短編
悪夢の内廊下にカシャリと金属音が響く。
啓二はデイパックをつかんだまま、足音を忍ばせて玄関ドアにへばりつく。
間違いない。
例の柴犬の鳴き声がしたあと、錠前が回る音がしたのだ。のぞき穴に片目を近づけ、非常灯の明かりにぼんやりと照らしだされた廊下を見やる。向かいの部屋のドアがまもなく開く。確信があった。
「いよいよだね」背後に立ちつくす妻に向かって、たまらずつぶやく。
狭い視界には遺体が見える。啓二たちの部屋から二軒離れた部屋に一人で暮らす禿頭のじいさんだ。身を守ろうとして背中を丸めたまま襲われたのだ。遺体というより、赤と緑のシャツをかぶせた骨格の膨らみといったほうがいい。太鼓腹を抱え、まるで階段で二十八階まで上がってきたのかと勘違いするくらい、いつも息を切らせていたが、愛想がよく啓二たちの姿を見かけると、にっこりと微笑んでぺこりと頭を下げてくれた。田舎に暮らす遠縁の親戚みたいな感じだった。襲われてからかなり日がたつから腐敗も進んでいる。じいさんだけじゃない。円形の視界から離れたところがどうなっているか、啓二は考えるのをやめた。それに嗅覚はすでにこの恐るべき腐敗臭の蓄積にも馴化しはじめている。
問題はやつがどこにいるかだ。
すくなくともいまは、毛むくじゃらの節状の脚が偵察センサーのように視界の端に見えているわけでもない。廊下の空気が揺らめかないかぎり、やつは気ままなパトロールでもするように十四戸が入居するタワマンの二十八階フロアを八本の脚をくねらせながら壁や天井や床を徘徊しているか、どこかの部屋のドアにへばりついたまま巨大な胃袋が獲物を消化するにまかせているのだろう。
七月二十四日午後十時半。
あれからもう一か月になる。見たこともない真っ黒な雲が空を覆い、だらだらと雨がつづき、電気が途絶えた。水もガスも。ネットも。非常電源だけでもっているが、それももはやエレベーターも上がってこないフロアの廊下を照らすのみだ。いつもより弱々しく、時折瞬く明かりは、啓二たちのあすを暗示しているかのようだった。
「どうなの」
陽子が答えをもとめる。声を潜めるというより、力がもう入らない。食糧は尽きた。なにより三日も水を飲んでないから喉がはりついてしまっている。それに暑すぎる。日中も夜もずっとサウナのなかで過ごしているかのようで、やつに襲われるより、部屋のなかで熱死する確率のほうが高まっている。
「出てくるよ。しびれを切らせたんだ。こっちの勝ちだな」そう口にするなり、啓二は戒めるように乾いた唇を舌先でなめる。でも勘を信じるなら、いまこのときだ。あの男はかならず現れる。室内以上に空気の淀んだ廊下に。
街の明かりが途絶え、通りを車が走っていないとわかったときに決断していればよかったが、土曜だったこともあって家のなかでぐずぐずするうちに、やつが出現した。最初は深夜の悲鳴だった。内廊下のため、構造的に声や物音がやたらと反響する。どこの部屋かわからなかったが、それまで耳にしたことがない恐ろしいパニックに陥った女の声だった。すぐに何軒かのドアが開錠される音が響き、ようすをうかがいに廊下に出てくる足音がした。何人かがわっと声をあげ、ドアが閉まる音があちこちであがった。現実を拒絶するような施錠音がそれにつづいた。啓二は廊下のようすを確かめるべきか迷ったが、陽子にとめられた。
やがてドア越しに聞こえてきた。
プラスチックカップの底に残ったフラペチーノを執念深く啜りあげるような音が。いつまでもずっと。
それから何度か、錠前が回る音とともにバタバタと逃げだす人の足音がして、同時にそれとは異質な、ペン先で黒板をひっかくような音が性急につづき、おなじような悲鳴があがった。そしてもれなく啜りあげる音。襲撃者は想像以上にすばやく、凶暴だ。
マンションは四十三階建てで十階以上にはベランダもなければ、窓自体が開かない。窓を割ることはできても、二十八階では壁伝いに下りるなんて現実的じゃない。だから外を目指した者たちにとっての唯一の脱出口は、エレベーターのわきにある階段室だった。それは啓二たちの部屋に隣接している。そこの鉄扉の向こうに逃げこんでしまえば、たとえ外の世界がどうなっていようと、とりあえずは活路が見いだせる。いくら大喰らいで獰猛な化け物でも、階段室の把手を下げて鋼鉄製のドアを押し開くことまではできないはずだからだ。各戸の冒険者たちはそう思ったに違いない。やつの姿を見て啓二もそう思った。だけどいったいどこから入ってきたんだ。そもそもあんなやつ――。
タラバガニと毛ガニをあわせたような長くて黒々とした脚がのぞき穴の視界にはじめて入ってきたときは、自分が信じられなかった。それにつづいて真っ赤な八つの眼と二股の牙を持つ岩のような頭部が現れ、それが獲物の吸引によりバランスボールほどに膨れあがった尻を引きずっていた。しいて言うなら巨大蜘蛛だ。でもこの世の生きものとは到底認めがたかった。
まるで己の醜い姿を見せつけるようにそいつは悠然と啓二たちの部屋の前を通過し、廊下の外れまで行ったあたりで突如、猛然と引き返してきた。それはまるで跳ぶようだった。啓二には開錠音も逃げだす足音も聞こえなかったが、聴覚でも視覚でもないやつの感覚器官が廊下の空気のわずかな揺らぎを即座に感じ取り、のこのこ姿を現した居住者に襲いかかったに違いない。
啓二たちの部屋から階段室にたどり着くには、玄関から廊下に至る二メートルほどのアルコーブに踏みだし、右手に五メートルほど進んだところでさらに右に回り込む必要がある。そこにあるエレベーターの奥が階段室だ。玄関ドアを開錠して外に飛びだし、息を詰めればほんの数秒、長くても五秒ぐらいで鉄扉の把手をつかむことができる。これはかなり地の利があるといえる。一か八かではあるが、もしやつが廊下の離れたところにいるのなら、すでに犠牲になった者たちよりもずっと容易に啓二たちは脱出できそうだった。
とはいえ、この一か月はむだな時の流れではなかった。啓二はつくづくそう思う。むやみな冒険に踏みださなくても、もっと頭を使って時間に余裕をもって脱出できると気付くことができた。じっさいそれを実証した者がいたことを啓二はすでに二回、耳で確認している。階段をうれしそうに駆け下りる足音がしたのだ。それはあの化け物の習性をじっくり観察して熟慮したうえでの決行だったに違いない。
やつのやり口はこうだ。
廊下に現れた獲物たちに襲いかかり、あの硬そうな牙で喉笛に食らいついてまずは息の根をとめる。まるで狼だ。階段室のドアにたどり着く前に飛びかかられたあのじいさんが、怪物とダンスを踊りながら啓二たちの部屋の前で倒れ込んだときの光景が目に焼きついている。獲物の動きがとまったら、牙をめいっぱい開き、口と思われる部分から緑色っぽい粘液を相手の全身に吐きかける。じいさんがやられたとき、玄関の下のほうからツンとする臭いが鼻を突いたのを啓二は覚えている。皮膚や肉や臓物を溶かす消化液だろう。そののち、まさにフラペチーノ用とも思われる、てらてらと不気味に黒光りする口吻らしきものが長々とのびてきて、嫌な音を立てはじめるのだ。その吸引作業に意外と時間を要するらしく、じいさんのときは丸々と太った仰向けの体にのしかかったまま、まるまる三十秒間、やつはじっとしていた。たったそれだけの時間で獲物を吸い尽くせるわけでなく、あとでパトロール中に何度か立ち寄ってすこしずつ啜っていく。
二週間ほど前、神の御業に触れたかのように啓二は興奮して妻に告げた。
「狙うならファーストバイトのときだよ」じっさいに目撃したじいさんの惨劇、階段を下りることに成功した者たちの状況をもとに推察したうえでの結論だった。「最初に啜るとき、やつはわき目もふらずにじっくりと時間をかける。まわりで足音がしても見向きもしない。それで腹がある程度満たされたら、あとは昼下がりのバルでタパスをつつくような感じ、ほんの数秒、ちゅるっとやるだけだ。だからうまく逃げられた人たちはみんな、最初のタイミングを狙ったんだよ」
「最初に悲鳴があがる瞬間ってことね」
「悲鳴のあと……あの音が聞こえてきたときだろうね。たった三十秒しかないけど」
「永遠の三十秒ね」
宗教は万人に愛を注ぐ。しかし人類史を考えれば、誰かの犠牲のもとに文明は発展を遂げてきた。厳然たる事実だ。やつが現れたとき、このフロアの何戸に人がいたかわからない。だがこれまでに聞こえた悲鳴と逃げおおせた者たちの足音から推計すると、二週間前の時点で残っている者はもうほとんどいないようだった。確実にわかっているのは、向かいの部屋は在宅だということだ。啓二がその目で確かめているから間違いない。
名前だってわかっている。潮崎淳。二年前、啓二がマンションの理事を渋々引き受けたとき、管理費の未払い者リストのトップに名を連ねていた男だ。一人暮らしだが、啓二なんかより年上でベンツのSUVに乗っていた。時々、派手な感じの女が訪ねてもきた。管理会社の担当者がうっかり口を滑らせていたが、潮崎はテレビ局の人間で、かつては報道番組の人気キャスターだったようだ。
陽子といっしょに管理費の支払いをもとめる管理組合の決議文を持参して、潮崎宅のインターホンを押したことがある。日曜の午前中だった。ボタンを三回押したところで「はい」と不愉快そうな声がした。こっちはちゃんと名乗り、向かいの部屋の者であると告げたが、ドアは開かなかった。「じゃあ、紙をそこに置いといて」それだけ言うと、ブツリと通話が切れた。なんだか見下されているようで腹が立った。啓二は決議文を新聞受けに放りこんで踵を返した。その後も管理費は支払われなかった。いまもきっとそうだろう。
その後、何度かエレベーターや廊下で出くわした。それまでもこっちの顔ぐらいはわかっていただろうが、潮崎は廊下ですれ違っても会釈すらしなかった。管理費の一件でこっちは極めて硬いしこりを腹に抱えることになった。だがやつはその後もずっとどこ吹く風で、悪びれるでもない。啓二のことなどまるで目に入らないかのようだった。マンションの前に車をとめ、宅配業者を口汚く罵っているときもあった。見ているこっちの気分が悪くなる。そういうタイプの男だった。
潮崎の在宅を確認したのは、気のいいあのじいさんが襲われたときだった。じいさんは茶色の毛並みがきれいな柴犬の子犬を飼っていて、いっしょに逃げようとしたのだが、化け物の餌食となった。子犬は血まみれになった主人のそばで尻尾を丸め、甲高く吠えたてたが、化け物は犬なんかよりもっとすてきなグルメを堪能中で頭を上げすらしなかった。そのとき向かいのドアが開き、潮崎が犬に両手をのばして部屋に入れたのだ。
さすがに啓二も潮崎を見直したし、すこしばかり嫉妬した。犬を救ったのは間違いないからだ。それにこんな苦境にあって、そばに愛くるしい生きものがいたら、すさんだ気持ちも慰撫される違いない。
いま、その犬の声がした直後、錠前が回る音がしたのだ。
潮崎は犬を抱えて現れる。確信した。いや、犬を置いてあの男一人かもしれない。むしろそっちのほうがいい。啓二だって無垢な犬は巻き添えにしたくない。
「どうなの」陽子があらためて訊く。
「たぶんこのフロアに残ってるのは、うちとあの男だけだ。考えてることはおなじだよ」
向こうだってずっとのぞき穴から観察していたのだ。あの化け物の習性、住人たちのようす、それに向かいのいけ好かない夫婦ものの動向。先に飛びだしたほうが餌食になる。そのすきに……永遠の三十秒だ。
「ついにがまんできなくなって出てくるぞ。準備はいいかい」啓二はデイパックを右肩にさげ、すでにスニーカーも履いている。
「貴重品はぜんぶ詰めたから」陽子は自分のデイパックを腹の前で抱える。「たすかるのかしら」
「階段室の扉を閉めたら、あいつとはおさらば。奴隷解放さ」
「外はどんな感じかな」啓二があえて口にしないでいたことを陽子は訊いてくる。
「ここにいるよりはずっといい」憤怒をこらえて啓二は言う。「でもいま考えることじゃないよね」
陽子は不承不承、理解をしめし、あとは二人でじっと内廊下のようすに耳をすます。いまは化け物の足音はしない。だが向かいの部屋から人が出てくれば、空気の振動を感じ取ってすぐに動きだすはずだ。新たな獲物がどこに現れたか確実に目星をつけて。
啓二はのぞき穴に顔を押しつける。
「来たぞ……」
向かいの部屋の玄関の把手がゆっくりと下がり、ドアが音もなく開く。啓二は唾をのみくだす。大蜘蛛は気付いただろうか。棘のような無数の毛に覆われた脚がつぎの瞬間には視界に現れるのではないか。緊張が走る。
さらにまたドアが開いたとき、なかから転がり出てきた。
子犬だ。
アルコーブを駆け抜け、廊下の真ん中で立ちどまってじっとこちらを見ながら、吠えだす。啓二が見ていることに気付いていて、必死になにかを訴えているようだ。向かいの部屋のドアはふたたび閉ざされ、潮崎は安全圏にもどる。
その瞬間、啓二のなかに抑えがたい怒りの炎が燃えあがった。潮崎はあの柴犬を化け物に襲わせて肉を溶かして啜りあげているすきに部屋から抜けだし、階段室にたどり着こうと考えているのだ。
「なんてゲス野郎だ」口走ったときには錠前を回し、ドアの把手を押し下げていた。
「ケイちゃん――」妻の声は一段と高まった子犬の鳴き声にかき消される。
啓二はデイパックを手放して外に飛びだす。危険をかえりみずに両手を差しだして子犬の前にしゃがみこみ、しっかりと抱く。
犬が鳴きやんでいる。
まるでなにかを察知したかのようで、じっと見つめている。啓二のことではない。そのうしろ、うちの玄関だ。威嚇するように喉を鳴らす。小さな体にはおよそ似つかわしくなかった。
視線は向かいの部屋ののぞき穴からも注がれている。それは肌にひりつくほどに啓二にも感じられた。ドアの向こうで汗まみれになりながら、あの男がいまかいまかと固唾を飲んではかっている。満を持して外に飛びだすタイミングを。
そのときだった。
なにか硬いものが擦れるような音が背後で聞こえた。
そうか。
暗たんたる気分でようやく啓二は気付く。いま抱きしめている子犬も、向かいの部屋のドアの向こうにへばりつく男も、そいつをじっと見つめている。
最初からそうだったのだ。
「ケイちゃん……」陽子の声がすぐ近くで聞こえる。玄関をわずかに開け、顔をのぞかせているようだ。
「ドア閉めて……」へたに体を動かさず、振り返りもせずに啓二は告げる。同時に子犬を放す。犬は廊下を一メートルほど進んだところで振り返り、警戒心に満ちた目をふたたび向けてくる。
「え……?」
「いますぐ、閉めて、早く!」
有無を言わさぬ物言いに、ウォルナット材の分厚いドアがドンと重たい音を響かせて閉じる。たぶんこれで妻は大丈夫だ。
もう一度、ドアの外面を擦る音がする。まうしろだ。もう陽子にも見えてるかな。潮崎が子犬を使ってたくらんでいたのはこれだったのだ。
ふぅぅと啓二は長く息を吐く。
真っ赤な八つの眼が首筋に冷気を送る。
子犬がもう一度、吠えた。
(了)




