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純文学

セミの浪人生

作者: オリンポス
掲載日:2026/06/27

約10年前の、2015年くらいの日本が舞台です。

 炭酸飲料のジュースを振ると、容器がパンパンに膨れ上がる。

 僕の脳みそも同じ状態だった。

 頭の中がぐっちゃぐちゃにシェイクされて、中身が膨張しているような、そんな頭痛に襲われていた。


「ああ、不快……」

 目隠しされても歩ける通学路を、単語帳をめくりながら歩く。

 通行人の、「おい、お前、ちゃんと前向いて歩けよ」的な視線に腹が立つ。

 耳には常にイヤフォンが詰まっている。

 内容は単語帳とリンクしていて、ネイティブスピーカーが英単語を発音していた。


 オレンジ色に染まった路上を歩く。

 ここは並木道になっていて、そこここに植えられた街路樹にはセミが止まっていた。

 どことなく切なげな「ミンミン声」が発音の間隙に忍び込んできて、耳朶(じだ)にはりつく。


 ちょっとうらやましいな。

 僕はそう思う。

 セミは地上に出てから1週間しか生きられないという。

 それは単なる迷信だが、期限が決められているのは良いことだ。


 どんなに苦しくても、その時間さえ我慢すれば終わるのだ。これなら、頑張れる。


 ひるがえって浪人生。これはいけない。

 いつまで経っても出口の見えない暗闇をたいまつを片手に進んでいくようなものだ。地獄が無限に続く。


「ミーンミーン」

 おちょぼ口をして発声してみる。

 僕はセミになりたい。余命が1週間ならば、まだ生きたいと思える。

 寿命がわかればこんなに辛くはないのかもしれない。

 道行く人が、「は? キモっ」みたいな表情で僕を見る。


 セミのことは無視するのに、僕がミンミン鳴くと、「は? キモっ」となる。

 僕はセミにはなれなかった。

 反対に、セミは僕にはなれなかった。

「は? キモっ」という好奇の視線は僕が独り占めをした。もしかしたら近い将来、僕が夏の風物詩になるかもしれない。


 そうミンミン言っていると、イヤフォンが音楽を流し始めた。

 電話の着信音だ。設定を変えていないからあまり好きではない。


「はい、もしもし」

「おっす。キンさん、久しぶり」

「おお、山口か。元気にしてたか?」

「おかげさまで」

 山口はえへへと人懐っこい声を出す。

「あのさ、キンさん。俺これから銀座のバーで飲むんだけど、キンさんもどう?」

 どう、と問われても、ノーとしか言えない。


「あいにく持ち合わせがないからさ」

「相変わらずしけてんなあ、キンさんは」

「お前に言われたくねえ」

 山口は高校時代の同級生だ。今は仕事を辞めてフリーターをしている。


「おごるって言ったらどうする?」

「いや、無理だろ。しかも銀座って高いじゃんか」

「実はバイト先で知り合ったマダムが結構な金持ちでさ。キンさんのお酒もおごってくれるらしいんだよ」


「へえ、今はどんなバイトをしているんだ?」

 山口はバイト先を転々としている。節操のない男だが適応能力は高いようで、どこの職場に行っても必要とされていた。


「バーテンダー見習い」

「まじか、酒飲めるのかよ」

「まあね、未成年だけど年をごまかしてテイスティングしてる。なじみの客も出来た」

「相変わらずだな」

 すごいとしか言えない。僕にはまねできない芸当だ。


「どうする、行く? キンさんが決めていいよ」

 悪いな。勉強があるんだわ。

 そんな言葉が脳裏をよぎった。

 浪人しているんだし、ここは断るべきだ。

 僕は単語帳から目を逸らす。


 頭ではわかっていても口では真逆のことを言ってしまう。

「いいよ。行こうぜ」

 心は正直だった。



 銀座駅までの乗り換えはわりと面倒だった。

 シートに座れなかったりしてちょっとイライラする。

 寝てるだけのやつとか、何なんだよ。僕と変われよ。こっちは勉強してるんだよ。

 そんなことを思いながら参考書を開く。ページの角がよれて丸くなっていた。


 ぶっちゃけ頭には全然入ってこなくて、その時はそれなりに焦るけど、下車してしまえば不安は一時的に緩和された。


 駅のホームで雑踏に紛れ込む。人の波が謎の規律性を保って進行していた。

 こうしていると工場で流れ作業をしているみたいな気分になって、あんまり余計なことを考えなくて済んだ。


 イヤフォンからはもう英単語は流れていない。代わりに、日本史や世界史の語呂合わせが聞こえていた。


「むやみに作った富本銭。ぶっちゃけ浸透せーん。名を馳せた和同開珎」


 口ずさみながらエスカレーターに乗る。何度乗ってもエスカレーターは怖い。

 乗ろうとしたら移動してくる段差につまずいて転ぶんじゃないかとか、下りようとしたら靴ひもが巻き込まれて引きずられて骨折するんじゃないかとか、ありもしないことを妄想しては鳥肌が立ってしまう。

 そして今日も無事にエスカレーターに乗れたと一安心するのだ。


 自動改札を出るくらいのタイミングになってくると人の往来はまばらになってくる。


 今までは規則正しく歩くだけの烏合の衆だったのに、いきなり意思を与えられたかのようにそれぞれのルートを歩み出した。

 そこに迷いはない。みんなはもうどこに行くか決めていて、ただただ目的に向かっているだけなのだ。


 鉄道の利用も移動手段にすぎず、「みんなが乗っているから」という理由で乗っている人はほとんどいない。


 それならば、「みんなが行っているから」という理由で大学を受験しようというのはどうなのだろう。


 両親からは、「このご時世は大学を出ないと良い雇用先が見つからないよ」と説明されたが、それはあくまでも世間の意見であって僕の意思とは関係がない。それに親には見栄や世間体もある。だから外部からの見えない圧力によって束縛されているだけで、本当の自由はそこを超えた場所にあるような気がしていた。


 進学するのは良いこと。

 勉強するのは良いこと。

 それはそうかもしれないけど、じゃあ進学もせず、世間に出て働いている人が役に立っていないかと言えばそんなことはない。


 職業選択の幅が狭まるだけで、彼らだって立派に責任を果たしている。そして僕らよりも早く大人になるのだ。


 ならば、大学生にも社会人にもなれなかった人間はどうなるんだろう。


 進学しても就職浪人をすることだってある。その場合はどうだ。社会的地位はどうなる? 一浪しただけでも履歴書に響く。


 早々に内定を勝ち取った高卒生の方が将来的にも重要なポストに立てるのではないだろうか。


 自動改札を抜ける。より一層人の動きがせわしなくなった。


 切符を握って猛ダッシュする学生の鞄が肩にぶつかり、「はい、今からそちらに伺います」と額に汗を浮かべた男性の体臭を嗅がされ、旧交を温める女子同士の抱擁を間近で見せられた。なんかこう、みんながそれぞれの人生を全うしている中で僕だけが取り残されている気がした。僕だけが背景と同化していて、僕だけが背景に溶け込めていない感じ。こんなに大勢の人間が蝟集(いしゅう)しているのに孤独に思うのは何故だろう。


「ミーンミーン」僕は、鳴いた。

 僕はセミにはなれない。だから好奇の視線を浴びるはずだった。

「は? キモっ」みたいな表情を向けられると思った。


 だけど実際にはだれも気付かない。もしかしたら僕が銀座駅にいるという事実も認識されていないかもしれない。

 僕はセミになった。

 セミは背景と同化している。僕も背景と同化したのかもしれない。

 だからだれも不思議に思わないのだ。


「ミーンミーン」

 口をすぼめて音を出す。セミは一週間だけ鳴けばいい。

 そうしていれば、終わる。

 暑くても苦しくても、一週間頑張れば終わるのだ。



 銀座駅、A3出口。

 から、徒歩二分のところにある銀座エックス。

 そこが待ち合わせ場所として指定されていた。


 空はどんよりとした赤紫色になっていて、高い建造物がほとんどだった。


 僕はグーグルマップを使ってそこを目指すが、同じ場所をぐるぐるさせられた。


 その度に赤く点灯した誘導棒を振っている男性にでくわす。

 空色に蛍光色の線が入ったジャケットを着ていて、白のヘルメットを被っている人物だ。


 牛丼屋の角を曲がると、その人がいる。


 いつ見ても誘導棒を振っている。彼にとってのルーティーンは棒振りなのだった。


 僕はよっぽど「ミーンミーン」と鳴いてどんな反応をされるのか試したい衝動に駆られたが、電話がかかってきたのでやめた。


「もしもし」

「もしもし、キンさん?」

 山口からだった。相手はちょっと慌てているようだった。


「今どこにいるの?」

 僕はビデオ通話に切り替えて、ぐるりと街並みを撮影して見せた。


「そこにいる警備員さんに今から送る写真を見せて、ここに行きたいんですけどって言って」


「あの人は棒を振るのが仕事だからそれはダメだろ」

 セミに道を尋ねるようなものだ。

 彼は棒を振るために生きているのに。


「勉強しすぎて頭がおかしくなったの? いいから聞いてね。それじゃ」

 通話が途切れた。やっぱり僕はセミになったのかもしれない。


 勉強しすぎてセミになるとは、詩人になれなくて虎になった李徴を笑うことが出来ないな。中島敦の漢文訓読体で書かれた小説を思い出しながら交通誘導員に声をかけてみる。彼はすっかり景色と同化していて僕よりもセミのようだった。


「あの、道をお尋ねしたいんですが」

「はい。いかがされましたか?」


 駐車場から出ていく自動車と自動車の間隙をぬって僕の方を見る。


 僕は山口から送られてきた写真を見せた。


「中央区立、銀座六丁目地下駐輪場ですね。それでしたらこちらの信号をまっすぐ行っていただいて」


 あ、人間に戻った。

 さっきまではセミと同等の擬態能力を誇っていたのに、少々残念だ。


「ありがとうございます」


 銀座エックスに着くと、山口がパアッと表情をほころばせて遠くから走ってきた。


 人通りもあるのにだれともぶつからないから、あ、山口はセミじゃないなと思う。


 彼は野球帽を反対向きに被り、青のティーシャツを着て、ショルダーバッグをタスキ掛けにしていた。


「キンさん、遅かったじゃん。何してたの?」

「悪い。道に迷ってた」

「もうオバサン先に行っちゃったよ」


「悪い悪い。それよりさ」僕は致命的なことを口にする。「未成年だから酒飲めなくね?」


「キンさんはまじめだなー」

 山口は楽天的な反応をした。軽薄な男だ。


「未成年者飲酒禁止法。飲酒することを知っていながら提供した営業者には、五十万円以下の罰金が科せられる」


「証人がいない。証拠がない。だから、だれも起訴出来ない」


「ほかの客が警察を呼ぶかもしれないだろ」


「あり得ないね。適当に運転免許証を見せればいいよ。店側はろくに確認してないからさ。その仕草を見れば、そこにいる客は、ああ、成人なんだと勝手に思い込む」


「……不良だな」

「歩きながら話そ」そう山口は歩き始める。

 僕もその背中を追った。もともと細身だが一段と痩せたように見える。


「文科省が不正入学を黙認していたのは知ってる?」

「ああ、ニュースで見た」

 某大学の医学部では、女子生徒のセンター試験の点数を一律減点していたのだという。


 医療現場に女性が進出した場合、妊娠や出産などで現場を離脱することがある。それによる医師不足を解消するための方策だったらしい。


「同じことだよ、キンさん。お金さえ積めば、黒は白に変わるんだ」


 いつもは軽薄なくせに、山口は意外と狡猾だった。


「例えば証拠不十分で無罪になったとしよう。そうしたら俺は迷わずに反訴するね。偽計業務妨害罪ですって」

 僕は感心すると同時に、これが社会に進出するっていうことなのかなと、一抹の寂しさも覚えた。


 出会った当初は、向こう見ずのアンポンタンだった山口。それがこんな老獪なタヌキになってしまった。浪人してミンミン鳴いている僕とは雲泥の差に思える。


「正義が勝つとは限らない。現実はテレビドラマよりも残酷なんだよ」

「お前、バイト先で何があったんだ?」

「別に、なーんもないよ」

 あはは、キンさんらしくないよ。いぶかしむ顔をしちゃって。そんな風に笑って韜晦(とうかい)するから僕もそれ以上追及することが憚られた。


 だけど、これから行くバーにその答えはあるのかもしれない。


 僕はお酒を飲んだことがない。未成年だからとかではなくて、単純にお酒そのものに魅力を感じなかったからだ。


 これから飲むお酒はどんな味がするんだろう。苦いのかな、大人の味ってやつかな。


「お、緊張してる?」

 山口は人の気配を察するのが非常に得意だ。感情の機微に敏い。


「なあ、その女の人ってヤクザの人か?」


「まさか。性欲を持て余したセレブ妻だよ。俺も何度か相手してるし、きっとキンさんのことも気に入ると思うよ」


 僕はまず「は? キモっ」という感情に襲われた。ぞぞっと背筋に悪寒が走る。


 ていうか、未成年じゃん。性欲が強いセレブ妻の相手をしてるって、お前はそれでいいのかよ。貞操観念は大丈夫か?


 青少年保護育成条例とかあるじゃん。犯罪だろ。


 いや、あの法律は十八歳未満を対象としているから、もしも山口が誕生日を迎えていれば適用外かなって違うだろ。そういう問題じゃない。


「うわー、めっちゃ考えてるときの顔だ。キンさんは頭が良いだけにいろいろと思うことがあるんだろうね」

「うん、それなりにな」


「青少年保護育成条例のことでも考えていたのかな?」

「うん、それなりにな」


「民法では、男子は十八歳で結婚出来ることが規定されている。つまり結婚を前提としたお付き合いならば、青少年保護育成条例には抵触しないよ」

 山口はすらすらと述べる。きっと例のオバサンから教わったのだろう。


「聞いた限りだとその女性は既婚者だ。どちらにせよ有罪だろ」

「うわー。さっすがキンさん、一瞬で論破しちゃった」


 大袈裟に手を叩いて称賛する山口は、「あっ、着いた。ここだよ」と外階段を指さす。そこは人通りの少ない路地裏だった。


 ドクンドクン、と心臓が早鐘を打つ。バーに入るなんて初めての経験だ。


 非常用の鉄階段を昇っていくと、重厚そうなドアが一つあった。黒くて、見るからに高級そうな作りをしていた。


 取っ手に手をかけると、「あ、ごめん。用事を思い出したわ」とか適当なことを言って逃げ出したくなる。


 頭上を照らす蛍光灯が頼りない光を放っている。お願いだからもっと明るくしてくれ。


 ぶっちゃけ怖い。足の裏にじんわりと汗をかいて靴下が蒸れた感じがする。


 やばいやばいやばいやばい。扉の先にはファンタジーの大人な世界が広がっているはずだ。


 やばいやばいやばいやばい。逃げたい消えたい帰りたい。


 ふっと息を吐いてガチャリとドアを開ける。

 いつでも逃げれるように、心の準備だけはしておこう。


「こんばんは。お二人様ですか?」


 髪の毛をジェルで綺麗に撫でつけたイケメン風の彫りの深い男性がカウンター越しに軽く頭を下げる。


「身分証はお持ちでしょうか? 当店では年齢確認の方を実施しておりまして」


 やっぱり来た。終わった。

 未成年なのがバレて、怒られて、追い出されるんだ。

 僕は怖くなってぎゅっと拳を握った。


「あらやだ、ジュンちゃん。どう見ても成人じゃないの。からかわないであげて」


 ここからでは背中しか見えないが、明らかに中年の、しかもけばけばしい格好をした女性が助け舟を出してくれた。


「この子達とは知り合いなのよ。だから、通して頂戴!」

 後半は威圧するような語調だった。僕はこの女性を知らない。


 ジュンちゃんと呼ばれた男性はグラスを拭く手を止めて僕達を一瞥する。そしてふっと微笑み、「左様でしたか」と柔和な声を出した。


「失礼しました。こちらへお掛けください」


 彼は対面式のカウンターを手のひらで示す。僕は警戒しながら固定式のスツールに座った。


 店内の照明はアロマキャンドルが担っていて、見た目も香りもお洒落だ。


 埋め込み式の照明は豆電球くらいの明るさしかない。


 カウンターの向こうには酒棚があって下からライトアップをしていた。ラベルの貼られた瓶には、ジンとかウォッカとかの蟹行文字が並んでいる。イギリスの近衛兵みたいな絵が描かれた瓶もあった。


 暗すぎて気が付かなかったが、右奥のソファでは二人の男女が酔いつぶれて、ぐでーっとなっていた。


「ミキちゃん、僕もうお腹いっぱい」

 お腹の突き出た眼鏡の男性が眠そうな声を出す。

「ショウちゃんたら、ちょっと寝てていいよ」

 甘ったるい鼻につく声で女性が応じる。


 四十代だろうか。その二人は折り重なるようにして眠ってしまった。


 僕は衝撃を受ける。

 大人って、もっと大人だと思ってた。

 ここは子供が立ち入ってはいけない未知の領域に思えた。


「ふふっ、寝てしまいましたね」

 ジュンちゃんは目の前に柿ピーの皿を置く。

「居心地がいいからでしょ。ね?」

 オバサンは僕達の方を向いて同意を求めてきた。


 それはアロマキャンドルに映える見事な厚化粧だった。おしろいを塗りたくったような顔には品位が感じられない。


「うん、さっすがオバサン。センスが良い!」


 山口は軽口で応じる。僕は「うわっ、お前、こんなやつとヤッたのか」という感情を悟られないように深く頭を下げた。下げながら心底「うげーっ」となった。二日酔いになった人の気分が少しは理解出来た。もしも行為をしたのが山口ではなくて僕だったら、毎日二日酔いをしても足りないくらいだ。


「あらまあ、よく見るとイケメンじゃない。ア、ナ、ター」

 ううっ寒い。そう思ったのは空調のせいだけではないだろう。


 山口はポリポリとピーナッツをつまみながら、

「だってさ、キンさん。気に入ってもらえて良かったね」と僕の肩に手を置く。


 僕は褐色の肌をした筋肉質の腕をさわる。

 上腕にひんやりとした冷たさを感じて、「ああ、指先めっちゃ冷えてるな」と身震いをした。


 顔はともかく筋肉には自信がある。小学生の頃から、男子の羨望の的になってきたからだ。「鶏の足みたい」と称されたこともある。脂肪がなく、筋肉がぎっしりと詰まっているという意味だった。この前に体脂肪を測定したら、それは数パーセントしかなかった。体重の約半分は筋肉だった。


 僕はこの身体が、目の前の色欲ババアに蹂躙されるのを想像したくなくて、あいまいに頷くだけにとどめた。


「お待たせしました。乾杯カクテルです。お客様の顔色、声の調子、挙動等を総合的に判断して、度数を調整しました」


 どうぞ、お楽しみください。ジュンちゃんはすっとワイングラスを滑らせてくる。


 中身はスカイブルーの液体で、チェリーが添えられていた。ジュースかな、と思ってしまう。


「お待たせしました。お客様はスコッチウイスキーのシングルです」

 紋様が刻まれたガラスのコップに、球体の大きな氷が一つ入っている。

 そこにジンジャーエールのような黄金色をした液体が入っていた。


 どうやら二人ともジュースを出されてしまったようだと僕は拍子抜けしてしまう。


「とりあえず乾杯するか」山口が切り出して、僕達はカチンとグラスを触れ合わせた。てっきりオバサンも参入してくると思っていたけど、遠目で眺めているだけだった。


 僕はワイングラスを持ったことがなくて、どこをつかめばいいのかわからないから、とりあえず脚の細長い部分をつまんでいた。持ちにくかった。


 ずずっと口にスカイブルーの液体を流し込む。まずは舌で味わってみた。


 第一印象は、「炭酸!」だった。その中にほのかな苦みがあって、のどを鳴らして飲み込むと大人の階段を昇った気がした。


 オバサンは火照った顔でこちらを見ている。カクテルを飲んだ影響なのか、頭にもやがかかったような感じがして、不快には感じなかった。


 その厚化粧もだんだんと見慣れてきて、どうでも良くなってくる。


「い、いやー、バーに来るのは初めてなので、なんだか緊張しますね」

 このまま沈黙しているわけにもいかないだろうと、僕はジュンちゃんに話題を振ってみる。


「あら、そうなの? まだ染まってない感じがうぶでタイプだわ」

 その話題をオバサンが拾った。マジかよと思ってしまう。


「こっちの子はもう慣れてるからねえ」

「えへへ、おかげさまで」

 山口は鼻の下をこすった。媚びるような視線を送っている。


「ここに来る前は何をしてたの?」

「予備校で勉強してました」


 オバサンの質問に正直に答えてから、しまったとジュンちゃんの顔色を窺う。未成年だとバレたかもしれない。せめて大学と言うべきだった。


「勉強ですか。真面目ですねえ。僕は高校中退ですよ」

「何を言ってるの。立派にバーを経営してるんだから大したもんよ」

 どう受け取るべきかわからないが、年齢について咎められることはなかった。


 それともオバサンが話の接ぎ穂を刈り取ったから、言えないだけなのか。


「勉強ばっかりじゃなくて、こっちの勉強はどうなのよ?」

 顔に手のひらを添えて、オホホと笑うオバサン。

 やぱり品位のかけらも感じられない。


「いえ、それは」

「今の若い子はダメねえ。オバサンが教えてあげようか?」


 このままでは、「は? キモっ」では済まない絶望を味わう気がして、僕は全力で拒否をした。


 バーテンダーの表情が引き攣るのが、空気を通して伝わってきた。


「あら、失礼しちゃう。あなたゲイね」

 何を言っているんだ、この色欲ババアは。


「筋肉質の男って、こっちの気があるって聞いたことがあるわ」

 どうする? 耐えるか?

 それともワイングラスの飲み物をぶっかけて帰るか?

 何様なんだよ、このババアは。


「オバサンみたいに美しい女性をキンさんは見たことがなかったからさ。尻込みをしているだけだよ」


 してませんけど。


 僕はよっぽど言おうとしたが、山口のフォローを無下にするわけにもいかず黙っていた。


「あら、そうかしら。でも、若いだけの子よりは、私って魅力的だと思わない?」


 思いませんけど。


「魅力的どころか、眩しくて目がくらんじゃうよ」


「今でもお若く見えますよ。いつになってもお年を召されない方だなと思っています」


 山口とジュンちゃんが接待のように気を遣う。


 マジか、これが社会に出るってことなのか。


 僕は大人の世界を垣間見た気がして、でもそれは幻滅という名の現実で、「ああ、大人ってこんなことをしてるんだなあ」と思ったら情けなくなった。


 こんな大人にはなりたくないな。おべっかばかり使って本心で話せないのは格好悪い。


 ピーナッツを奥歯で噛み砕きながら、カクテルを流し込む。口内に溜まった食べかすが洗い流された。


 だけど腹の底にはアルコールが沈殿しているようで身体の奥が熱くなってきた。酩酊ってこんな感じか。


「これから国家の政策は障害者の支援に向くと思うのよ。介護施設はなくなっていく。私の老後は大丈夫かしら」


 当たり障りのない会話でやり過ごしていると、オバサンは盛大なため息を漏らした。なんだか気まずくて顔を直視出来ないから彼女の手元を見ると、グラスが交換されていた。新しい飲み物にも派手な口紅がついていて、それを見てようやく、ああ、この人も一応は女なんだなと思った。


「どうされたんですか?」


 ジュンちゃんが親切にも水を向ける。

 店内のBGMがクラシックからジャズに変わった。


「国家の支出予定表を見たんだけど、介護にさける予算が少なくなっているのよ。弱い者に厳しいわね、この国は」


 国家予算の使い道を、ただの国民が知ることが出来るのだろうか。僕は疑問に思いながらも耳を傾ける。


「嫌な時代ですねえ」


 そうなったのは生産性がないから。


 もしくは先進医療の発達により平均寿命が延び、人手が不足しているためだろう。


 これも社会的な問題ではある。


「どうかしら、お若いお二人さんもこの話に乗ってみない。投資信託(インデックスファンド)なんだけど」


 投資か。確かに興味はあるが学生ではお金が足りない。


 でもちょっと格好良い。学生という身分でありながら日本の経済に携われるというのは中々に魅力的な提案ではあった。


「キンさんは頭が良いからね。そういうのも向いているかもしれないよ」

「山口。そう思うならお前がやれ」


「いや、俺は経済とかわからないから」

「僕だって専門外だ」

 余計なことを言いやがって。そうグラスを傾ける。


 ちょっとずつ度数にも慣れてきて、まともに飲めるようになってきた。


「おかわりなどいかがですか?」


 ジュンちゃんの手がワイングラスに伸びてきたときに袖口からオーデコロンの柑橘系の匂いがして、僕はそういう細かい身だしなみにも気を遣えるところに感心した。


 やっぱりどうしたって大人は大人で、軽蔑していたはずのオバサンもなんだか世の中の情勢に詳しそうだったりして、そういう子供では手の届かないところまできっちり網羅しているくせにあざとさは全くなくて、例えば僕がオバサンと同じことを言ったとしても説得力は感じられないし、ジュンちゃんの真似をしてさりげなくオーデコロンを振りまいたところでここまで爽やかには立ち回れない。


「あ、はい、じゃあおすすめで、お願いします」


 ちらっと横目でオバサンを窺う。山口の話ではこの人が支払いを請け負ってくれるらしいが、気分を害していないだろうか。


 もしも自腹になってしまったらこれ以上の追加注文は避けたいところだ。


「あら、どうしたの? わかった、株に興味があるんでしょ」

 目をとろんとさせて酒瓶を眺めていたオバサンは、肉付きのいい手を組んでつまみを口に運んだ。


 よく見ると大きな石が指のリングにはめられていて、それが暗く光っている。


 僕はせっかくはめるなら指輪よりもメリケンサックの方が実用的だと思ったけど、口論になったりしたらまずいのでやめた。


 女性は男性ほど、強さに憧れがないらしい。


「ここだけの話、株を持っていると就職にも有利よ」

 急に現実に引き戻されるような話題になって、焦った。


 大人は仕事をしている。だからオバサンは子供に対して就職に関する知識を教えているのだ。


 ここは大人の世界なのに、大人として認めてもらっていないような気がした。


「そこが上場企業であれば、資本金とかもそうだけど、事業内容も調べるようになってくるわ。お金を出して株を買ったんだから、その会社のことをもっとよく知りたいと思うのは当然でしょう。それが、面接で活きてくる。御社の株をいくつ保有していますって明かすのも目立って良いと思うわ」


 すごい。そこまでは考えたこともなかった。


「お待たせしました。ウォッカのコーラ割りでございます」

 細長いコップの底にはコーラが、上部には透明な液体が、二層になって共存していた。


「うん、私もね、下降気味の株を買ったの!」


 ソファから声がしたので見てみると、傷んだ長髪を掻き上げながら女が身体を起こした。


 そのやつれた顔からは社会人の苦労がにじみ出ていたが、甘ったるい声が妙に色っぽくて驚いた。


「そしたらなんてことはない。売りに出す前に無価値になったわ」


「それは下調べが足りなかったからよ。株価の変動は読めなくても、期待値を算出していれば大損はしないはずよ」


 酔っ払い同士がくだを巻き始めた。


 初対面でも気兼ねなく会話が出来るこの空間は、社会人の交流の場に思える。


 山口はこんなにも大人な職場で働いているのだ。ちょっとだけ格好良い。


「お前もお客さんと話すのか?」と訊くと、「もちろん」と子供の笑顔で返された。


「ねえ、そこのお兄さん。良い筋肉してるね。ちょっと脱いでよ」


 甘ったるい声がなぜか僕にまで飛び火して、内心、「は? ふざけんなよ」ってなったけど、オバサンと険悪なムードになったこともあるから、ここは学習して、山口にヘルプを求めた。すると山口はスマートフォンのアルバムから僕の上半身裸の写真を表示してみんなに見せた。その写真はジムに通って筋肉最盛期の頃に撮ったものだった。ジムでは警察や消防、自衛隊の人にも筋肉を褒められて勧誘もされたけど、僕は司法の勉強がしたかったのでやんわりと断ったのだ。


「うわっ、プロボクサーじゃん。減量してる?」

 ジュンちゃんはカウンターから身を乗り出すようにした。


「減量というよりは食事制限ですね。低脂質、高たんぱくな食事を心がけていました。人によっては筋肉を減らさないために空腹の時間を作らないそうですが、僕はがっつり飢えと戦っていましたね。そう考えると減量っぽいです」


「腹筋バキバキだね、タイプだわ。どうやったら割れるのかしら?」


「体幹を鍛えて、腹筋を痛めつけてから、ひたすら走りました。一日に二十キロくらい」


 オバサンが枝豆に手を出すのに合わせて、ピーナッツをまとめて頬張る。ちょっと油っぽい。


 だけど、なかなかに塩味が効いていてお酒が進んだ。


 軽快なジャズミュージックが耳に心地よく響いている。ちょっとだけまぶたが重くなってきた。


「お客さん、おかわりはいかがでしょう?」

 バーテンダーはにこやかに山口に尋ねる。

「おすすめでお願いします」


 僕は頬杖をつきながらメニュー表に目を向けた。カクテルの欄にバナナミルクと印字してあって、あ、次はこれを頼もうと、うとうとしながら頭の片隅で考えた。


「お兄さん達は学生なのかしらぁ? ずいぶんお若く見えるけどぉ」


 酔いが回っているのか、ソファの彼女の語尾は間延びしていた。遠くから媚びるような上目遣いをされて、あ、この人は水商売の人だな、と偏見じみた予想をした。だけど目元は腫れっぼったいし、眼窩には疲労の色が見えるし、あながち間違っているとも思えなかった。


「ええと、僕は浪人生です。予備校に通ってます」

「俺は、フリーターでーす!」


 カランとグラスから涼しげな音色がしたのでジュンちゃんを見る。彼は丸い氷をグラスに入れているところだった。上品な仕草で瓶を傾けている。


 僕の位置からは瓶のラベルが見えて、バーボンと表記されているのがわかった。それから酒棚に手を突っ込んでI.W.ハーパーを取り出す。


 なんと、お酒とお酒をブレンドし始めた。僕はドリンクバーでコーラとメロンソーダを混ぜたことがあるから、ああ、これは遊び心でやっているんだなとなんとなく思った。


「どうぞ。ウイスキーのロックです」


 コースターの上に音もなくグラスを置いてから、ジュンちゃんは頭を掻いた。


「お酒はよく飲まれるんですか? 顔色が全く変わらないですね」

 山口は、ええ、まあ。と適当な返事をする。僕は腹の底だけじゃなくて全身が熱くなっていることに気付いた。もしかしたら顔面も紅潮しているかもしれない。


「学生さんかぁ。いいわねぇ」

 甘ったるい声を出しながら、ソファの女性は服をはだけさせた。


 お酒を飲むと空調が効いていても暑くなってくるから、その行為自体は不自然ではないのに、僕には夜の遊戯を誘っているように見えた。


 するとズボンの中のムスコが目を覚まして、ぎゅうぎゅうと窮屈にその体躯を大きくした。僕は痛みと四十代くらいの女性に発情してしまったことが恥ずかしくて、慌ててトイレへと駆け込んだ。厚化粧のオバサンを前にしてもなんともなかったのに、なんで勃ってしまったのだろう。おかしい、どうかしている。


 鏡の自分を覗き込むと、想像以上に顔が赤かった。


 目はぽやーんとしているのに、性欲はギンギンで、心臓の拍動と感情との間に齟齬が生じていた。


 洋式の便器に放尿していると、じょぼぼと音が鳴って多量の水が跳ねた。それはアルコール臭くて、便器の淵や壁際にも飛び散っていた。


 尿の勢いが弱まっても、ムスコは元気に屹立している。そのせいで残尿が竿の先端を伝って、玉袋に達してしまった。


 指で露払いをするとちょっとむず痒くて不愉快だった。


 酔うと性欲が増幅するらしいことがこの一件でわかったが、たぶんオバサンとはヤレない。


 僕はこの醜態を悟られたくなくて、なるべく早めに自分の席に戻ろうとした。

 そうしたら段差につまずいてしまって、足の親指をしたたかに打った。


 痛みに引き攣りそうになる顔面を歯を食いしばって耐える。


 注視されてしまえば、ズボンのファスナーが隆起していることがバレてしまう。


「今日は一段とお肌が綺麗ですね。何か良いことがありました?」

 ジュンちゃんはオバサンの、こてこてに塗りたくられたおしろいを褒めていた。


 だれも僕を見ていない。僕はこっそりミンミン鳴いてみた。すると不思議と気分が落ち着いてきて、下半身のムスコも弛緩した。そのことに安堵しつつも性事情に敏感そうなオバサンには警戒心を働かせて足の届かないスツールに着席する。


「あらやだ、こんなイケメンを前にしたら肌の細胞だって活性化するわよ」


「オバサンは今でも綺麗だからさ、昔はもっとモテたんじゃない?」


 山口、そのお世辞は見え透いているぞ。


「そうなのよー。男なんて顔しか見てないでしょ。毎晩とっかえひっかえよ」


 酔い過ぎたのかな。なんだか強い吐き気がするぞ。


「でも最近は旦那ともご無沙汰だから、若い子ともヤッてみたいなって思うのよね」


 オバサンは、山口、ジュンちゃん、僕の順に視線を配ってから、はあ、と深く息を吐いた。


 脇の下から冷たい汗が流れる。冗談でもやめてほしい。これは、セクハラだ。


「もちろんタダでとは言わないわ。ホテル代やお食事代とは別途で、お小遣いを五万円くらい渡そうかしら」


 なんとか気を紛らわせようとグラスを手に取ったが、途中で身体が細かく震えて、歯がカチカチと鳴った。問題は金額の多寡ではない。それはわかっている。でも、心が一気にグラついたのも事実だ。五万円とは社会人にとっては少額なのだろうか? よくわからないが一夜を共にするだけで、というか行為は三十分くらいで終わるだろうから、実質は一時間足らずで五万円を得ることになる。僕にとっては時給千円でも嬉しいのに、五万円。魅力的すぎる条件だった。


 だが、だれも何も言わないまま時は過ぎた。


「あらぁ、そこの学生さん。怖いのかしらぁ?」


 舌足らずな口調でソファの女性は赤い箱を取り出した。そこから細長い筒を一本取りだす。タバコだ。

 店内に常備されているマッチ棒で火をつけると、白い煙を吐き出した。


「あなたも一本どう? 落ち着くわよぉ」

 これも大人のたしなみだ。吸ってみたい。

「い、いただきます」

 僕は赤い箱をもらってタバコを取り出す。タバコを吸うのも初めての経験だった。


 喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります。との但し書きがある。


 製造者がそれを言うのは意外な気がした。


 マッチをこすって、包み紙の先端を燃やす。これでいいのだろうか。


「あらあらぁ、タバコは初めてぇ?」


「ええ、まあ……」


 ジュンちゃんに渡された灰皿にタバコをのせると、煙はもう上がっていなかった。


「吸いながら火をつけるのよぉ。やってみてぇ」

 言われたとおりにすると、煙が一気に体内に入ってきて、盛大にむせた。


「まあ、通過儀礼よねぇ。吸い方がわからないとそうなるわぁ」

 なんだか口の中がめちゃくちゃ苦い。

 でもブラックコーヒーとは違って、あとに残らない苦みだった。


 強く吸ってから吐くと、先端のオレンジ色をした部分が、ジジ、と音を立てた。


 煙が目に染みて、痛い。

 灰を落とす作業がちょっと楽しかった。


「どうかしらぁ?」

「苦いだけで、良いとは思えません」

 僕は正直に答える。


 こんな百害あっても一利なしを地で行くような煙の筒を吸い込むなんてあり得ないと思った。


 決して安くはないはずの金額を支払い続け、さらに健康状態も害して、依存症にもなって、最悪の場合は肺がんのリスクまで背負ってしまうのだ。論理的に思考すればするほどに、吸うことによって得られるであろうメリット、いわゆる一時的な安心感や多幸感は、それを吸うことによって生じるデメリットと釣り合わない気がした。それだけ社会に出たときのストレスというものが、学生時代に感じるストレスとは比較にならないほど大きいのだろうけど、たぶん僕は社会人になったとしても吸わないと思う。


 こんな物をお金を出して吸うのは愚の骨頂だ。


 だけど僕は喫煙者を特別にあげつらって非難するつもりもない。


 今後ともたばこ税はもっと値上がりするだろうから、生涯に渡ってこれを吸い続けていれば、意図せずとも日本経済に貢献することになる。無駄に税金を支払い続ける彼らに感謝するつもりは全くないが、だからといって故意に迫害しようとも思わない。棲み分けが出来ていれば僕には関係ないのだから。


 灰皿のくぼみに、有害で依存性の強い可燃物を置いておくと、吸ってもいないのに勝手に燃焼していて、それは当たり前の現象なんだけど、ちょっともったいないことをしたなっていう気分になる。僕はタバコを親指と人差し指で挟んでフィルターを強く吸った。僕がつかんだコツは、口に含んだ水を飲み込まないで吐き出すイメージで、それは愛煙家の女性が言うには「ふかしてるだけじゃダメよ」とのことだったが、これくらいがちょうどよかった。


 スーッと吸って、フーッと吐く。

 吐く際には、唇をすぼめて細く長く息を吐く。

 これが僕の理想形だ。


 もう一度強く吸うと、口の中に熱が伝わってきて、さらには持ち手にも高温が迫ってきて、ぐりぐりと鉄製の受け皿に押し付けると、あっけなく煙の筒が簡単に折れ曲がった。灰皿には白と黒の粉が溜まっている。


「せっかくですがお返しします」


 僕はそうジュンちゃん経由でタバコの箱を返す。


 先程の中年女性、ミキちゃんは薄暗い照明を浴びながら、ショウちゃんのでっぷり突き出たお腹に身体を預けるようにして眠っていた。


 この二人が夫婦なのか、それとも独身同士なのか、不倫の関係なのかは予想もつかない。何かしらの情報を持っていそうなジュンちゃんに訊いてもはぐらかされそうだし、品のないオバサンに話題を振るのはちょっと怖いし、山口にとってもこの店は初見だろうからわかるはずないしで、僕はジュンちゃんとミキちゃんの関係を探ることを断念した。


 店内のジャズミュージックに耳を貸しながら、ウォッカのコーラ割りをマドラーでかき混ぜる。コーラの割合が多いせいか、見た目はほぼコーラと相違なかった。


 細長いコップを口元に持っていくと、前歯が当たってカチッと音がした。手が震えていて、あ、まだ緊張してるんだな、と自分よりも少し上の場所から、僕自身を俯瞰している僕が他人事のように言った。


 そりゃそうでしょ、未成年なんだから。と脳内で会話をしていると、ジュンちゃんが急に顔を近付けてきて、「僕は未成年のときからお酒を飲んでいたんですよ」と暴露してきた。これは僕と山口が未成年であると見抜いての発言なのか、それとも単なる話題提供のためなのかは知らないが、それを聞いた僕はドキリとして細長いコップを落としてしまいそうになった。動揺を悟られないようにカウンターに置くと、ガンッと不自然に大きな音がした。


「失礼しました」

 僕は適当に愛想笑いを浮かべるが、ジュンちゃんは僕の表情など一顧だにしていなかった。その穏やかな目は山口に向いている。


「この業界だと、近くの店のバーテンダー同士で仲良くなったり、相手の店に遊びに行ったりすることもあるんですよ。だから、未成年で働いているアルバイトのスタッフリストも持っているんですよ。都条例は罰則が厳しいですから参りますよね」


 これは明らかにカマをかけられている。

 通報されることはないだろうが、返答次第ではタダでは済まないかもしれない。


「あらやだ、ジュンちゃん。そんなに早くから修行してたの?」


「ええ、そうなんですよ。私もこうしてバーの店主として店を構えるまでは、バーテンダー見習いとして麻布や六本木で研鑽を積んでおりましたので。今でこそ、師匠のお墨付きをもらって、暖簾分けをする形で営業をさせてもらっていますが、その頃は大変でしたね」


 未成年からお酒を飲んでいた。ということは、その頃にバーテンダー見習いを始めたのだろう。風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律があるから19才から働いたのだとしても、こんなにも早く、それも銀座に店を構えるとは中々の実力者なのかもしれない。


 僕が素直に感心していると、山口はすっとスツールから足を下ろして、ショルダーバッグを肩に掛け始めた。


 彼のグラスは空になっている。僕もコップの中身を干そうと一気に口の中に入れた。アルコール度数は低いが、このまま飲み込むのはきつかったので、リスみたいに頬袋を膨らませて、そこに貯蔵した液体を時間をかけて流し込むことにした。ウォッカが歯にしみて痛かったが、その不快感もやがてなくなり、アルコールも唾液の分泌と合わさって薄くなった。


「あら、もう帰るの?」

 オバサンは残念そうにこちらを見た。

「キンさんは司法の勉強があるからさ。大変なんだよ」

 アロマキャンドルの炎が淡く揺れている。


「またいつでもいらしてください」

 ジュンちゃんは彫りの深いイケメンスマイルを浮かべていた。


「はい、ごちそうさまでした」


 僕の感謝は、ぐおおという無遠慮なイビキで掻き消された。ミキちゃんとショウちゃんは目を覚ます気配がない。薄暗い照明が、ソファーで眠る男女をイケない存在に見せている。


 扉を開けると、むわっと肌にまとわりつく風が吹いて、火照った身体から汗が漏れ出た。


「お見送り出来ず、こんなところからすいません」

 ジュンちゃんはカウンター越しに頭を下げた。

「いえいえ、それではおやすみなさい」


 僕は店内を出ると、鉄製の非常階段をゆっくりと手すりにつかまりながら下りることにした。自分では真っ直ぐ歩けているつもりでも、意外に平衡感覚が狂っていて、ふらふらと視界や足取りが覚束なくなる。


 山口はそんな僕を笑いながら見ていて、「肩を貸そうか」と言ってきた。僕は鮮明にハッキリしているはずの景色とぐるぐる回る視界に酔いそうになって、これは四の五の言っている場合ではないぞと判断して、「ああ、頼む」と階段を下りて、信号のある路地まで救助してもらった。


 そこからはひとりで歩けると言って、標識につかまって呼吸を整えた。銀座の通りは真夜中でも人が多く、こんな狭い路地なのに何人も通行人が集まっていて、それぞれがミンミンとやかましく大合唱を始めるのには辟易した。


 酔った頭でそれを聞くのはさすがにきつい。頭蓋骨の内部でガンガンと反響する音楽に思わず目を閉じると、うっと吐き気が込み上げてきて、その場にうずくまった。アスファルトは冷たかった。


「キンさん、大丈夫?」


 山口の手を借りながら起き上がると信号は青になっていて、さっきまでその辺でミンミンとわめき散らしていた連中は、ある一定の規則性を保ちながら横断歩道を渡っていった。


 その動きはだれかが指揮しているわけでもないのに統制されていて美しい。


 銀座はまだいいが、渋谷のスクランブル交差点なんかに行くと、もっと幾何学的な動きをする。それなのに人の波はお互いを打ち消し合うこともせずにすれ違っていく。こういうときにこそミンミンとけたたましく鳴くべきだと思うが、それがセミと人との違いなのかもしれない。


「ああ、歩けるよ」


 僕は蹌踉(そうろう)とした足取りで縞模様の道路を横切った。そのとき歩行者信号は点滅していて、少し焦った。自動車が排気ガスを出しながら、猛禽類みたいに目を光らせていた。鳥類ににらまれたセミもこんな気分なのだろうか。


 信号を渡りきってから少し歩くと、青い看板に、白い牛乳のマークが見えた。ローソンだ。僕はローソンの位置を覚えることにした。筋金入りの方向音痴だから、目印はたくさん記憶しておいた方がいい。


 ビジネスホテルはどこも高級そうな造りをしていた。


 僕と山口はそのひとつに泊まることになっていた。オバサンが予約をしてくれていたのだ。


 でも僕は途中参加なわけだから、オバサンの考えだと、アフターナイトを山口と過ごそうとしていたはずだ。

 ところが友人を連れて現れたため引き下がったというだけで、本当は山口と暑い夜の営みを繰り広げるつもりだったのかもしれない。


 そもそもホテルがどうとかいう話が、僕がトイレに行っている間に出ていたのか、それとも僕が来る前から決まっていた既成事実なのかわからない以上は推測の仕様がないのだ。


 ジーンズのポケットからスマートフォンを取り出して、『おかん』と表示された連絡先にLINEを入れる。「今日は山口の家に泊まる」そう打ち込んでから送信を押した。


 すぐに既読がついて返事が来る。


「わかったよ。差し入れ持っていきなさい!」


 僕は既読だけつけてそのアプリを閉じた。前に山口家にお邪魔したときは、なんとか部門で金賞をとったというワインを持っていったが、今回の宿泊先はビジネスホテルなので、おみやげのようなものを用意するつもりはなかった。


 ディスプレイから目を切ると、場違いなところに来てしまった焦燥が込み上げてきて、ああ、これから非現実的な世界が待っているのだと思った。未成年者だけで宿泊するなんて、緊張どころでは済まない。まさしくテレビドラマで見る大人そのものだ。


「着いたよ、ここだ」


 山口が指した方向を見た僕は、驚きを禁じ得なかった。荘厳な分厚い扉はどんなに長身な外国人にも対応出来るように2~3メートルくらいあるし、その建物は他のビジネスホテルと一線を画すほどの高級感だし、まさしく世界各国の要人がリムジンなりお忍びなりで訪れていても不思議はないほど立派な出で立ちだった。


 こんなに大きな扉はどうやって開ければいいんだろう。そう思って入口に向かう。それは自動ドアだったようで、人感センサーが感知してくれたのか勝手に開いた。内装は正面がロビーになっていて、左手にはエレベーターがある。そのエレベーター付近にフロントがあった。


「Sorry!」


 真後ろから声を掛けられた。

 振り返ると背の高いヨーロッパ系の外国人が立っていた。


 何か話しかけられると思ったけど、僕が入口のど真ん中に突っ立ていたのが邪魔だったようで、半身で避けるとそのまま素通りしてフロントでチェックインを済ませた。


 受付嬢は二名いたが、そのどちらとも僕と山口には会釈すらしなかった。だが、他の客が通るとにっこりと微笑んで、「いってらっしゃいませ」「おかえりなさいませ」と言っていた。


 大理石の床は鏡のように磨かれていて、ここはデキる大人の宿泊するホテルだなと、未成年ながらも直感的にそう思った。


 それでもさすがにお客様扱いされないで、いつまでもよそ者みたいな目で見られるのも嫌だったので、僕は山口に言って、さっさとルームキーをもらうように促した。山口が紙に何かを記入している間、僕はフロントの受付け嬢にチラリチラリと見られていることに気付いていた。「え、なんで?」「こんな若い人だけで?」「てか、男二人で?」みたいないぶかしむ視線だ。そこまで露骨ではないもののかなり不愉快だった。


 仮にも銀座駅前の一等地に建てられた高級ホテルなんだから、そこら辺の配慮はもっとしっかりしていると思っていたけど、子供だからなのか未成年だからなのか、他の客よりもぞんざいに扱われているように感じた。


「保護者は同伴では……」「親戚のオバサンが……」というやりとりも聞こえてきて、いやいやこっちはお金を払っているんだから(正確には僕も山口も払っていないけど)、余計なことを詮索してないでさっさと通してくれよと思った。頭上を見上げると、監視カメラが赤いセンサーを発していた。


「キンさん、お待たせ―」

 山口はそうカードキーをズボンのポケットに入れた。


 エレベーターを呼んで指定された部屋の前に到着すると、山口は慣れた手つきでカードをかざしてドアを開け、埋め込み式のカードスイッチにキーを差し込んだ。そして手近な電気をつけてオートロックの扉を閉める。一連の動作は手際が良くて、僕は、ああもう山口は大人だな、と妙に納得した。


 オートロックとはいっても内側からは簡単に開いてしまうので、セキュリティーに不安を覚えた僕は意味もなくチェーンロックをかけた。これはちょっと大人っぽい感じがするとテンションが上がる。


 部屋の中はいわゆる普通の間取りだった。高級であろうとなかろうと、そこは変わらないらしい。入ってすぐ左手にトイレがあって、その奥にはバスタブが設置してある。正面にはクローゼット、もう少し入っていくと、ライティングデスク、そしてダブルベッドが一台あった。


 ダブルベッド……。


 僕はフロントの受付嬢のいぶかしむ視線を思い出して、はあ、とため息を吐いた。


 どうでもいいけど、そう、思われたのか。


「とりあえず今日は疲れたなー」


 背負っていたバッグをライティングデスクとベッドの間に放り投げてから、テレビのリモコンを手に取る。電源を入れる。バラエティ番組のキャハハという笑い声が部屋中に響いた。


 僕は幼い頃、芸能人に憧れていた。テレビの前で楽しそうにしているだけでお金がもらえるなんて、まるで夢のような仕事だと思った。他には子役タレントに憧憬の眼差しを向けたりもしていた。まだ年端もいかないのにテレビに出てお金を稼いでいるなんて、まるで大人のような子供だと思っていた。


 大人のような子供。


 そうやって考えると、大人ってなんだろうなと思うことがある。


 お金を稼いでいる人が大人なのであれば、子役タレントは成人でもないのに大人という定義になってしまうし、それも言及していけば鎌倉時代から始まったとされる元服式は15歳くらいの年齢をすでに成人として扱っていたはずだ。


 だから年齢が満たされていれば、大人。

 仕事をしていれば、大人。ということではないと思う。


 大人、の定義は曖昧なのだ。


 ただひとつ確定していることは僕は大人ではないということくらいだ。

 山口は大人なのかもしれないが、僕は大人ではない。


 なぜかそんなふうに思った。


「キンさん。俺、シャワー浴びてくるね」


 山口はそうベッド下からスリッパを取り出した。ブラウン色のよれたスリッパだった。


「ああ、わかった」


 僕はそっけなく言って、山口がシャワールームに行くのを見送る。その姿が見えなくなったことを確認してから、奇声を発してベッドにダイブした。ふとんはフカフカで、ベッドのマットレスは反発性があって、僕の身体はトランポリンに乗ったときみたいに跳ねた。「うひょー」と飛び跳ねていると、心が躍った。


 普段から大人っぽく振る舞っている反面、僕は隠れて幼稚な行動をとることが多かった。そうやって痴態を演じているとストレス解消に繋がった。疲れるまで飛び跳ねてから、今度は意味もなくふとんの中にもぐった。薄暗いこの感じが、背徳感に満ちているようで好きだった。


 綺麗に敷かれたベッドシーツをくしゃくしゃにして遊ぶと、「あーあ、せっかくホテルマンの方が清掃してくれたのに、これじゃ台無しだよー」と第三者的目線に立った僕がそうため息を吐いて、それが面白いからその行為はエスカレートしていくのだった。


 シャワーの音が止んで、洋式トイレの流水音が聞こえたくらいのところで、僕はあわててふとんを敷き直す。気付かれても構わないが、このギリギリの緊張感がたまらなく心地よくて、何事もありませんでしたよ、みたいな顔をして澄ましてベッドの端に腰掛けた。


 バラエティ番組を見る。

 内容がまったく頭に入っていない状態で、観客席の笑い声に合わせるようにして、アハハと笑うと、意味もなくアリバイ工作をしている二時間ドラマの犯人のような気がしてきて、テレビの内容とは関係なしに本笑いに移行する。それを見た山口は、「ああ、なんだ、テレビを見ておとなしく待っていたのか」と思うことだろう。そうしていざベッドに入ろうとした段階で、「オエッ!」と驚愕の声を上げるのだ。


 ベッドシーツがぐしゃぐしゃに掻き回されている惨状を目撃してやっと、「ああ、してやられた」と落胆を口にする。そこまで想像してからもう一度笑い、バスローブに着替えた山口を一瞥した。


「なあ、キンさん。聞いてくれよー」

 フェイスタオルで髪の毛のしずくを落としながら、山口は冷蔵庫を開けた。そこからコカ・コーラのペットボトルを取り出して、ゴクリとのどぼとけを上下させる。


「さっきのバーで、ジュンちゃんがオバサンに対して、『今日は一段とお肌が綺麗ですね。何か良いことがありました』って訊いたの覚えてる?」

「覚えてない」

 アルコールを摂取したせいなのか、そこら辺の細かい記憶は曖昧だった。


「それならそれでいいんだけどさ」

 山口はそうドライヤーで髪の毛を乾かす。

「今日のお昼に、ここでオバサンとセックスしたんだけどさ。ジュンちゃんはそれを見抜いて発言したんだと思う。一段と肌が綺麗とか、何か良いことがあったのかなんて、ちゃんとお客さんを観察してないと出来ないことだしさ。やっぱり一流のバーテンダーは客を見る目が違うと思った」


「そうか。それはただの社交辞令だと思うけどさ、山口」

 僕はドライヤーやテレビのバラエティ番組に負けない声量で言い放つ。

「ここでセックスをしたって本当か?」


 ふとんをカーペットの床に落として、シーツのしわを伸ばすようにして、濡れている個所はないか、生臭い個所はないか、鼻水をふいた後のハンカチみたいに乾いてバリバリになっている個所はないかを点検した。異状は見受けられなかった。


「大丈夫だよ、キンさん。汚くないよ」

 呆れたようにベッドに腰を下ろして、フットレストに足を乗せる山口。

 僕は無意識に彼と距離をとっていた。


「清掃依頼の札をドアに引っ掛けて退室したから、たぶんシーツも取り換えられてるはずだよ」

 それはそれで生々しい。あまり聞きたい情報ではなかった。


「でも、オバサンの前戯が長かったから」

「もうその話はいいよ」

 僕は山口の話を遮った。童貞だからそういう話に免疫がないのだ。


 だけど、不快に感じた理由はそれだけじゃない。


 定職にも就かないで、そうやって性行為に及ぶのが嫌いなのだ。

 自分がやるのもそうだけど、他人がやるのも許せなかった。


 許せないと思っている。


 そのはずなのに陰茎は屹立していて、僕はそれに腹が立って、散歩してくると言ってから部屋を出た。なんだか山口が性欲に従順な汚物に見えてきた。だけどそれは僕も同じだ。身体は正直だった。


 街灯を頼りにホテル街を抜けて、ローソンに入店する。やる気のない店員の声が出迎えてくれた。コンビニエンスストアの24時間営業にはいつも助けられている。受験生の強い味方だ。勝手な私見だが、この店には女子高生もののアダルト雑誌が豊富に取り揃えられていると思っていた。だが、熟女もののアダルト雑誌しかなくてげんなりする。オバサンの肉付きを思い出して吐きそうになった。


 なにも買わずに退店するときも「ありがとうございました」と声を掛けられ、感謝の言葉を背にしたまま銀座駅に向かって歩いた。


 複雑な模様でペイントされた横断歩道と、いくつもある信号機を渡り終える。

 目の前には小さな店舗のファミリーマートがあった。そこの品揃えは大したことがなかったので、より駅に近いファミリーマートを目指す。


 グーグルマップを頼りに移動していると、大きめの店舗のファミリーマートがまたあった。


 ピンポンパンポンピンポン、と心地良いリズムと音階で入店音が鳴る。「いらっしゃいませ」という声は小さくて聞こえなかったが、たぶん店員はそんな言葉を発していなかったと思う。


 そこの店員はかなり態度が悪かった。こちらをじろじろと見てきて、気持ちが悪い。

 商品を選んでいるすぐ横で品出しを始めるため、非常に鬱陶しかった。


 僕はアルバイト経験がないから偉そうなことは言えないけど、接客業はお客様に気持ちよく過ごしてもらうことを優先すべきだろう。

 ここの店はなんという教育をしているのだ、全く。店長の顔が見てみたいぜ。

 そう屈み込んだ従業員のネームプレートを確認すると、『店長:○○』との表記がしてあって、「ええ、マジかよ。さっきのホテルでもそうだったけどお客様扱いをされていないな」と思った。


 まさか万引きするものだと疑われているんじゃないだろうな。勘弁してくれよ。

 僕は買い物かごにサンドイッチとハンディサイズの紙パック入り牛乳を入れた。


「ついでにオム焼きそばも入れておくか。あれだけじゃあ、山口も物足りなかっただろうし。そしたら三ツ矢サイダーも買っといてやるかな」


 そうやって謎の隠れ蓑をかごに入れたところで、本命のアダルト雑誌を見分する。女子高生ものはなかったけど、レズものの雑誌はかわいい女優が表紙を飾っていて、僕は存分に迷った挙句に購入を決意した。


 本を下敷きにして、オム焼きそば、三ツ矢サイダー、サンドイッチ、パック牛乳の順で並び替えた。

 これだけを選ぶのに、三十分程度も費やした。我ながら優柔不断だ。


 レジに通すと、さっきの態度の悪い店長がカウンターの向かいに立った。僕はファミチキを注文しようとショーケースをのぞいたけど、こいつに接客されるのは癪に障るからと、何も言わずに緑の買い物かごに視線を落とした。そこにバーコードスキャナーを握った店長の手が伸びてきて、無遠慮に商品をつかみ取っては袋詰めしていく。無骨な感じのする手の甲には毛が生えていて、いつもは何とも思わないのに、気持ちが悪いと思った。


「お弁当は温めますか?」

 僕は『お』という接頭辞を付けてくれたから、つい油断して、「はいっ!」と上ずった声を出してしまったけど、小袋のマヨネーズを親の仇みたいにべりべりと引っぺがして、お弁当の容器を電子レンジに突っ込むのを見て、生理的な嫌悪感が加速した。


 確かに商品のバーコードの位置をきっちり把握していて、スムーズにピッピッとスキャンしていく手際はすごいと思う。それは認めざるを得ない事実だ。


 例えば僕がスーパーに買い物に行ったとして、セルフレジでスキャンしていても、こんなに素早く出来ないだろうから、「ああ、やっぱりプロだな」とはなるんだろうけど、それでも無理なものは無理だし、不快なものは不快なのだ。


 他の店員さんの手の甲に毛が生えていたとしても、気には留めない。

 この人が相手だから、気になる。

 生理的な嫌悪は異性だけでなく、同性にも起こり得ることを知った。


 電子レンジのタイマーを気にしつつ、店長は商品をレジ袋に詰め終えた。レジ袋の取っ手をつかんで僕の方に寄せてくれたが、袋の面積が小さすぎて、サンドイッチが三ツ矢サイダーとパック牛乳に圧迫されていて、「うわあ、この人ないわ」と嫌な気持ちにさせられた。


 続いて、お弁当を入れる茶色い袋をガサッと広げてから、紙袋にアダルト雑誌を入れてくれる。アダルト雑誌を紙袋に入れるという配慮はしてくれるのに、その他の挙措動作が減点対象だから、なんだかんだで僕はこの人とは仲良くなれないのだった。


 電子レンジが加熱の終了をお伝えするのと同時にお弁当の容器を取り出して、オム焼きそばのふたにきちんと小袋のマヨネーズを貼り付けて、「お待たせしました」と言って、如才なく割りばしとプラスチックのフォークをサービスしてくれるけど、人間の第一印象はそう簡単に変わるわけがなく、僕はこの店長がいる限りは二度とここに来ないようにしようと思った。


 コンビニを出る。

 生ぬるい排気ガスを浴びながら道路を横断する。

 赤信号で止まって高架下に目を向けると、赤提灯を吊るした小さな居酒屋があった。そこの格子戸を入った先からは、酒飲みのバカ笑いが聞こえてきて、「こういうところでお酒が飲めるのも、大人の特権なんだな」と思った。


 だけど、うらやましいとも妬ましいとも思わない。

 大人はそれに見合うだけの苦労をしていて、だから、お酒やタバコの力を借りなければならなくて、僕たちのような未成年者はそんな大人を尊敬しなければならないのだと本気で信じていた。お疲れさま、大人のみなさま。今日は存分に飲んで笑って盛り上がって、楽しんで帰ってください。


 銀座駅の近くを通ると嘔吐物がぶちまけられていた。しかもアルコールくさい。

 全く、汚らわしいものを見せられたものだ。僕は肩を落とす。


 この土地は東京住民の中でも成功者が暮らすようなイメージがあるんだから、こんな品性のかけらも感じさせないようなやつは、どこかの成金か地方上京者(おのぼりさん)に違いない。と断定しそうになって、いやいやそれは違うだろとかぶりを振った。


 よく言われるじゃないか。

 大人は素晴らしい人間なのだと。

 だったらそんな人間が、公衆の雑踏で家畜以下の振る舞いをするなんてあり得ないだろう。


 もしもいたならばそいつは家畜以下だ。

 うん、そうでなければ子供に示しがつかない。


 ならば憲法を改正して、そういう人間は出荷してしまいましょうという法律を作ってみてはどうだと考えて、「うん、勉強のしすぎで頭がおかしくなったようだ」と高層ビルを眺める。僕はそんなサイコパスのような人間ではないし、もしもサイコパスだったとしても、司法試験を受験するのであれば面接試験もあったはずだから、そういった危険思想は腹の下に隠して決して表層に出してはならない。


 僕の独白を聞いていたのはもちろん僕だけだから、だれも僕が猟奇的な人間だとは思わないだろうが、無意識下であってもそんなことを考えていてはダメだ。いずれバレることになる。

 テストの模範解答だけを暗記しても、中身をほとんど理解していなければ応用が利かないように、舌先三寸だけでは胸三寸まではごまかせないのだ。


 それならばユングやフロイトの精神分析も勉強して、いかに模範的な人間に擬態するかも考えなければならないなと今後の課題を洗い出す。模範的な人間になるという発想は僕にはそもそもなかった。擬態で十分だ。


 どうせ模範的な人間なんてこの世には存在しないんだ。


 もしかしたら僕が人類史上で最も模範的な人間かもしれないが、世間にもそう認めさせるためには、あらかじめテストされる内容を知って対策して、高得点を取るべくしてとる必要があった。


 そんなことを考えながら、ビジネスホテルの荘厳な扉を通り抜けて、受付嬢に無視されたままエレベーターの呼び出しボタンを押す。反応がない。あれ? と首をかしげてから、すぐにその原因に思い至った。これはカードキーがないと反応しないタイプなのかもしれない。


 もしもそうだとすると、ただでさえお客様だと思われていないのに、余計に怪しまれることになってしまう。僕はスマートフォンを取り出して山口に電話をかけようとしたが、後から来た他の客もエレベーターに乗るようだったので、一緒に乗せてもらうことにした。


 狭いカゴの中で「何階に行かれますか」と訊かれたので、僕はそのフロア番号も押してもらった。

 この人は営業マンのようで、ピシッとしたフォーマルスーツを着ていた。整髪料の匂いをむんむんと漂わせ、髪の毛はテカテカと光っていた。胸ポケットからちらりとのぞかせたハンカチーフが格好いい。


「着きましたよ」

 彼はそう『開』のボタンを押しつつ、片手で扉を押さえてくれた。


 僕は「ありがとうございます」とお礼を言ってから、やっぱり大人の余裕がある人ってこういう人だよなと改めて思う。ここのビジネスホテルの受付嬢やコンビニエンスストアの店員さんみたいな無機質な感じの対応よりも、こうやって損得勘定の働かないところで思いやりを見せられるかどうかが、良い大人と悪い大人の差なんじゃないかなと勝手に値踏みする。


 部屋の前に立ってから部屋をノックすると、よく確かめもせずに山口がドアを開けてくれた。

「遅かったじゃん。どこ行ってたのさ、キンさん!」

「ああ、悪いな。エロ本買いに行ってた」

「そうなの。もう少しで寝ちゃうとこだったよ」


 僕はベッドの上でコンビニ袋をガサゴソしてからオム焼きそばをデスクに置いた。そしてキャスター付きのキャビネットには、三ツ矢サイダー、サンドイッチ、パック牛乳の袋をそのまま置く。エロ本の入った紙袋はビリビリに破いてごみ箱に捨てた。


「おっ! さっそく読ませていただきます!」

 山口はオム焼きそばよりもまずエロ本に飛びついた。


「子供かよ、全く」とそれを買った当事者である僕はオム焼きそばのラッピングを剥がして、小袋マヨネーズをかけた。そのときについ幼少期の癖で、絵だったり文字だったりを作ろうとしてしまって、「はあ、俺も人のこと言えねー」と自己嫌悪に陥った。


 半分ほど食べてから、後は山口の分として取っておこうとふたを閉めた。山口はトイレに行ってくると席を立った。


「ふむふむ。それでは俺もエロ本を読むかなー」


 アダルト雑誌のページは開きっぱなしのままでベッドに放置されている。まずはそこからのぞき込むと、裸の女子同士がアソコを触り合いながら濃厚に舌を絡めている写真が載っていて、僕は思わず目を覆ってしまった。指の隙間からチラッとのぞいてまた顔を背ける。

 鼻息は荒くなり、股間が熱く、そして硬くなった。


「これは禁断の魔術書だ」と言いつつも、ページをめくる手が止まらない。

 その度に、「ああっ!」とか「ううむ」とか声が漏れ出て、「ほうほう」と自分を落ち着かせているつもりが性欲が抑えきれなくなって、「あーもう、早くトイレから出てくれよ」と山口にテレパシーを送った。

 しばらくしてから流水音が聞こえてきて、僕はバスローブ姿の山口と入れ替わるようにしてトイレに入った。


 まずは便座をよく拭いてから洋式便器に腰掛ける。

 自分なりにインパクトのあった写真を思い出しつつ左手を前後に動かすが、粘性の透明な液体がちょっとずつ出てくるだけで、射精するには程遠い。このまま続けたら下半身が疲弊するだけでなんのメリットもないと判断し、エロ本を取ってくることに決めた。


 だけどパンツとズボンを律儀に穿くのもおかしな気がして、僕は恥部を丸出しにしたままベッドに向かった。山口はギンギンに屹立した陰部を見て、「はああ?」と呆れた声を上げたが、顔は笑いを堪えきれていなくて、僕は思わず、「わっはっは。こんなもので笑うとはお主もまだまだ子どもよのう」と時代がかったセリフを吐いてトイレに戻った。


 なんだかんだで僕の性癖とアダルト雑誌の相性は悪かったようで、射精するまでに五分くらいかかった。

 それよりも最悪だったのは、左手でしごきつつ、右手でアダルト雑誌を持ち上げていたのだが、途中で疲れてきて便器のフチに本を置いたときに逝ってしまったせいで、写真の一部分が精液で汚れてしまったことだった。


 これにはもうため息を吐くしかない。


「そういうわけでこの本は捨てるつもりだけど、山口はほしいか?」

 一応念のために訊いてみると、

「あはは、キンさんらしいね。俺は間に合ってるからいいよ」と返された。


「まあ、それもそうだな」

 僕はそう言ってゴミ箱に汚れた雑誌を放り込んでから、

「それじゃあ、シャワー浴びたら寝るわ!」

 そう山口に告げる。彼はベッドの中で「うん」と小さく目を閉じた。


 熱いシャワーを浴びていると、皮膚の汚れだけではなくて、心のもやもやとした汚い感情までもが洗い落とされているように感じた。シャンプーやボディーソープの泡が排水溝の辺りでふわふわ浮かんでいて、これが消える頃には僕の悩みも一緒に消えてくれればいいのにな。なんて、非現実的な世界にいながらにして、もうすでに明日の現実的な世界に意識は向いていた。


 ああ、今日は楽しかったな。

 初体験のことばかりで心が躍った。

 明日からはまた勉強漬けの毎日か……。

 そうバスタオルで身体を拭いてからバスローブに身を包む。


 浴槽から出ると部屋の電気は消えていて、電気スタンドの明かりだけが頼りだった。

 僕は物音を立てないようにしてこっそりとベッドに入る。マットレスは大きく軋んだけど、山口は起きなかった。


 彼はお寿司の具材みたいにふとんにくるまっているから、僕は冷房の温度を少しだけ上げて、何も掛けずにそのまま眠ることにした。

 枕元のスマートフォンでTOEIC対策用の英単語を流しながら、いつもとは違うベッドのスプリングに身を委ねる。


 僕はずっと大学に行くことが当たり前だと思っていた。

 それこそ駅のホームで人の波が謎の規律性を保って進行していくように、僕は工場で流れ作業をしているみたいな気分になって何も考えてはいなかったのだ。


 だからこそ思いもよらない選択肢がいっぱいあることに今更になって気付かされた。

 進学以外にもいろんな道がある。職業だってそれこそたくさんある。


 僕は国立大学の法学部に入学するつもりだけど、でも、それだけに固執してしまうのはきっと間違いだ。

 どんな職業の人間であれ、どんな学歴の人間であれ、みんな楽しそうに人生を謳歌していた。


 だから僕も、僕という古い人格から脱皮して、自分だけの道を探してみようと思う。

 勉強は続けるけど、司法試験ばかりではなく、全体を俯瞰してみて、それが自分に合っていると思ったら全力を傾倒しよう。それからでも遅くはないはずだ。



 朝日を浴びて目覚めると、山口はバイトのシフトが入ったからと先にホテルを出て行ってしまった。

 僕はゆっくりと着替えを済ませて、スキンケアの保湿美容液の長いCMを聞き流しながら、ビジネスホテルをチェックアウトした。


 東京の街並みは、こんな時間からでも忙しく自動車が行き交っていた。

 僕は大きく息を吸い込んでから、世界史の語呂合わせをイヤフォンで流す。

 ミンミンと口ずさむと自然と心が軽くなった気がした。


 セミは1週間しか生きられないと言われているが、僕の細胞だって1週間後にはほとんど入れ替わるのだ。

 そう先程の保湿美容液のCMの内容を思い出す。あんな短時間でも意外と記憶に残っているものだ。


 表皮、角膜、上皮組織、造血組織、リンパ組織などは、その頃には完全に刷新されているはずだから、もしも地に足をつけてミンミンと喚き散らす僕がいたら、それは今の僕ではなくて生まれ変わった僕なのだ。


 いつかの僕は思った。

「セミになりたい」「余命が1週間ならば、まだ生きたいと思える」と。

 どうやらそれは叶う夢だったようだ。


 人体は、1日で1兆個もの細胞を入れ替えているという。

 人体の細胞は約60兆個だから、理論上、2か月後には本当に別人になっているというわけだ。

 そう考えたらどうだろう。

 過去の失敗も現在では笑い話に出来るのではないだろうか。

 まるで別人が犯したあやまちのように思える日が来るのではないだろうか。


 だったら今を、精一杯に生きよう。

 2か月後には死ぬんだから未来のことばかり考えていても仕方がない。


 必死に悩んで考えて苦しもう。


 2か月後に僕は死ぬけど、その代わりに新しい僕が誕生するのだから。

 新しい僕のために、僕は、今を全力でミンミン鳴き続けよう。


 銀座駅の近くを通りかかると、昨夜の嘔吐物がなくなっていた。

 どうやらこの街は夜明けとともに生まれ変わっていたらしい。

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