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夢遥か  作者: 藍原センシ
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『夢遥か』壱ノ章 夢遥か③


          *   *   *


 道冥先生を待つ間、俊輔に支えられながら隣の部屋に入った。

 四畳半程の座敷の真ん中に布団が敷かれ、その上で沙夜は眠るように目を閉じていた。血染めの浴衣は交換され、白い着物には乱れ一つない。

 僕は、彼女が体の上では既に死んでいるという事が信じられなかった。それは、彼女が口元に湛えている笑みのせいというのもあるかもしれない。沙夜のその柔らかな微笑みは、あたかも楽しい夢でも見ているかのようだった。

 僕の隣で彼女が浮かべていたのと何も変わらない、儚げで、それで居ていつまでも消えないと思えるような笑みだった。

「沙夜……」

「鶴来、本当にすまない。この通りだ」

 敷居の所で、俊輔は何度も頭を下げた。

 僕は、彼女の髪を撫でながら頰を擦り寄せた。手を握る──冷たい。しかし、その肌は綺麗なままで、もう生きていないのだとは思えなかった。それは恐らく、今まで触れた事があったのが、祭りの熱を帯びた(てのひら)だけだと分かっていたからなのかもしれない。

 息が出来ない事に気付いた。

 空気を吸おうとしても、喉が塞がったようになって吸い込めないのだ。閉じた瞼もまた、(にかわ)で接着されてしまったかの如く開けない。無理矢理息を吸おうとすると、濡れたような()()()という音が鳴った。

 鋭く飛び込んで来た空気が、胸の底を刺すように叩いた。

 泣いているのだと分かったのは、(しば)しの時が流れてからだった。本当に感情が一杯になると、自分が泣いている事にすら気付けないのか。

(僕は、武士の子だ……)

 心の中で、何度も自分にそう繰り返した。武士の子が人目を憚らず泣くなどと恥ずかしい事が出来るのは、戦に敗れ腹を斬る時だけだ、悔し涙だけが僕たち侍の涙だと教わり続けていた。

 声を詰まらせ、嗚咽を堪えていると、やがて戸口に誰かが立った気配があった。しかし、僕が顔を上げるより先に

「鶴来」

 微かに(しわが)れた、しかしよく練られた低音が僕の名を呼んだ。

 振り向くと、そこに恩師が立っていた。

「道冥先生……」

「遅くなってすまないな、鶴来よ」

「先生、弥四郎は大丈夫ですか?」俊輔が、立ち上がりながら尋ねる。

「敵は多いが、あやつも刀術の腕は立つ。今は信じる事としよう」

「そう……ですね」

 俊輔の口調は、仲間に対して一人で危険な役目を背負わせてしまった、と気に病むようであった。先生は労うように彼の肩に手を置くと、僕の方に視線を戻す。

「ぬしもさぞ戸惑っている事だろう。無理もない──ぬしにこれらを語る事は、それまで信じてきた全てを脆く突き崩す事でもあるのだからな。ぬし自身の事も、天照道も、世界も、女ですらも」

「先生、すみません──」

 僕は、慌てて袖で涙を拭おうとする。が、拭えども拭えども、次から次へと込み上げてくるものを止める事が出来ない。すみません、と謝り続ける僕に、先生は蹲踞(そんきょ)の姿勢となって目線を合わせてきた。

「良い、愛する者の為に流す涙は恥ではないぞ。ただ、こうなった以上事態は急を要する。泣き()まぬでも良いから私の話は聴け」

 いつになく優しい先生の言葉に、僕は何度も首を縦に振る。

 還暦過ぎとは思えない、精悍で凛然とした先生の顔つきは普段通り厳しいままだったが、その目に僕は、自分と同じように微かに苦痛を堪えようとするかの如き色を見て取った。

「鶴来、ぬしはもう覚えてはおらぬだろうが、義貞がぬしを助けた時、ぬしの本当の両親は既に亡くなっていた。それは紀伊国の守護である武将・細川(ホソカワ)基邦(モトクニ)公の城での事だった」

「僕の……両親?」

「当時の争乱の際、私もまた義貞と共に紀伊国で戦っていたのだ。争乱の原因(たね)は国境の要地、和歌ノ原(わかのはら)を巡るいざこざだったのだが、その地は元来紀伊の領地だった。和泉はそれを借り受けていたのだ」

 道冥先生の語り口は、草双紙を読み聞かせる()り役のようだった。

「知っての通りこの国の面積は紀伊より遥かに狭く、領主たる大内(オオウチ)家の石高(こくだか)も近隣諸国に比べ低い。民を養い得るだけの糧を生み出す田地が足りぬのだ。そこで、先代の以延(タメノブ)公は土地の肥えた和歌ノ原を借用すると称し、半永久的に使用する事を考えられた。元々和歌ノ原は大内家の領地であり、乱世に於いて国境が曖昧になり、そのまま細川家に吸収された。返す必要はなかろうというのも、お考えの中には含まれていたのやもしれぬ。

 返還がいつまでもなされない事に業を煮やした基邦は、二万の兵団を国境に派遣した。この事から始まった争乱だが、最も初めに私と義貞がせねばならなかった事は、俊輔を基邦の城から連れ戻す事だった」

「本当は領地の貸し借りをするような仲だ、和泉と紀伊の関係は比較的良好で、大内と細川の間じゃ嫁入りも行われていたんだな。以延に嫁いだのが基邦公の妹(ぎみ)で、その子供が俺、呪者となった今じゃ名前は変えているけど、幼い頃の名前は虎松(トラマツ)といった」

 先生の後を引き継ぎ、俊輔が言った。僕は、あんぐりと口を開けて彼をまじまじと見つめる。

 現在は朝廷を相手に戦う組織の長であり、一昨日までは天照寮の神子であり、生まれはこの国の領主の御曹司。一体どれだけの肩書きを持つ人物と、僕は関わりを持っているのだろう。

「争乱の際、俊輔の母君は彼を連れて紀伊に里帰りをされていた。時期は年明けの頃だったはずだからな。我が国の世継ぎである俊輔を基邦が人質に取り、和歌ノ原の返還を迫る可能性があった。故に、誰かがそれ以前に彼を連れ帰る必要があった。それが、我々だったのだ」

 先生の話を聴くうちに、段々と僕は話の行く先が見えてきた。

 そして俊輔が、

「鶴来」

 次の言葉を発した瞬間、

「俺の法は、お前と同じ心渡りだ」

 僕の中で全ての得心が行った。ああ、という、溜め息のような声が漏れる。

「法は血筋に関係しない。それぞれの一族で異なる法を持った霊能者が生まれる事もあれば、それを引き継いで生まれて来られない者も居る。代々継承される法が何処で生じたのかを辿る事も、恐らくは不可能だ。だが、血の繋がっていない者から全く同じ法が出現する事はまずない」

「異父兄弟なのだ、ぬしと俊輔はな。俊輔の母・(オト)の君が、基邦の従弟でありぬしの(まこと)の父、時実(トキザネ)の奥方でもあったのだ」

 道冥先生の言葉に、僕はそうだったのかと肯いた。

 ──確かに俺は二十(はたち)で、お前より年長だがそれは当たり前の事だ。

 俊輔の、半刻前に言っていた台詞が蘇った。それは、彼が僕の義理の兄だという意味だったのか。

「あれ、でもそうなると……」僕は、素朴な疑問が浮かぶ。「乙姫様は、俊輔を生んだ三年後に紀伊に戻り、僕を生んだという事ですか?」

「いや、そうではないのだ。元々乙の君は、時実殿の奥方だった。しかしなかなか子が出来ず、呪者からは父の精の方に問題があると診断を下されていた。そして当時の基邦にとって、庶流の血の継承よりも和泉との結びつきを強める事の方が優先順位が高かった」

「和泉、紀伊のすぐ傍には大和(ヤマト)・山城連合が控えている。強国である彼らと対等に駆け引きを行うには、俺たちは団結しなきゃいけなかったんだ。当時は今程の百鬼連の活動はなかったけど、その分人間同士の争いで世が乱れていたからな。時実殿もこれには承諾するしかなく、母上は和泉の以延公に嫁ぎ俺を生んだ。それから間もない里帰りの時、国に残して来た最初の夫への気持ちは断ち切り難く──従姉弟同士で、幼馴染なんだから当然だよな──、一夜だけのつもりで彼と交わりを持った」

 俊輔は滔々と言ってから、ふと気付いたように付け加えた。

「ああ、俺は別に、それを何とも思ってはいないからな。母上とて一人の女、それは分かっている。俺も世継ぎである以前に一人の男であり呪者、そう思ったから周防俊輔になったんだ」

「分かるよ、俊輔。……それで、母は懐妊したんだね?」

「鶴来、ぬしをだ」

 道冥先生は、重々しく言った。

「誠に偶然であった。時実殿には子は出来ないものだと、誰もが思っていた。本人たちとてそう思っていたが故の行為だったのだろう」

「鶴来君は奇跡の子、不思議な子よー」

 板の間で、ずっと静かに座っていたお胡尹が歌うように言った。

 僕は頭を掻く。

「俊輔の出産から二年、身辺も大分落ち着き、乙の君は心身の療養も兼ねて紀伊に帰っていた。その最中、こういった事が起こった。基邦は妹夫婦を厳重に注意したが、隔てられていたとはいえ夫婦は夫婦だ。庶流の後代の事もあり、これも神々の導きだという事になって分娩の支度は整えられた。とはいえ、やはりぬしが生まれて間もなく、乙の君は和泉に帰らねばならなかったがな」

「道冥先生も義貞公も、母上の故郷(くに)でそのような事があったとは知らなかった。だから(くだん)の争乱の折、夜陰に紛れて城に忍び込んだ先生たちは、奥座敷で眠る子供を見てそれが俺であると信じ疑わなかった」

 俊輔は、「仕方のない事さ」と続けた。

「ただでさえ、暗くて子供の顔なんてはっきり分からなかったんだぜ。夜間とはいえ城に忍び込めたのも、時実殿の手引きがあったからだそうだ。鶴来、お前のお父上も思うところがあったんじゃないか、自分の愛する妻が生んだ子供が──それがたとえ別の男の子供であったとしても──、戦の駆け引きの材料にはされるのは耐えられない、って気持ちがさ」

「私と義貞は城を脱出し、俊輔だとばかり思い込んでいたぬしを連れて逃げた。その姿を見咎められ、城に詰めていた侍たちは曲者(くせもの)かと思ったらしい。向こうも闇の中での行動だ、現場に刀を携えて踏み込み、夜な夜な起き出していた時実殿と乙の君を誤って殺害(せつがい)してしまった」

 惨い事をしてしまったものだ、と先生は目を伏せた。僕は、次第に口の中がからからに乾いていくのを感じた。

「その後国境の和歌ノ原が戦火の(ちまた)となり、私たちは以延公の城に戻るのにも難儀を強いられた。その時になってもまだ、私たちはぬしを俊輔と勘違いしていた。顔が判別出来るか否かなどといった話ではない、こちらは由緒ある武家とはいえ所詮は辺陬の田舎侍。世継ぎの人相など知っているはずもなかろう。

 一月にも及ぶ行軍の末城に辿り着き、既に俊輔が帰っていると聞かされた私たちの混乱は大変なものだった。この男児(おのこ)は誰なのか──手掛かりはまるでない。やがてこの一件で世継ぎを喪いかけた以延公はやむなく和歌ノ原を返還する事で争乱を片付けられ、お役御免となった私と義貞の元にはぬしだけが残った」

 僕は、他人事のような気持ちで話を聞いていた。幼い頃の出来事とはいえ、何故これ程の変事を僕は忘れているのだろう?

孤児(みなしご)となったぬしを、義貞は鶴来と名付け引き取った。紀伊に返すのは論外だ、それは既に過ぎ去った争いを蒸し返す行為に他ならない。一方で、ぬしもまた大人たちの諍いの犠牲者だ。我々には、つけねばならぬ”けじめ”があった。

 そして一年程が経った後──つまり、ぬしが秋嵐塾に入塾する前年だな。以延公が流行り病により急逝され、現在の佳延(ヨシノブ)公が大内家当主を世襲された際、付き人に添われた俊輔が私を(おとの)うて来た。先代の以延公も、自分がこれ程早く逝くとは思われなんだろう、俊輔はまだ(よわい)七つ、当主の座を襲うのなら、摂政として叔父の佳延殿を立てるのが定石であったろう。しかし俊輔は、嫡流である自分が敢えて退き、佳延殿にその座を譲った」

「俊輔が、自分の意志でですか?」

「彼は早熟だった。前年に自分をきっかけにして何が起こったのかを理解し、自身の法についても悟っていた。これを話された事で、私も鶴来、ぬしを晋冥の兄者に診断させ、霊能者である事を知った訳だが……ともあれ俊輔は私に対し、付き人の助けを借りながらも己の口から、謎多き昨年の出来事を話してくれた。私はそれで、ぬしがあの時実殿の子であった事を知った。

 俊輔は、ぬしを差し置いて自分がのうのうと城での生活を送る訳には行かない、義理の弟に申し訳が立たないと言った。それに、父系ではないといえ自分たちは血が繋がっている、国内外の権力闘争は外交上致し方ない事かもしれぬが、自分が領主となる事で何かの拍子に鶴来の平穏な暮らしを壊してしまうのが恐ろしい、という事もあり、自ら叔父に位を譲ると」

「あんまり美化しないで下さいよ、こそばゆい」

 俊輔は居心地悪そうに肩を竦めた後、僕に向かって言った。

「俺はお前を、もう俺に関わらせず、全く別人として新たな人生を歩めるようにしよう、と提案した。まだ四つ、昨年の事についてもちゃんと理解出来ているのかも分からない、だから取り返しがつく、と。そして俺は、心渡りでお前の曖昧な思い出に干渉し、それらを心の奥底に押し込めた」

 それで良かったんだ、と独白の如く付け加えた彼の言葉が、やけに重々しい響きを持って耳に届いた。僕は(しば)し、告げられた事実を反芻する。

「俺が俊輔として修行の旅に出た後も、矢文という形で道冥先生との交流は続けられた。天照道総本社に入った時も、神祇官見習いとして天照寮に入り、呪祷官に昇格した時も、神子になった時も。朝廷からの離反を決めた時もそうだ」

「私は徹底して、それをぬしに隠した」道冥先生が言う。「ぬしだけでない、義貞にもな。きっとあやつは言うだろう、記憶を封じてしまうなどとんでもない事だ、ぬしは真実を知らねばならないと」

「なのに今回、俊輔は僕に会おうとした」

「俺に会わずに、お前が幸せな日々を送れるのならそれで良かった。だが世の(ことわり)はあまりに惨く、お前の幸せを壊そうとした。だから今度は、俺からの一方的な押し付けじゃ駄目なんだ」

 俊輔の声に力が込もる。

「心渡りは、『夢遥かの世界』と繋がる為の法。鶴来、お前には愛した女を救う(すべ)がある。俺たちは今、お前に全てを話した。これからどうするかを選択するのは、お前次第だ」

「……僕は、沙夜を救いたい」

 微塵も逡巡する事なく、僕はきっぱりと告げた。しかしそこで、ふとある事に思い至る。

「だけど、僕は沙夜に心渡りが使えない。名刀三家には、僻呪の契りが結ばれているから……」

「ならば、鶴来よ」

 道冥先生が、至極あっさりと言った。

「家の名を捨てるか? さすればぬしは、(いまし)めを解かれよう」

「先生……?」

 はっとし、僕は先生を見る。

「僻呪の契りは、法ならぬ呪でありながらそう易々と解けるものではない。否、解く事は簡単だが、それは家同士の絆の終わりを表す事だ。後に禍根を残さぬ為には、ある一人の都合でない正当な所以(ゆえん)が要るのだ」

「栄華家の娘を、日向家の僕が救う為……というのは、所以になりませんか?」

「それが永劫に渡って、三家の結びつきを(かえ)って強めるものでなければ。仮に義貞に全てを話し、あやつがそれを受け入れたとしよう。だが、(ことわり)は一度解かれた絆を再び呪によって繋ぐ事を許さぬ」

「お前一人の意志次第なんだ、鶴来。『夢遥かの世界』に挑むのは、生半可な覚悟では出来ない。何を以て己を己とするのか──」

 俊輔の言葉を受け、先生は顎を引いた。

「彼はその為に、家名を捨てた」

「僕は──」

 言いかけ、もう一度沙夜を見る。僕なら、取り戻せるかもしれないのだ──自分が心から取り戻したいと願っているものを。その為に、僕が選ばねばならないものがあるのだとしたら。

「……分かりました。僕は、日向の名を手放します」

「よくぞ言った、鶴来」

 道冥先生は、大きく肯いた。

「義貞には、ぬしの安否をまだ不明と伝えてある。その道を選べば、ぬしが日向に戻る事は(あた)わぬだろう。それについても、私は容喙せぬ。その後がどのような事になろうと、愛する者と共に居たいというのならば。こちらの事は私に任せよ、義貞の事は私が──」

 先生がそこまで言った時だった。

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