『夢遥か』伍ノ章 新世開闢①
① 栄華沙夜
住良宮、忌の間。
自分たち一行が和泉国・日根の村を出て四日後、京に到着した。京は確かに活気に溢れており、人通りも多かったが、沙夜は大路沿いに並ぶ露店や旅籠の軒先を注意深く観察するうち、帝の坐し存すこの地にも、国土の荒廃の暗い影は確かに降りている事を感じていた。
路傍の見えにくい場所に、みすぼらしい身形の乞食や浮浪児が身を屈めるようにして座っているのを見た。思えば羅生門を通過した時、腐れた肉のような異臭が鼻を掠めたような気がし、また甍の上に鴉がびっしりと留まっていたが、あれは高楼の上に死体が遺棄されていた為ではないだろうか。
(私はやっぱり、巫女として天照を復活させなきゃいけないんだ)
沙夜はその決意を新たにした。
自分が形身としてこの肉体を天照に捧げ、復活した女神が大地を寿ぐ時、百鬼連の横行によって毒された日出は再生する。自分は生まれた時から天津神の意志によって巫女に──形身に選ばれ、今日まで生きてきた。
その艱難が今、実を結ぼうとしている──。
「よくぞ参ったな、栄華公修成の女。新世の巫女、理化す少女沙夜」
御簾の陰から姿を現した天官は言った。沙夜は一礼し、「はい」と応える。
現在忌の間に居るのは、天津神たるこの天官と沙夜、そして壁際の闇にうっそりと佇む黒衣の呪祷官たちのみだった。呪祷官たちは顔に頭巾の面布を垂らしており、沙夜が入室した時から背景に徹していたが、天官が合図した瞬間虚空から湧き出るように存在感を強めた。
他には、堅塩も道中の護衛に着いて来てくれた侍たちも居なかった。無論、元服前でありながら無理を言って沙夜たち一行に同行した彼すらも。
「今こそ時は満ちた。其方の法、『理化』を以て日出の理を書き換える時が」
天官は言い、ちらりと視線を斜め下に向ける。「まだ、心渡う少年の準備が整っていないようだが」
この時を、自分は待っていたのだ。沙夜は胸の内でそう呟いたが、何故わざわざそう呟かなければならないのかも自覚していた。
自分は今、恐れているのだ。
天照の形身として自らを捧げる事で、沙夜としての自分が消えてしまう事を。自身の官能気が精気となって世を満たし、大気として、また水や土として、永劫に渡ってそこに存在する事になるのだとしても。
私は、私のままで、彼の傍に居たい──。
(……駄目)
萌しかけた思考を、沙夜は自ら遮った。
(そんな事、思っちゃ駄目。彼だって、いつかこの日が来る事を知ってて……それでも、私を好きだって言ってくれた。そんな彼だったから、私も好きになれたんじゃない……)
今ここに彼が居なくても、ここで自分が躊躇いを感じる事は──遍く民が須らく信じるべき神託に懐疑を呈する事は、全てを承知の上でここまで自分に付き添ってくれた彼に恩を仇で返す事になる。
沙夜は縋るように、着物の胸に──その下、懐に入れて持参した桔梗の簪に触れた。
呪祷官たちが滑るように接近して来て、沙夜の周囲を取り囲んだ。
「天を仰ぎ、見よ。天照の御魂はそこにある」
天官が言った瞬間、薄暗かった部屋全体がぽっと明るくなった。天井に、月の如く仄白い光を放つ鏡のような円形が出現する。草双紙に描かれた煌姫の昇天した夜とはこのようなものだったのではないか、と思われる程、白昼よりも眩しいのに、直視しても不思議と目が眩むような事はなかった。
透き通ったその表面を透過し、何か人の形をしたものが見えるような気がする。しかし、肝腎の顔に当たる部分が斜めの反射光でよく見えない。
もっとよく見ようと爪先立った時、沙夜は自らの身が自重から解き放たれたのを感じた。ふわり、と体が浮き上がり、枷を解き放たれた円筒幟のように天井に近づいて行く。
はっと気付き、視線を下げたのは、既に床から十間近く離れてしまった後になってからだった。
眼下で表情の見えない呪祷官たちが掌印を組んだ手を高々と掲げ、無音の圧で沙夜を押し上げるようにしていた。
「げ、猊下……」
「恐れる必要はない、新世の巫女よ」
天官は、冷たい眼差しで沙夜を見たまま淡々と言う。
「其方の身をい廻みしあらゆる遷移は停止し、其方の心は布留を得る。この現世に生まれ出でし役目を全うし、成すべきを果たした者のみぞ与れる永久の安らぎへと回帰するのだ」
「私の……生まれてきた意味?」
「御在れ」
彼もまた、掌印を結ぶ。
「其方は器として、我らが祝福を受け生まれ出でた。古代戦国乱世より来方、それぞれに信ずる理の異なってしまった我らの、絶望と希望を現す為の祝福。私は知っている。かの天孫降臨の地、其方の故郷たる村で、人知れず人の業と戦い続けたかの者の記録を。その裔なる其方が、代々に渡り呪縛を解かれし血を混し、その純らかなる『理化』の法を得た。
……御在れ、私は幾度となく現で、また夢の世界で法を交配し、そう願い続けてきた。その過程に、何百何千という墓を築いて。しかしそれは、我が霊血より移ろいを経て生み出され得るものだったという事を意味するのか。これが、あの男の言う宿命というものか」
天官の言葉は淡々としていたが、沙夜は彼が自分を見上げる目が、最初に忌の間に入った時とはやや変わっている事に気付いた。彼は、最後に参考までに聞いておきたい、というような調子で問うてきた。
「其方は全体、その身に何を宿し生まれ落ちたのだ? それこそが理の盲点というならば、その性とは全体何なのか?」
「……分かりません、私」
沙夜は正直に答えた。声が震えないよう気を付けるのに、大分精神を使った。
天官は、「それでいい」という風に顎を引く。
「我が天意に基づく理。その原理はやはり私にのみあり、その礎は我のみぞ知る、か。結構な事だ」
その呟きが終わった時、頭頂が天井に触れた。上昇は止まったが、背中や腰、肢は尚も天井の光に引かれるように上がり続け、やがて沙夜は後半身を天井にぺったりと付けるような姿勢となった。
そして、ゆっくりと”月”の中へと吸い込まれ始めた。
境界面で、灰汁が濾し取られるように自分から何かが消えて行くのを感じる。頭の中に、箱を引っ繰り返したかの如くこれまでの思い出が去来する。
(希釈されているんだ、私)
そう思った時、彼の顔が浮かんだ。
笑った顔、怒った顔、泣きそうな顔。強い決意を孕んだ顔。自分と居る時の、はにかむような顔。幾つもの彼の表情が現れては、薄くなって消えて行く。そして消えたものは、もう思い出せない。
どれだけ自分が、彼によって作られてきたのかを悟った。
彼が作ってくれた今の自分が、消えてしまう。沙夜が恐れていた事の正体は、それだった。それがどうしようもなく怖くて──悲しかった。
──嫌だ。
──やっぱり私、こんなの嫌だ。
「助けて!」
天官の目も憚る事なく、沙夜は叫んだ。
その声が音になったのかどうか、自分に最早知る術はない。それでも確かに、沙夜は叫んでいた。
「助けて、ミコト君─────っ!!」
本日より、『夢遥か』伍ノ章「新世開闢」の連載を開始します。昨日も「後書き」に書いた通り、この章はこれまでの実際の夢惣備の章と比べると地味な印象を受けると思われます。が、あらかじめ予告しておきますとこの章は毎回といっていい程今後の展開にとって重要な要素が含まれます。あまり書きすぎるとネタバレになるのでこの辺りで止めますが──。
そして、本当に久々となる沙夜本人の登場です。ここで、沙夜パートで書かれていた「彼」というのが鶴来でなかった事が分かる訳ですが、道冥先生の居るべきポジションが堅塩に置換されている事や「彼」が鵤羽原流刀術を使用していた事などから何となく察されていた方は居るかもしれません。実を言うと、作者が書きながら最も混乱するのが沙夜パートです。過去の回を読み返して設定的にミスプリったところは(一見あるように見えるかもしれませんが)ないので大丈夫かと思います。
次回以降もこの調子で頑張りますので、乞うご期待です。




