開けてはいけない押入れ
古い木の匂いが染み付いた日本家屋の押入れには、時に人知を超えた何かが潜んでいる。
## プロローグ
雨の音が障子を叩く夜、私は祖母の遺品整理のために実家に戻っていた。広い家の中で、かつては家族の笑い声が響いていたはずなのに、今は雨音だけが虚ろに響いている。木造の廊下を歩くと、年季の入った床板がきしむ音が辺りに広がった。
「開けちゃいけないよ、あの押入れは」
私が小さかった頃、祖母はよくそう言っていた。二階の一番奥の部屋にある押入れのことだ。なぜ開けてはいけないのか、祖母は決して理由を語らなかった。子供心に好奇心はあったが、祖母の真剣な表情に怖気づいて、私は一度もその押入れに手を触れることはなかった。
それから二十年、祖母は先月、九十二歳でこの世を去った。遺言で家は私が相続することになった。東京の狭いアパートを引き払い、この古い家で暮らすことになったのだ。
荷物を運び込む途中、二階の奥の部屋の前で足を止めた。幼い頃の記憶が蘇る。開けてはいけないという押入れのある部屋だ。廊下の電球がちらつき、一瞬だけ闇に包まれた。古い家の電気系統は不安定なのだろう。私は深呼吸して障子を開けた。
部屋の中は予想通り、埃と古い畳の匂いに満ちていた。そして正面に、あの押入れがある。祖母の言葉が耳元で蘇る。「開けちゃいけないよ」
私は部屋の中央に立ち、押入れを見つめた。単なる古い押入れに見える。しかし、なぜか空気が重く感じる。幼い頃の恐怖心が蘇ってきたのだろうか。理性で考えれば、祖母はきっと大切なものをしまっておきたかっただけなのだろう。あるいは、単に子供を危険から遠ざけるための言い伝えだったのかもしれない。
しかし、その時、聞こえた。かすかな、本当にかすかな音が、押入れの中から。
「…戻って…きたのね…」
私は凍りついた。声ではない、そう自分に言い聞かせた。古い家の軋む音だ。それ以上何も考えたくなくて、慌てて部屋を出た。
その夜から、私と押入れの奇妙な関係が始まった。
## 第一章
翌朝、目を覚ますと雨は上がっていた。窓から差し込む朝日が部屋を明るく照らし、昨夜感じた不安は嘘のように消えていた。私は伸びをして立ち上がり、家の中を歩き回った。
この家で過ごした幼少期の記憶が次々と蘇る。祖父が庭で手入れをしていた盆栽、祖母が台所で作ってくれた煮物の匂い、夏の夕暮れに縁側で食べた西瓜。懐かしい記憶に浸りながら、私は二階への階段を上った。
奥の部屋の前で足を止める。昨夜、押入れから聞こえたような気がした音。あれは疲れからの幻聴だったのだろうか。日光の下では全てが現実的に思える。私は扉を開け、部屋に足を踏み入れた。
日差しが障子を通して部屋を優しく照らしている。押入れは普通の押入れに見えた。私は近づき、おそるおそる手を伸ばした。襖に手をかけたとき、突然電話が鳴り、私は飛び上がるほど驚いた。
「もしもし、斎藤です」
「あら、戻ってきてたの?聞いてなかったわ」
電話の向こうは、隣家に住む田中さんだった。祖母の古くからの友人で、私が子供の頃によく世話になった。
「お祖母さんのことは本当に残念だったわね。何かあったら言ってね、すぐに駆けつけるから」
「ありがとうございます。実は家の整理をしていて…」
私は会話の途中で、ふと気になることを思い出した。
「田中さん、二階の奥の部屋の押入れのこと、何か聞いていますか?祖母がいつも開けるなと言っていたんですが」
電話の向こうで一瞬の沈黙があった。
「あぁ、あの押入れね…」田中さんの声が少し暗くなった。「詳しいことは私も知らないのよ。ただ、お祖母さんはあの押入れには触れないようにって、よく言ってたわね。家の中でも特別な場所だって」
「何か入っているんですか?」
「さあ…」田中さんは言葉を選ぶように話した。「でも、あなたのお祖母さんは理由もなく心配するような人じゃなかったでしょう?何か理由があったのよ、きっと」
会話を終えた後も、田中さんの言葉が頭から離れなかった。祖母は確かに迷信深い面はあったが、合理的な人だった。なぜあの押入れだけを特別視していたのだろう。
午後、私は祖母の部屋で遺品の整理を始めた。着物や思い出の品々を丁寧に片付けていると、古い桐箱を見つけた。開けてみると、中には古ぼけた日記帳と数枚の写真が入っていた。
日記は祖母が若かった頃のもので、結婚して間もない時期の日常が記されていた。何気なく読み進めていると、あるページで目が止まった。
「今日も、あの音がする。押入れの中から。夫には言えない。私の気のせいだと笑われるだけだろう。でも、確かに誰かが中にいるような…」
私の背筋に冷たいものが走った。そのページの日付は、祖父が他界する半年前のものだった。めくるページごとに、祖母の不安は増していくようだった。
「夫が亡くなって以来、押入れの音は大きくなった。夜になると、かすかな声さえ聞こえる気がする。『出してほしい』と言っているようだ。でも私には、その声が誰のものなのか分からない。押入れを開けるべきではない。決して…」
最後のページには、震える文字でこう書かれていた。
「孫娘には決して言えない。あの子に恐怖を与えたくない。ただ、押入れだけは開けないように言い聞かせなければ。中にいるものを解放してはいけない…」
日記を閉じると、部屋の空気が一段と重く感じられた。窓の外では、日が傾き始めていた。祖母は何を恐れていたのだろう。幻覚か、それとも本当に何かがあるのか。
その夜、私は眠れなかった。二階から聞こえるかすかな音に耳を澄ませていた。押入れの襖がゆっくりと開く音、そして閉まる音。でも、それは風かもしれない。古い家の軋みかもしれない。
しかし深夜、確かに聞こえた。かすかな、しかし明確な囁き声が。
「…会いたかった…」
## 第二章
朝になると、夜の恐怖は薄れていた。理性が戻ってくる。私は自分を納得させようとした。古い家には音がつきものだ。押入れから聞こえると思った声は、きっと外の風や近所の音だろう。祖母の日記も、高齢による妄想だったのかもしれない。
だが、心のどこかでは確信があった。この家には何かがいる。押入れの中に。
「斎藤さん、大丈夫?顔色が悪いわよ」
昼過ぎ、田中さんが差し入れを持ってきてくれた。私は無理に笑顔を作った。
「ええ、ちょっと寝不足で…」
「この家で一人は寂しいでしょう?何か怖いことでもあった?」
田中さんの直感は鋭かった。私は祖母の日記のことを話した。田中さんは黙って聞いていたが、その表情に浮かんだ影を見逃さなかった。
「何か知っていますか?」私は尋ねた。
田中さんはため息をついた。「昔から、この家には噂があったのよ」
田中さんによれば、私の祖父母がこの家を買ったとき、前の住人は突然姿を消したという。町の人々は、家に取り憑いた何かが彼らを追い出したのではないかと噂した。特に、二階の奥の部屋には近づかないようにと言い伝えられていた。
「でも、それは単なる噂よ」田中さんは急いで付け加えた。「お祖父さんとお祖母さんは、そんな迷信に負けない強い人たちだった。だから長年ここで幸せに暮らせたのよ」
田中さんが帰った後、私は再び二階の奥の部屋へと向かった。日中の光の下で、押入れはただの古い収納スペースに見えた。しかし、日記に書かれた祖母の恐怖と、田中さんの話は私の心に重くのしかかっていた。
私は決意した。押入れを開けて、中を確認してみよう。もし何もなければ、それで安心できる。もし何かあれば…それはその時考えればいい。
ゆっくりと襖に手をかけた。手が震えている。深呼吸して、勢いよく開けた。
中は空っぽだった。古い布団が一組、上の棚には箱が数個。ごく普通の押入れだ。安堵のため息が漏れた。
しかし、よく見ると、押入れの奥の壁に何かの跡がある。手を伸ばして触れてみると、壁の一部が動いた。隠し扉?私は恐る恐る押してみた。カチッという小さな音と共に、壁の一部がわずかに開いた。
その隙間から、冷たい空気が漏れ出てきた。部屋の温度が一気に下がったような気がした。隙間は暗く、何が見えるわけでもない。しかし、確かに「何か」を感じる。私が手を伸ばそうとしたとき、突然電話が鳴り、私は飛び上がった。
電話に出ると、東京の友人からだった。他愛もない会話をしながらも、私の意識は二階の押入れに向かっていた。通話を終えると、すぐに二階へ戻った。
押入れの隠し扉は、さっきよりも大きく開いていた。私がそこに触れていないのに。
恐怖で足がすくんだ。部屋を出て、扉を閉めようとした瞬間、かすかな声が聞こえた。
「…帰らないで…」
その夜、私は眠れなかった。風の音が家全体を包み、時折二階から物音がした。まるで誰かが歩いているかのような音。私は布団の中で震えながら、夜明けを待った。
翌朝、私は町の図書館へ向かった。この家や地域の歴史について調べたかったのだ。地元の歴史書や古い新聞のアーカイブを調べていると、50年前の記事を見つけた。
「○○町で謎の失踪事件。4人家族が忽然と姿を消す」
記事によれば、この家に住んでいた一家が突然姿を消したという。残されていたのは、散らかった部屋と、二階の押入れに描かれた奇妙な印だけだった。警察は誘拐や家出の線で捜査したが、結局行方は分からずじまいだったという。
記事を読みながら、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。これが田中さんの言っていた「噂」の元だったのか。そして、祖父母がこの家を安く買えた理由も分かった気がした。
図書館の司書に、その事件についてもっと詳しく知りたいと尋ねると、彼女は古い町史を持ってきてくれた。そこには、この地域に伝わる言い伝えが記されていた。
「旧街道沿いの民家には、時に『隙間』が生じることがある。現世と異界の間の隙間だ。そこから漏れ出た者は、人の姿を借りて人々の間に紛れ込む。しかし、その正体を見破られると、元の場所に戻ろうとする。隙間は閉じなければならない。開けば、向こう側から何かが出てくる…」
民話のような内容だったが、私の背筋は凍りついた。祖母の日記、田中さんの話、そして図書館で見つけた記事。全てがつながった気がした。
家に戻ると、すでに日は傾いていた。玄関を開けた瞬間、異様な静けさに包まれていることに気づいた。風の音も、鳥の声も聞こえない。まるで世界から切り離されたかのようだった。
そして、二階から聞こえた。カタン、カタンという音。誰かが歩いている。
## 第三章
私は恐怖で足がすくんだ。二階から聞こえる足音は、幻聴ではない。確かに誰かがいる。警察に電話すべきか、それとも逃げるべきか。しかし、好奇心と恐怖が入り混じった奇妙な感情が、私の足を玄関から離れさせなかった。
ゆっくりと階段を上り始めた。一段、また一段。木の軋む音が静寂を破る。二階に着くと、足音は止んでいた。廊下の先、奥の部屋のドアがわずかに開いている。
震える手で懐中電灯を握りしめ、私は部屋に向かって歩いた。ドアを押し開けると、部屋は暗く、窓からわずかに差し込む夕日の光だけが空間を照らしていた。
そして、押入れの襖が開いていた。中の隠し扉も、さらに大きく開いている。暗闇の中、何かが動いたような気がした。
「誰…かいますか?」私の声は震えていた。
返事はなかった。しかし、押入れの中から、かすかな呼吸音が聞こえる気がした。私は懐中電灯を向けた。光が隠し扉の向こうを照らすと、そこには…何もなかった。ただの壁だった。
安心したのもつかの間、壁の表面がわずかに波打つように動いた。まるで何かが壁の向こうから押しているかのように。私は思わず後ずさった。
その時、背後から声がした。
「開けちゃいけないって言ったでしょ」
振り返ると、そこには老婆が立っていた。祖母によく似ているが、祖母ではない。より古い、より暗い何かを感じさせる姿だった。
「あ、あなたは誰…?」
「私はこの家を見守ってきた者よ。あの押入れは開けちゃいけないの。あなたのお祖母さんも知っていた」
老婆は近づいてきた。その足音は、先ほど聞いた音と同じだった。
「あの向こうには、別の世界があるの。昔、この家に住んでいた家族は、好奇心から隠し扉を開けてしまった。そして、向こう側に引きずり込まれた…」
老婆の話によれば、この家は「境界」の上に建っているという。現世と異界の間の薄い場所だ。昔の人々はそれを知っていて、結界を張って異界と現世を隔てていた。その結界の中心が、押入れの隠し扉だった。
「でも、あなたのお祖父さんとお祖母さんが引っ越してきたとき、すでに結界は弱まっていた。お祖母さんは気づいていたわ。押入れの向こうに何かがいることに」
「祖母の日記…」私は呟いた。
「そう、彼女は知っていた。でも、あなたを守るために黙っていたのよ」
「では、祖母が亡くなった今…」
「結界はさらに弱まっている。もうすぐ、向こう側のものが出てこようとしている」
老婆の言葉に、私は震えた。非現実的な話だが、これまでの出来事を考えると、全て繋がってしまう。
「どうすれば…」
「結界を強化しなければならない。でも、そのためには…」
老婆は言葉を切った。その目が、悲しみに満ちていた。
「犠牲が必要なの」
その夜、私は老婆の話を反芻しながら、何をすべきか考えた。老婆の言う「犠牲」とは何なのか。自分の命なのか、それとも他の何かなのか。
翌朝、目を覚ますと、老婆の姿はなかった。夢だったのだろうか。しかし、部屋の隅に置かれた古い箱は、確かに昨夜老婆が持ってきたものだった。「結界を強化するための道具」と言っていた。
箱を開けると、中には古びた和紙と、奇妙な形の小刀、そして赤い糸が入っていた。和紙には、複雑な印が描かれていた。老婆の説明によれば、この印を押入れの周りに貼り、赤い糸で結ぶことで、一時的に結界を強化できるという。
「でも、本当の解決にはならない。結界を完全に閉じるには、もっと強力な力が必要だ」と老婆は言っていた。
迷いながらも、私は準備を始めた。午後、田中さんが再び訪ねてきた。
「どう?慣れてきた?」
「ええ、まあ…」私は曖昧に答えた。
田中さんは私の様子を見て、心配そうな表情を浮かべた。
「何かあったの?顔色が悪いわよ」
私は迷った末、これまでの出来事を話した。押入れの隠し扉、老婆の話、そして結界のこと。話し終えると、田中さんの表情が変わった。
「その老婆…どんな姿だった?」
「祖母に似ていましたが、もっと古い感じの…」
「髪は?」
「白髪で、後ろで結っていて…」
田中さんの顔から血の気が引いた。
「その老婆は信じちゃいけないわ。彼女こそが、押入れの向こう側から来たものよ」
田中さんの話によれば、五十年前の失踪事件の直前、町では白髪の老婆の目撃情報が相次いだという。そして、その家族が消えた後、老婆の姿も見られなくなった。
「彼女はあなたを騙して、結界を壊そうとしているのかもしれない」
私は混乱した。誰を信じればいいのか。老婆か、田中さんか。
田中さんは続けた。「私の祖母から聞いた話だけど、その結界を本当に強化するには、『犠牲』ではなく、『守るもの』が必要なの。あなたが本当に大切にしているものを、心を込めて捧げること」
田中さんが帰った後、私はさらに混乱していた。しかし、一つだけ確かなことがあった。押入れの向こう側に何かがいて、それが出てこようとしていること。そして、私がそれを止めなければならないこと。
夕暮れ時、私は決断した。老婆の言葉も、田中さんの言葉も、どちらも信じるべきか判断できない。だが、自分の目で確かめる必要がある。押入れの向こう側に何があるのか、自分の目で見なければならない。
暗くなってから、私は二階の奥の部屋へと向かった。押入れの襖を開け、隠し扉に手をかけた。扉はかつてないほど簡単に開いた。中は暗闇だったが、かすかな光が見える。まるで遠くの出口を示すかのような光だ。
深呼吸して、私は隠し扉の向こう側へと一歩踏み出した。
## 第四章
隠し扉の向こう側は、想像していたものとは全く違っていた。暗闇ではなく、薄暗い通路が続いていた。壁は木でできているようだが、どこか現実離れした質感を持っていた。まるで水中にいるような、ゆらめきを感じる。
通路を進むと、次第に広い空間に出た。そこは奇妙な部屋だった。私の家の二階の部屋にそっくりだが、全てが逆さまになっている。天井が床になり、床が天井になっているのだ。家具も全て逆さまに設置されていた。
最も奇妙なのは、部屋の中央に立つ人影だった。それは…私自身だった。しかし、鏡像のようではなく、実体を持った別の私が立っていた。その「私」は、こちらを見ると微笑んだ。
「やっと来てくれたね」その声は私の声そのものだった。「長い間待っていたよ」
私は言葉を失った。これが幻覚なのか、それとも本当に異界なのか判断できない。
「怖がらないで」もう一人の私が言った。「私はあなたの一部。この世界に閉じ込められていた一部なんだ」
もう一人の私の説明によれば、この場所は「鏡の世界」と呼ばれる空間だという。現実世界の反映であり、全ての人や物には、ここに対応するものがある。しかし、通常は両世界は隔離されている。
「でも、この家は特別なんだ。二つの世界が交わる場所。だから、時々扉が開く」
「あなたは…本当に私なの?」私は震える声で尋ねた。
「そう、あなたの反映。でも、長い間ここに閉じ込められていたから、少し変わってしまったかもしれない」
もう一人の私が近づいてきた。その動きには、どこか不自然さがあった。まるで人間の動きを模倣しているかのような。
「一緒に暮らそう。あなたの世界で。もう一人になりたくない」
その言葉に、私は恐怖を感じた。これが老婆の言っていた「向こう側のもの」なのか。田中さんの警告が頭をよぎる。
「でも、あなたがこちらの世界に来たら…私の世界はどうなるの?」
「心配しないで。二人で一つになればいい。私たちは元々一つだったんだから」
その瞬間、もう一人の私の姿がちらついた。一瞬、人間ではない何かの姿が見えたような気がした。歪んだ、長い手足を持つ影のような存在。
私は後ずさった。「あなたは私じゃない」
「違う、私たちは一つなんだ」もう一人の私の声が変わり始めた。より低く、より古い響きを持つ声になっていく。「あなたが来てくれたことで、私はついに自由になれる」
恐怖に震えながら、私は入ってきた通路に向かって走り出した。背後から「待って!」という叫び声が聞こえた。振り返ると、もう一人の私の姿が崩れ始めていた。人間の形を保てなくなり、黒い霧のような形に変わっていく。
「逃げられない!」霧が叫んだ。「五十年前の家族も逃げられなかった!」
通路を走り抜け、必死に隠し扉を探した。背後から迫る黒い霧の気配。ようやく扉を見つけ、手をかけた瞬間、何かが私の足首を掴んだ。
振り返ると、霧の中から無数の手が伸びていた。白い、骨のような手だ。
「一緒に来て…」霧の中から複数の声が聞こえた。「寂しいから…」
恐怖と絶望の中、私は祖母の言葉を思い出した。「開けちゃいけないよ、あの押入れは」。そして田中さんの言葉。「守るものが必要」
私は懐から祖母の形見の小さな写真立てを取り出した。中には祖母と私が笑顔で写った写真が入っている。最も大切なもの。私はそれを強く握りしめた。
「祖母、助けて」
突然、写真立てが温かくなった。光を放ち始める。その光は、私を掴む手を焼き付けるように消していった。霧が悲鳴を上げる。
「帰れ!ここはあなたの場所じゃない!」私は叫んだ。
光が強くなり、私は目を閉じた。耳をつんざくような悲鳴と共に、足首を掴んでいた手が消えた。
目を開けると、私は押入れの中にいた。隠し扉は閉じ、表面には何かの印が浮かび上がっていた。祖母の写真立ては、まだ私の手の中で温かい。
震える足で部屋を出ると、階段の下で田中さんが立っていた。
「大丈夫?何があったの?」
私は全てを話した。田中さんは黙って聞いていたが、その目には安堵の色が浮かんでいた。
「あなたが正しい選択をしたのね。『守るもの』を見つけて」
その夜、私は祖母の日記を再び読んだ。最後のページの後に、一枚の紙が挟まれていた。そこには祖母の筆跡で、こう書かれていた。
「もし、押入れを開けてしまったら。最も大切なものを思い出して。愛する者との絆は、どんな闇よりも強い」
涙がこぼれた。祖母は知っていたのだ。いつか私がこの状況に直面することを。そして、その準備をしてくれていた。
窓の外を見ると、満月が明るく輝いていた。今夜は、長い間ぶりに安らかに眠れそうだった。
## 第五章
一週間が過ぎた。押入れの隠し扉は、あの夜以来動く気配を見せていない。田中さんは毎日のように訪ねてきて、私の様子を気にかけてくれた。彼女の話によれば、町の長老たちは代々この家の秘密を知っていたという。そして、隠し扉の向こう側にいるものから町を守るために、特別な家系が選ばれていた。
「あなたのお祖母さんも、その役目を受け継いだ一人だったのよ」
祖母が生前、特に病気もなく突然亡くなったことも、そのためだったのかもしれない。祖母は最後まで、隠し扉の向こう側にいるものと戦っていたのだ。
「でも、もう大丈夫よ」田中さんは微笑んだ。「あなたが結界を強化した。少なくとも、あなたの代では問題ないでしょう」
その言葉に、私は複雑な感情を抱いた。安心と同時に、重い責任感も。そして、まだ解決していない謎もある。五十年前に失踪した家族は、本当に向こう側に連れて行かれたのか。そして、老婆の正体は。
数日後、図書館で古い新聞記事を探していると、興味深い発見があった。五十年前の失踪事件の数カ月後、近隣の町で不可解な出来事があったという記事だ。
「身元不明の家族が現れる。記憶喪失の状態で発見」
記事には写真が添えられていた。その家族は、まさに失踪したとされる家族に似ていた。しかし、何か違和感がある。特に、母親とされる女性の目には、人間離れした冷たさが感じられた。
記事によれば、その家族はしばらく町で暮らしたが、突然また姿を消したという。行方は分からずじまいだった。
私はこの記事のコピーを持ち帰り、田中さんに見せた。彼女は長い間黙って見つめていた。
「これが本当の彼らなのか、それとも…」田中さんは言葉を選んでいるようだった。「向こう側から来たものが彼らの姿を借りたのか、それは分からないわ」
私たちは静かに茶を飲みながら、この不思議な出来事について考えた。田中さんが帰った後、私は再び押入れのある部屋に向かった。今は恐怖よりも、好奇心が勝っていた。
押入れを開け、隠し扉を見つめた。表面の印は薄れていたが、まだかすかに見える。私はそっと手を置いた。冷たいが、以前のような異様な感覚はない。ただの壁のように感じられた。
その夜、私は奇妙な夢を見た。白髪の老婆が私の前に立ち、微笑んでいる。彼女は祖母にそっくりだったが、どこか異質な雰囲気を持っていた。
「あなたは正しい選択をした」老婆は言った。「だが、これは終わりではない。始まりなのだ」
「あなたは誰?」夢の中で、私は尋ねた。
「私は境界の守護者。あなたの祖母が私の役目を引き継ぎ、そして今、あなたがその役目を受け継いだ」
「向こう側のものは…」
「常に出ようとしている。そして時々、成功する。だが、それを完全に止めることはできない。両世界のバランスのためには、時に交流が必要なのだ」
老婆は私に近づき、手を差し出した。
「受け入れるか?守護者としての役目を」
私は迷った。これは単なる夢なのか、それとも現実の一部なのか。しかし、心の奥底では答えを知っていた。この家に戻ってきたとき、すでに運命は決まっていたのだ。
「受け入れます」私は老婆の手を取った。
老婆は満足げに微笑んだ。「良い選択だ。だが覚えておくがいい。守るためには、時に犠牲が必要になる。あなたの祖母のように」
その言葉とともに、老婆の姿が消え、私は目を覚ました。朝日が部屋を明るく照らしていた。夢の余韻が残る中、私は窓辺に立ち、庭を見下ろした。
庭には、一人の少女が立っていた。見覚えのない子だが、どこか懐かしさを感じる。少女は家を見上げ、私と目が合うと微笑んだ。そして、小さく手を振ると、塀の向こうに消えていった。
その日から、私の新しい生活が始まった。この家で、押入れの隠し扉を見守り、時に向こう側からやってくる存在と対話する日々。それは時に恐ろしく、時に不思議で、しかし確かに私の運命だった。
祖母の日記を読み返すと、新たな意味が見えてくる。彼女も同じ道を歩んだのだ。恐怖と共に生き、しかし決して逃げなかった。私も同じように、この役目を全うしようと思った。
町の人々は私を温かく迎え入れてくれた。特に田中さんは、私の新しい役割を理解し、支えてくれた。彼女もまた、この秘密を守る一人だったのだろう。
時々、夜中に押入れから物音がする。かすかな囁き声や、時に泣き声。しかし、もう恐れはない。それは私の守るべきものの一部なのだから。
「開けてはいけない」という警告は、実は「無闇に開けてはいけない」という意味だったのだ。適切な時に、適切な準備をして向き合えば、恐るべきものではない。それが、私が学んだ真実だった。
## エピローグ
五年が過ぎた。私はすっかりこの町に溶け込み、古い家での生活にも慣れた。押入れの隠し扉は、今では私の日常の一部となっている。時々、向こう側から訪問者がある。彼らは皆、人間の姿を借りているが、その正体は様々だ。
多くは無害で、ただこちらの世界を覗きに来るだけ。中には、こちらの世界に残りたいと願うものもいる。そんな時は、厳しく断らなければならない。両世界のバランスを崩すことは許されないからだ。
田中さんは昨年、静かに息を引き取った。彼女の孫娘が隣家に住むようになり、私を支えてくれている。秘密は代々受け継がれていく。
ある秋の日、庭で落ち葉を掃いていると、あの少女が再び現れた。五年前と同じ姿のまま、年を取っていない。
「またお会いできましたね」少女は微笑んだ。
「あなたは…向こう側の人?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」少女は曖昧に答えた。「私は境界そのものよ」
少女の正体は、両世界の間に存在する意識のようなものだった。彼女は時々、人間の姿を借りてこちらの世界を訪れるという。
「あなたが守護者になって、両世界は安定しています」少女は言った。「でも、永遠ではありません。いつか、あなたも後継者を見つけなければならない」
「祖母のように…」私は呟いた。
「そう、すべては循環しているのです」
少女は不思議な笑みを浮かべると、再び塀の向こうに消えていった。その姿を見送りながら、私は考えた。この役目は、時に孤独で、時に恐ろしい。しかし、二つの世界の均衡を保つ重要な使命なのだ。
押入れの隠し扉は今日も静かに閉じられている。その向こうには、私たちの知らない世界が広がっている。開けるべきではない時もあれば、開かなければならない時もある。その判断こそが、守護者としての私の責務なのだ。
窓から差し込む夕日が部屋を赤く染める中、私は押入れに向かって静かに頭を下げた。「今日も平穏な一日をありがとう」
外では風が木々を揺らし、かすかな囁きのような音を立てている。それは単なる風の音か、それとも向こう側からのメッセージか。
もはや、恐れる必要はない。私はこの家の主であり、押入れの守護者なのだから。