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夢遥か  作者: 藍原センシ
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『夢遥か』肆ノ章 恋煩い⑫


          *   *   *


 ある時を境に、猛はぴたりと雪と交わろうとはしなくなった。会いに来る事には会いに来たが、普段通りに話をするとすぐに帰ってしまうようになったのだ。雪がそれとなく誘ってみても、まるで応じなかった。

 一月程が経って、身の周りで起こった二つの変化から雪はその理由を察する事になった。察して、ともすれば絶望にも近い衝撃を受けた。

 一つ目の変化は、雪がその頃よく相手を務めていた豪商の男が早蕨屋に現れなくなった事。その男は獣欲と言うに相応しい飽くなき極道の追求者で、雪のみならず妓女たちに対して苦痛を伴う体位を要求するので多くの女たちからは悪客扱いされていたが、連日大金と共に店を(おとな)う為経営の(よすが)ではあった。

 風の便りに、その男の取り仕切っていた呉服屋の景気が最近悪くなったという話を耳にした。噂では、主人の体調が優れない為店子(たなこ)たちの気が(すず)ろになり、店の回転が上手く行っていないという。

 二つ目の変化は、自分の元にやって来る猛が着物の襟首や袖口から包帯を覗かせるようになった事。雪は初め、その理由と(くだん)のお大尽が店に現れなくなった事を連関させて考えてはいなかったが、ある日不意に見てしまった。

 猛の首筋に、包帯で隠し忘れた紫斑がくっきりと浮かんでいるのを。

 花柳病──花の病だった。遊郭で、或いは夜鷹として街頭で春を(ひさ)ぐ女たちが最も恐れる疾患。全身の薔薇(そうび)模様と化膿する発疹、果てには鼻の腐落や精神の変調までを引き起こし死に至る事もある。そして、現在の日出の技術で完治させる事は極めて難しい。

 雪は、実際にそれに罹患した妓女を見た事はなかったが、大家である早蕨屋で過去にその手の病が発生しなかった事は有り得ない。禿になってすぐに、先輩妓女たちがかつて勤めていた妓女の患者について噂しているのを耳にした。

「……今年で十年になるらしいわよ、あの人」

「十年! そんなに長い間体が腐り続けるなんて、ぞっとするわ」

「もう、身請けした旦那さんの声も届かないんですって」

「当時のやり手(ばばあ)が、花が目立つ前に叩き売りしたんですもの。何で、分かった時に一思いに死なせてやらなかったのかしら」

 雪はそれを聞いた時、慄然とした。

 感染(うつ)れば、治療は困難。それは店での価値を失う事を意味し、古道具の如く捨てられる事だった。どれだけ罹患者本人が苦痛を訴え、助けを求めても店の者たちには届かない。むしろ、死ぬならば死んだ方がいいとすら判断される──。

 雪は猛の貞節を信じていた。ならば、恐らく感染経路は自分。例のお大尽から雪に伝染(うつ)ったのか、お大尽にも自分が伝染したのかは定かではないが、自分がそれを保菌しているという事は確かなようだった。

 これ自体は、驚くべき事ではない。花の病の症状は千差万別であり、発症にも個人差が大きい。中には特徴的な薔薇模様が生じて一月程で消え去り、数年、場合によっては数十年他の症状が出ない場合もあるといい、そういった患者はその後他者に伝染したという話はないそうだ。雪の場合、これから症状が現れるのか、全く現れない例なのかは不明だが、少なくとも猛の包帯が目立ち始めてから一月以上が経ってもこれといった異変は発生しなかった。

 雪は猛の紫斑を見た日、気も狂わんばかりになって全裸になり、全身を隈なく調べて自身に下疳(げかん)や潰瘍がないかを確かめた。そして、それが何処にも見当たらないと結論づいた時、枕に顔を(うず)めて慟哭した。

 猛は、自覚症状のない雪が自らを責めないよう、隠し続けていたのだ。そうしてさえいれば、雪にこのままずっと症状が現れなかった場合、最後まで気付かれずに済ます事が出来るから。

 ──そう、最後まで。

 花の病には、伊勢国、丹生(にゅう)の地方で調税として朝廷にも納められる辰砂(しんしゃ)──水銀を処方するという治療法もあった。だが、これは中毒症状を引き起こす可能性のある危険な行為であり、実質的には問題外だった。

 ()()()()()()()()()()

 きっとその事を、彼は覚悟していたのだと思った。何年先、事によると十何年先になるかもしれないが、きっと死は訪れる。

 そして雪は、同時に何人の客の男たちにそれを撒いたのか、最早考える事は不可能だった。自分が一人客を取る度に菌は散布され、また現在は不顕状態に在る自らが発症する危険性も高まる。

 凄まじい恐怖と罪悪感に苛まれつつも、雪は強迫観念に支配されるように仕事を続けた。店に知られたら、自分は容赦なく捨てられてしまう──その一念だけが、以前耳にした”前例”の女の風聞から強く雪を縛り、ありとあらゆる相手への告白を許さなかった。


          *   *   *


 雪が迷っている間に、京に駐箚(ちゅうさつ)している東国の武士たちから「奥州凶作は既に収束した」という噂が流れて来るようになった。

 雪、猛が再会した十七の年は幸いにも天候に恵まれ、稲の収穫量は平年並みに回復したらしく、米価の高騰は徐々に沈静化したという。更に、田を手放さなかった農民たちが、自給した米を自分たちの判断で分け合った事も大きかった。

 由利の村に対しても、その年最後に送った金だけでもう自分が仕送りする必要はないと思われた。状況がそう転んだ事で、雪の心にはまた別の迷いが生じ、時間の経過と共に膨らんで行く事になった。

 自分と猛の、今後に関してである。

 花の病に多くの差別や偏見がある事を、雪は仕事を通じて知っていた。妓女や夜鷹など、娼婦はそれを撒き散らすという見方は都鄙を問わず日出中に存在するし、罹患者の糜爛した皮膚や粘膜は外見的な理由でも恐れられる事がある。その上、猛は上洛する以前から、家と村人たちの確執という問題を抱えていた。

 ──村の者たちの事は、大切だ。

 雪はまず、そこから検討を出発させた。村には、きっと自分の帰りを待ち侘びている者たちが居る。家族もそうだし、お胡尹も、富男もそうに違いない。雪も彼らを恋しく思わない事はないし、早く顔を見せて安心させたいという気持ちはある。

 しかし、生活の事だけを考えれば、雪が村に帰るという選択は彼らの為に必須という訳でもないのだ。

(私、押しつけがましいのかな)

 猛の事を考え、微かに疼く子宮の辺りを宥めながらそう思った。

 自分が低回させている思考の上では、畢竟自分はどのような選択をしても構わないという事になるようだった。猛と共に村に帰るのも、また彼と京に残るのも自由。その事で村の誰かが、損をする訳でもない。そして猛の事を考えるなら、京で生活を持った方がいいに違いない。

 ──また、彼()()などと考えているのか?

 ──否、そうしたいのは、雪自身の意志である事に間違いはないのだ。

(それはつまり、この京で彼と所帯を持つって事なのよ。分かっているの?)

 自問した。確かに再会のあの日──初めて自分たちが契った日──、彼は自分に結婚しようと言ってくれた。雪はそれはあらかじめ定まっていた事としてではなく、彼自身の意思がそう言わせたのだと思った。

 殊更(ことさら)に村に帰らなくても、どのような場所でも二人なら生きていける。

 そのような気持ちが、飢饉の収束の報せを受けた時を境に、雪の中に萌し始めている事は事実だった。

 雪に背中を押させたのは、思いも寄らぬ人物だった。

 半月程前、何とお胡尹が上洛して来たのだ。彼女は雪に飢饉収束の報せを告げる為に──風聞はとうに広がっていた事なのに、わざわざ歩いて──やって来た彼女は色町で雪について聞き回り、自分の白雪太夫という芸名を突き止めて花魁(おいらん)道中に乱入して来た。

 雪は驚くと共に、途方もない懐かしさに胸を打たれた。

 無鉄砲な行動の末に護衛連中に組み伏せられ、成敗されそうになった彼女を見た瞬間、気付けば付き添いの男衆──花魁道中では重い衣装を纏い、三本歯の高い下駄を履くので一人では歩けないのだ──を押し退()けて叫んでいた。

「おやめなさんし! その()(わっち)のお友達どす!」

 異例の事態だった。無論道中は(つつが)なく完遂したが、雪はその場でお胡尹に、営業時間外に早蕨屋を訪ねて欲しい、そうすれば会えると伝えた。いつも僻みを見せる先輩妓女たちからは予想通り嫌な顔をされたが、構うものかと思った。彼女は、自分の親友なのだ。

「ゆっちゃん、元気にしてた? ご飯、ちゃんと食べられてる?」

 改めて自分の元にやって来たお胡尹は、最初にそう尋ねてきた。

「私は大丈夫だったわ。痩せていたらお仕事も出来ないし、その点はお店がちゃんと保証してくれる」

 雪は答えたが、お胡尹は浮かない顔をしていた。彼女も()()()()()()の沙汰には疎そうに見えて、妓女が(あきな)いの現場で味わう辛酸について一通りの知識は持った上で訪ねて来たようだった。

 雪はそれ以上追及される事を恐れ、「お胡尹は?」と問い返した。「村の皆は大丈夫? 私のお母様や、弟たちみたいに……あれから誰かが亡くなるような事は、なかった?」

「……まあ」

 彼女は歯切れ悪かった。やや言葉を探すように黙り込んだ後、(おもむ)ろに言った。

「猛君とは会ったの?」

「えっ?」

 雪は咄嗟に返事が出来なくなった。

 村を出る際、お胡尹への置き手紙には自分が上洛する理由について、猛の事は含めて書いていなかった。彼女が雪の語らない思惑について、察してはいるだろうとは考えていたが、これ程面と向かって問われるとは思ってもみなかった。

 やや不自然な間を空けた後、「ええ、会ったわ」と肯いた。

「だけど彼が今、何処に住んでいるのかは分からない。胤重公の事で、やっぱり色々あったみたいで……それに私も、もう空いている時間に特定の男の所へ私的に会いに行ったり出来ない身だから」

 太政官の審議を求めて上洛した部隊が空中分解の状態である事、胤重公本人の行方が知れない事などは、煩雑になる為敢えて語らなかった。それに彼の現在の寓居が分からないというのは嘘ではない。

 彼が客として自分に会いに来ている事を説明すると、お胡尹は「そっか」と微かに睫毛を伏せた。何故か、その姿が寂しそうに見えた。

 やがて、彼女は言った。

「ねえ、ゆっちゃん。今度猛君が来たらさ……一緒に村に帰ろう、って言ってくれない? 私とゆっちゃんと猛君、三人で。私、それが言いたくて来たの。村の皆、もうひもじい思い、してないよ」

 この時、雪は自分に、悩む為の時間がもう残されていない事を悟った。

「そう……なの?」

「ゆっちゃん、もう体売ったりしなくていいんだよ。私、知ってる。ゆっちゃんは可愛いから、色んな男の人が来るんでしょ。嫌らしい事されたりするの、私だって嫌だけど、ゆっちゃんが昔から男の人が怖かったの、私ちゃんと分かってたんだ。だからね、もういいの。帰ろうよ」

 彼女の声色は、段々感情的になるようだった。

 雪は、唇を噛んで黙り込んだ。

 お胡尹から、もう左見右見(とみこうみ)は許さない、この場で結論を出せと言われているような気がした。ここぞという時になると優柔な自分を突き付けられたようで自己嫌悪が湧き上がると共に、何故か苛立ちが頭を(もた)げるのが分かった。

(この子に、分かる訳ないじゃない)

 言う訳には行かない言葉だというのは、重々承知していた。自分と猛が花の病に侵されている事を話せば、彼女は何を思うだろう。その上、彼にそれを伝染(うつ)したのは他でもない自分なのだ。

 その事で、どれだけ雪が心を痛めているか──。

「ごめん、お胡尹。私、帰れない」

 雪は意を決し、きっぱりと言った。

 言ってしまえば、もうそれは確定事項になるのだという思いもあった。

「えっ?」お胡尹は、こちらの瞳を見つめてきた。「どうして?」

「どうしてって、猛君を置いて行ける訳ないじゃない。猛君と惣右衛門殿の事、村の皆は許したの?」

「それは──」

 彼女は僅かに言葉を濁してから、先を続けた。

「仕方ない事だったじゃない、猛君たちの京行きは、佐武家の家来だったなら。村の人たちだって今はちゃんと余裕が出来たし、話せば分かってくれる」

 その言葉が、雪にはあまりにも呑気なものに思えた。

 どうして彼女は──そう思った時、何の前触れもなく涙が出た。

「それが出来たら」

 それに気付いたらしく、お胡尹がはっとした表情(かお)になった。

「私たち、とっくに戻ってるよ。だけど、凶作が終わったならもういいでしょ? あの人たちはまだ、猛君の悪口言っているんだ。それなのに、私が送っているお金は使う。それはいいんだよ、元々そのつもりだったんだから。だけど……だけどさ、私が猛君が好きで、彼を追い駆けて上洛した事、ちょっとくらい察してくれてもいいじゃない」

 雪は、堪えきれずにまくし立てていた。

「ゆっちゃん──」

「私たち、帰らない。近いうちに(ここ)で家庭を持つ事にしたわ」

「そんな!」

 お胡尹もまた、そこで声を昂らせた。「見捨てるの!? 私とか、与兵衛おじちゃんたちの事」

 ──見捨てる? 何を言っているのだろう。

「今の私に、猛君以上に優先されるものなんてないから」

 売り言葉に買い言葉で、つい乱暴な口調になった。言い放ってから、ふと何故彼女はそこまでむきになるのだろうと疑問に思った。

 訝しむように尋ねた。「何なの、その言い方?」

「私……私だって!」

 今まで聞いた事がない程激しい調子で発せられたお胡尹の台詞は、

「私だって猛君の事、好きだったのにな」

「………!」

 雪の度肝を抜くものだった。

 彼女に色恋が分かる訳がない。そう、一笑に付す事は出来ただろう。しかし、雪は先程までの様子から、彼女の言葉が口から出任せに紡ぎ出されているものではないという事に妙な確信が持てた。

 いつからだろう? 雪はそう考えた。

 ──分からなかった。だが、もし三人で、村で一緒に遊んでいた時から彼女が”本気”だったのだとしたら。春の目覚めを迎えてから、彼女はそれを口に出す事が出来なかったに違いない。

 彼女にとっての猛とは、親友の彼氏だったのだから──。

「帰って」

 雪は彼女の視線を避けるように睫毛を伏せながら、そう絞り出した。これ以上彼女と話していたら、声を上げて泣き出してしまいそうだった。

「ゆっちゃん……」

「帰って!」

 言いかけた台詞を遮り、叩きつけるように声を放つと、お胡尹はびくりと体を震わせた。彼女は嗚咽する寸前のような、鼻腔で震えを帯びた息を零すと、大人しく立ち上がった。

 (いとま)乞いの言葉も口にせぬまま、お胡尹は部屋を出て行った。

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