『夢遥か』肆ノ章 恋煩い⑭
* * *
「白雪や、あのお侍さんが来てはるよ。どうするね?」
禿に髷を結って貰い、今宵客前に出る為に身支度を整えていると、女将が入って来てそう言った。
今日は睦月晦日だ。今頃は朱雀大路の最果て、朝廷で丁度神呼ばいの儀が行われているところだろう。しかし、その祭祀で神子の受け取った神託、今年の方針を下々の者たちが知るのは日付が変わった後だ。
雪は、女将の言葉につい「えっ?」と声を上擦らせてしまった。
「たけ……戸破殿ですか?」
「娘たちから聞いただけやさかい、何や知らんけどな。あんたんとこ贔屓にしとるお客さんは大勢居るし。勿論、まだ早いし入れる訳にも行かん。けどあの人、客として来たんとちゃう言いはるのや。何か、えろう切羽詰まった様子であんたんとこ呼んではったわ」
「会います! 開店前には戻りますから!」
「って、ほんまに時間ないけど……」
「すぐ済みます!」
雪は気持ちが抑えられなかった。お引き摺りの裾に足を取られないよう気を付けながら、草履も履かぬまま店先に駆け出す。
そこにはやはり、紛う事なき猛が立っていた。彼は走って来たらしく息を荒げ、まだ春雪の降る事もある冷えた宵にも拘わらず、忙しなく袖で額に迸った汗を拭っていた。
「猛君……?」
「お雪、すぐにここから離れるんだ!」
彼の態度は、最後に会った時の様子が嘘であったかのように必死だった。突然の事に雪は面食らい、しどろもどろになる。
「えっ? えっ? 何、どういう事? 急にそんな事言われても、困るわよ」
「さっき、僕の下宿先に侍が来たんだ。何者なのかは知らない、初対面の人だ。だけど、その人が言っていた。色町で怪しい動きをしている連中が居て、今宵早蕨屋が襲撃され、妓女たちが殺されるって」
「た、猛君は、それを信じたの?」
「信じるしかないだろう! その人は、僕とお雪との関係についても知っていたんだよ。怪しい奴だった事は確かだ、でも今は」
猛は言いながら、雪の左手首をぎゅっと掴んできた。
「逃げよう、お雪」
「待ってよ!」
雪は、彼のその手を振り解いた。猛は弾かれたように身を引く。
「藪から棒に言われて、いきなり何もかも放り出せる訳ないじゃない。殺されるって何? 私、猛君に『さようなら』って言われて、ずっと悩んでいたのよ。それなのにまた会っていきなり」
「そんな事、今はどうだっていい!」
猛は苛立ったように叫んでから、はたと口を噤んだ。雪は「そんな事?」と鸚鵡返しした。「そんな事って、何?」
「違う、口が滑った──」
「猛君は何がしたいの? どうなればいいの? もう放っておけばいいじゃない、私の事なんか」
今度は自分の口が滑った。
何故? 雪は、こんな事を言いたかった訳ではないのに、と思う。
「恨んでいるんでしょ、私の事? この間、猛君言ったじゃない、私の法に毒されたからこんな目に遭っているんだって」
止まれ、口。心の声が、なかなか体に伝わらない。
「お雪、それは……」猛──言いかけ、言葉が尻窄みになる。
「だったらもう、関わらなければいいでしょう! 私が猛君から聞きたかったの、そんな言葉じゃない!」
止まれ、止まれ。これでは八つ当たりだ。
その時、二階から先輩妓女の声が降って来た。
「何しているんだい! まだ身支度が済んでいないのかい?」
「も、申し訳ありません! 只今!」
雪は叫び返す。気付けば、既に周囲の店舗では店先に明かりが灯り、往来に男たちの姿が現れ始めている。
猛は焦燥に駆られたように、忙しく辺りを見回し始めた。
やがて開店時刻になり、一人、二人と店に客が入って行く。猛の目は、そういった者たちの中に向けられているようだった。
いつしか、淡雪が舞い始めていた。
「私もそろそろ戻らなきゃ。猛君、ちゃんと話してくれなきゃ帰って貰うわよ」
「この分からず屋……!」
猛は拳を握り締めると、それをぶるぶると震わせた。
「少しくらい自分で考えろ! 僕がどうして、今まで──」
「ゆっちゃん、猛君!」
思いがけない声が上から投げ掛けられたのは、その瞬間だった。
「逃げてえ─────っ!!」
「き……きゃああああああ──っ!!」
お胡尹の声だった。同時に、店内から上がる絶叫。
雪も猛も、反射的に言い争うのをやめて二階を見上げる。重い音が響き、屋根の上に張り出した廊下の欄に何かがぶつかったのが見えた。逆光の中、その縁から黒っぽい液体が滴り落ちているのが分かる。……血?
刹那、雪たちの視線の先が明るくなった。
萩色の炎に包まれ、何かが二階の屋根から転がり落ちて来る。それがすぐ傍に落ちた時、雪にはそれが燃え上がる人間の体だという事に気付きぎょっとした。
往来を歩いていた人々の中から悲鳴が上がる。そして、その火達磨に続いて屋根から落下する人影があった。剝がれた瓦と共に外廊下の上に落ちて行く人物と、雪と猛の視線は──一瞬だが──確かに交錯した。
「お胡尹……?」「お胡尹……なのか?」
今、何が起こったのかを悟る。
何故屋根の上のような場所に彼女が居たのかは分からない。だが、そこでお胡尹は何者かと戦ったのだ。自身の「夢患い」の法を用いて。
そして、それはまだ始まりに過ぎない──。
彼女の姿が見えなくなった瞬間、店の中から大勢の妓女や客が、堰を切ったように外へと溢れ出してきた。二階の開け放たれた障子から見える灯りがやけに煌々としている、と思うと煙が上がり始め、お胡尹が中でも幻炎を使用しているのだという事が察せられた。
「あの子ったら、法は上手く使えないって事だったのに……!」
「お雪、逃げろ」
猛が腰に佩いていた刀の柄に手を掛けた。
雪は彼に視線を戻し、その険しい横顔にはっとする。彼が今し方言った事は本当だったのだ、と思った。先程、店に入って行く客たちの列に彼が落ち着きなく目を向けていた事も。
「お胡尹がまだ中に居るんだ。僕が助けに行くから、お雪は早く!」
「猛君を置いて行けって言うの?」
雪は言ってから、それはお胡尹にも同じ事か、と考え直す。その時、いきなり飛び出して来た先輩妓女にぶつかられ、胸を突き飛ばされた雪は横ざまに転倒してしまった。ばらけた裾の上を、大勢の足が踏みつけて行く。
「お雪!」
「猛君!」
猛は柄から手を離すと、雪を引っ張り上げようとそれを伸ばしてくる。
雪は、伸べられた彼の手に縋りつこうとする。それを邪魔するかのように自分や彼にぶつかり、揺さぶる人、人、人──やっと立ち上がった時、二人は氾濫した河川の中洲に取り残されたような有様になっていた。
身動き一つ取れそうにない。
「何なの? 誰がこんな事をしたの?」
既に炎は早蕨屋の壁に焼け穴を穿ち、そこから新鮮な外気を吸って膨らむように全体を舐め始めていた。
微かに異臭が鼻を突く。脂をたっぷりと含んだ肉が焼けるような、嘔気を催させる臭い。それに、沸騰した湯にも似た濃厚な血臭が混ざっている。中で曲者に斬られた者たちが焼けているのだろうが、この分では制御不能となったお胡尹の幻炎に生きたまま焼かれた者も居るに違いない。
だが雪は、それらの人々について意図して考えないようにした。
「分からない……誰が何の為にこんな酷い事をしたのか……僕にこうなる事を教えた侍が、何でこれを予知出来たのかも」
力なく呟く猛に、雪は胸が潰れたように思った。
今までの事を思えば、彼が雪に対して怒りを覚えるのは当然だ。それで一度は突き放したにも拘わらず、彼は自分に警告しに来てくれた。それなのに……
「ゆっちゃーん! 猛くーん!」
人々の押し合い圧し合いする入口から、お胡尹の声が飛んで来た。雪は猛と身を寄せ合ったまま、素早く声のした近辺を目索する。
──居た。
「お胡尹、あなた……!」
彼女の姿を捉え、雪は目を見開いた。
それと同時に、別のものも視界に飛び込んで来る。逃げ惑う人々を次々と斬り伏せながら現れた、黒い羽織を着た剣客の姿。その目は夜行性の獣の如く、炯々と燐光を放っていた。
雪は、咄嗟に彼女に叫んだ。
「来ないで、お胡尹!」
「ゆっ──」
彼女の足が、びくりと震えて硬直した。刹那、その侍が吠える。
「見つけたぞ、猫瞞しの女!」
侍は、はっきりとそう口にした。
雪は衝撃に打たれる。猛が再び刀の柄に手を伸ばしかけたが、
「お雪!」
「若僧が……戦の経験とて、あるまいに!」
それよりも早く、敵が飛び掛かって来た。
目の前で猛の手首が断たれ、宙に舞い上がった。しかし、それに竦み上がる暇もなかった。敵の刀は銀光を放ちながら返され、今度は振り上げられる。それは正確に自分と猛の首筋を薙いだ。
痛みはなかった。
倒れ込んだ雪と猛の手が、自然に重なり合う。
──何て呆気ないのだろう、人の玉の緒は。
──今まで悩んでいた事全てが、馬鹿馬鹿しい事ででもあったかのようだ。
黒衣の侍が去って行き、徐々にぼやけていく視界の中でお胡尹がこちらに駆けて来るのが見えた。
彼女が何かを言っている。彼女の指が、自分の首筋に触れる。
(ごめんね、お胡尹)
雪は最後に、そのような事を思った。
浅間の火口に投げ込まれたのではないか、と思うような灼熱が自らを襲った時、雪は既に自分が現世に居るのか、幽世に居るのか判断がつかなかった。
ご精読ありがとうございます。『夢遥か』第二巻はこれにて終了です。とはいえ肆ノ章「恋煩い」は三巻目まで続くので、明日以降も投稿は継続します。
日出国の地名は基本的に明治以前の日本に実在した地名を採用しており、主要登場人物以外の家名は畠山(山城国)、大内(和泉国)、細川(紀伊国)、相良(志摩国)などモデルとなった土地を治めていた事のある実在の武家に由来しています。羽後国の佐武家もモデルは実在の佐竹家で、作中で書かれている銀券騒動は佐竹家の銀札騒動が元ネタです。とはいえ、本作でオマージュしたのはほんの触りだけであり、妲己のお百などの話は物語にまとまりを欠く事になるので取り入れませんでした。興味のある方には海音寺潮五郎の『列藩騒動録』などをお勧めします。
それにしても、弐ノ章の千与、参ノ章の兵部、肆ノ章の雪と章が進むに連れて人物の悲惨度が上がっている気がします。別に私の物語は暗さを売りにしている訳ではないのですが、一人一人の人物に説得力を持たせようとすると必然的に深刻になってしまうのです。この事についてはいずれエッセイでも回を取って説明出来たらなと思います。
重苦しい物語ですが、ここまでお付き合い下さった皆さんに改めて感謝を。今後とも引き続き宜しくお願いします。




