならなかった。


 ただの父親として死んだ。


 その机の引き出しから、一通の古い手紙が見つかった。


『私は公爵閣下とは、もう何の関係もありません』


 処刑の二日前。


 娘が送った手紙だった。


 三十二年間、一度も捨てなかった。


 紙の裏には、アルベルトの字で一言だけ書かれていた。


『お前は昔から、嘘が下手だったな』


 後世の歴史書には、エレオノーラ・ヴァルディエは聖女を虐げ、王太子との婚約を破棄され、処刑された悪女として名を残した。


 その日を境に。


 この国の歴史から《魔王》が消えたことを。


 誰も知らない。


 彼女が処刑台で笑った理由も。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


こういう「最後まで読んだ時に、それまでの言葉や行動の意味が少し変わって見える話」が好きで、よく書いています。


もし今作が少しでも刺さった方がいましたら、

『天下無双の大将軍、最後の出陣』

https://ncode.syosetu.com/n3772mu/

など、他の短編も読んでいただけると嬉しいです。


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