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夢遥か  作者: 藍原センシ
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『夢遥か』肆ノ章 恋煩い⑪


          *   *   *


 早蕨屋で白雪太夫となった雪は、法によって彼女を目当てとする男たちを次々と生み出した。

 通常、遊郭に身を(ひさ)いだ女子(おなご)たちは最初、芸事を修める傍ら禿(かむろ)として下働きに徹し、下積みを経て客を取るようになる。その後は半夜、鹿恋(かこい)、天神を経て太夫と呼ばれるようになるのだが、雇われてから一年足らずでそこまで上り詰めるというのは本来有り得ない出世の速さだった。

 そして、女将(おかみ)がその有り得ない速さの出世を許さざるを得ない程、雪の法の効力は有り得ないものだった。

 禿として奉公を始めてから、得意の男たちが次々と雪に客を取らせるようにと店に訴えてきたのだ。仕事をしていれば弾みで彼らに触れられる事もあるが、雪は意図的に彼らに肌に触れさせ、魅惑した。そのあまりの熱烈さ、執拗さに女将は折れ、また雪が半夜となってから所定の代金以外の進貢が増えて稼ぎが桁違いとなった事で、必然的に出世させざるを得なくなった。

 そうして(またた)く間に早蕨屋の花形妓女となった雪は、村に居た頃は想像もつかなかった程の金銭を得られるようになった。だが、それは決して華々しい成功だけを意味する事ではなかった。何よりまず、相思相愛の相手が居ながら、若くして(みさお)を手放さなくてはならない事が、女としての矜持に響いた。

 雪は務めをこなす間、様々な試練を課される事になった。

 一つは、男に対する恐怖心の再発。以前程疾患めいて重症ではなく、恐怖の記憶は蘇るが理性で抑えきれない程ではない、という度合いではあったが、それでも体に触れられ、抱かれる度にあの狒々(ひひ)が脳裏に現れる事に対して身を強張らせずにはいられなかった。

 また一つは、身請け話の殺到。通常身請けの代金は、対象の妓女が単純計算でその後引退まで稼ぐ金額とされている。年若く、花形妓女である雪の場合それは当然莫大なものとなり、京詰めの武士たちも豪商たちもであっても、全財産を使い果たす程の覚悟がなければ叶わない程の額だった。

 そして、それが叶わないと分かっている者たちにとっても、雪は一夜の(とぎ)の相手ではない盲目の恋の対象となってしまっているのだ。中には不可能を自覚するあまり涙に暮れ、脅迫や無理心中といった手段に訴えようとする者まで出た。その都度用心棒や妓夫太郎(ぎゅうたろう)が割り込み、止めてくれはしたが、実際に雪は幾度も命の危険に晒される事となった。

 その事について、雪を疫病神と捉え露骨に鰐口を叩く者たちも居た。

 出世街道を驚異的な速さで驀進した自分に対し、良く思わない先輩妓女たちの存在だった。彼女たちからの(ひが)みと陰湿な嫌がらせは、男たちが去った後になっても雪の居場所に安息を与えなかった。

 まさに、あの手この手と表白すべきものだった。聞こえよがしに、自分たちの事を棚に上げて阿婆擦れだの、幼女嗜好者の奴隷だの、色情魔だのと囁かれる。持ち物を隠されたり、衣装を汚されたりする。(かわや)に居る時に水を頭から浴びせられる。食事に虫の死骸などを入れられる。

 その一方で彼女らも、高価な”商品”を傷物にすれば店から追い出される──本当に重大な損失を店に与えた場合、下手をすれば用心棒や見かじめの香具師(やし)に密殺される事もある──事は理解していた。故に身体への直接的な暴力はなかった分、陰湿さは一層強いものだった。

 雪は必死に、これらの”試練”に対して忍従を続けた。

 村で飢凍する家族や知人たちの事を思えば、衣食住に窮せぬ以上どのような状況下でも耐えられる気がした。

 稼いだ給金は全て、ある妓夫太郎の名義を貸して貰い、飛脚を雇って村に届けさせていた。高級妓女の手取りは、客一人につきその人が払う一回の料金の約三分の一と定められている。そして、現在では五両あれば平均して一世帯が一月は食いはぐれる事がない。

 きっと村人たちは、それらの金が本当は誰から送られて来たものかを理解しただろうし、やりきれなさを覚えたに違いない。

 それでも、彼らが「雪に甘える事になる」などという考え方が許されない状況に置かれている事は事実だった。矜持で飢えを凌ぐ事は出来ないのだから、雪は皆がそれを手放してでも生きている事を望んだ。

 そうでなければ──そのように考えて処女を捨てた自分があまりにも報われないように思った。


          *   *   *


 時間的な余裕はほぼ皆無に等しかった。

 故に雪のもう一つの目的──猛に会うという事はなかなか叶えられなかった。店の外に出て彼を探そうにも手掛かりはまるでなかったし、特定の男と(ささめ)き事で会うにはあまりに自分は名と顔が通りすぎた。

 だから二年程が経過した頃、猛が客として訪ねて来た時、雪は自分が夢を見ているのではないかと疑った。自らを指名した戸破朝直という男の姓には驚いたが、最初は偶然かと思った。しかし、三年が過ぎてすっかり大人びた顔になってはいたものの、雪が彼を見紛う事はなかった。

「お雪……やっと、やっと君に会えた!」

 開口一番、猛はそう言った。

「猛君……なの?」

「ああ、そうだよ。指名料を払ってから、今日まで何日も待ったんだ。白雪太夫って妓女が現れた噂を聞いた時から……それが、君じゃないかと思ったから」

 猛は言うや否や、雪の背に双腕(もろうで)を回そうとした。素肌に触れようとした時、こちらの体が強張っている事を敏感に感じ取ったのかその腕が硬直した。

「ごめん、いきなりすぎたかな?」

「あ、いや……嫌じゃないよ、猛君。びっくりしただけ」

 雪は深呼吸して緊張を解くと、自分から彼を抱き締めた。彼の体は発育の過渡期をとうに過ぎ、着物の上からでも筋肉の弾力が感じられた。

 猛の方でもまた、三年のうちに女として(しし)置きの豊かになった雪の体の感触に、精神が火照(ほて)るような戸惑いを覚えているようだった。だが、彼は「間違いない」と何度も独白した。

「君は間違いなくお雪だ。僕の許嫁(いいなずけ)だ」

「朝直っていうのは……」

「偽名じゃないよ、父上が付けて下さった(いみな)だ。元服が、来年の年明けに控えているからさ」

 そこで雪は、もう自分たちが十七になっていた事を今更のように実感した。

 光陰はまさに矢の如く、時は下れぬ早瀬舟のようだった。三年──それ程の長きに渡って、自分たちは会わずに居たのだ。

 雪はそれ程長い間会わなかったというのに、彼が未だに許嫁という言葉を使ってくれる事を嬉しく思った。だがそれと同時に、俄かに表白し難い怒りも込み上げた。村で飢える自分たちを置いて、今まで京で何をしていたのか、という──。

「私……ずっと待ってた」

「お雪──」

「あんな愚かなお殿様でも、帰って来さえすれば朝廷が私たちを助けてくれるんじゃないかって。だけど神託は下らない、国家老様は方針を示さない、その上あなたたちまで……お母様や粂次(クメジ)たちが死んでも。だから私、こっちに来るしかなかった。猛君を忘れた訳じゃないのに、こんな事をしなきゃいけなかった……!」

「お雪、そんな……そうか、お母上が」

 彼は歯息を漏らし、「すまない」と繰り返した。

「謝って許されようとも思わない。自己満足だ……それでも、すまない、謝らせてくれ!」

「何があったの?」

 彼の苦悩に満ちた表情を見、雪は静かに体を離した。

 今まで見た事のない程に憔悴した彼の面持ちに、一方的な怒りの気持ちがたちまち萎んでいった。

「僕たちが京に着いて、間もない頃──」

 彼は、寝台に腰を下ろして訥々と語った。

「奥州凶作の累が及んで、銀券発行の為に被害を被った美濃国(みののくに)の村役人が朝廷に訴訟を持ち込んだ」

 お触れでは、他国から羽後に入って(あきな)いを行う商人は支払いに際し、現物の金銀を使用する事と定められていた。

 話によると、羽後と交易を行っていた彼らは特産の茶を国内に販売し、対価に銀券を得ていたという。しかし紙切れ同然となったそれを兌換出来ず、豊作にも拘わらず地方では農家の困窮が発生した。この際、交易路である奥州街道に、貧窮により発生した東北の盗賊が出現していた事で代金の納入自体も遅れていた。

 他国への損害を出さないという銀券発行の大前提はこれで崩壊した。国元では勘定役が罷免され、発行を提言した国家老は逼塞(ひっそく)という処分を受けた。

「最早、戸破のような一般兵には報せは回って来なくなっていたんだ」

 猛は言った。

「訴訟騒動の中で、本来の目的である、胤重公が賜らんとした朝廷からの裁定がどうなったのかも有耶無耶のままだ。彼が何処に行ってしまったのか、行方も(よう)として知れない。当然同行の侍たちは半ば空中分解だよ、僕たち親子も行く宛を失って、宿泊期間の決まった宿に延々と居座る訳にも行かない。それからは、宿場を転々とする生活が続いた」

「それなら……村に帰るっていう方法はなかったの?」

「帰れると思うかい? 旅費不足だし、その旨を書き送った村への手紙は梨の(つぶて)に終わった。役場の人たちが握り潰したんだろう……それで僕も父上も、自分たちが完全に村人たちから見限られたのだと悟った」

「そんな……」

「すまないな、言い訳がましくなっちゃって」

「いいよ、本当の事なんでしょ。それで、惣右衛門殿はどうなったの? 今、猛君たちは何処に泊まっているの?」

「今は商家に居候させて貰っている。父上が、病の床に臥せって出歩けないんだ」

「それなら私、お見舞いに行きたい!」

「それは駄目だ、お雪!」

 勢い込んで言った雪だったが、猛は激しくそれを止めた。

「どうして?」

「父上の病が感染(うつ)るようなものであれば、花形妓女の君に感染す訳には行かない。それに、君が個人的に男の家に出入りしていたらある事ない事を風聞されるかもしれない。それは避けた方がいい」

「それは……そうだけど」

 雪は目を伏せた。猛はそんな自分に「大丈夫」と言い、優しく手を取った。

「そこまで重篤な状態でもないんだ。そうじゃなかったら、僕もこうして君に会いに行こうなんて思う事は許されなかっただろう」

「猛君──」

「お雪。僕はあれから、君に会いたいと思わない事なんて一日たりともなかった。今君がこうして色町で働いている事についても、それで君を軽蔑したりはしない。それどころか、何で君がここまでしなきゃいけなくなるまで、自分は何も出来なかったんだろうと思う。……今すぐは無理だけど、二人で一緒に帰ろう。絶対に。そして、僕たちは今でも婚約者だって、ちゃんと言おう」

 彼は切実だった。

「そしたら結婚しよう、お雪」

「………!」

 雪ははっとした。刹那に言葉を失い──気付けば、涙が頰を伝っていた。

 今に始まった事ではなかった。自分たちは村に居た時から互いを想い合う仲であったし、夫婦めおとになるという契りは幼少の頃から交わされていた。

 それでも、このような状況で──自分たちのいずれも未来がどうなるか分からないにも拘わらず、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、彼がきっぱり言い切ってくれた事が雪には嬉しかった。

 こちらの頰を伝う涙に気付いたらしく、猛は慌てたように口調を乱した。

「ああ、ごめん! いきなりすぎたかな……お雪には今そんな事、考えている余裕なんてないのかもしれない。お雪は村の皆の事、ちゃんと考えているのに、僕と来たらまた……」

「そうじゃないわよ、この朴念仁っ!」

 雪は、徐々に大きくなる嗚咽を堪えきれずに叫んだ。

 叫んでから、白粉(おしろい)のぐしゃぐしゃになった目元を擦りながら微笑んで見せた。

「そんな事、ずっと前から……とっくに決まっていたじゃない」

「お雪……!」

 猛はぱっと顔を輝かせ、「綺麗だ」と言った。

「化粧が剝がれても、お雪は昔からずっと綺麗なままだ」

「私、猛君の子供を産みたいな」

 雪は泣き笑いしながら、そう呟いた。

 その夜、雪と猛は初めて交わった。


          *   *   *


 猛はその後も、度々客として雪の元を(おとな)って来た。彼がそうする事でしか自分たちは会う事が出来なかったが、彼としてはたった一つでも方法があるのならそれをとことんまで行うという気でいるようだった。

 営業規定に定められた時間の中で、自分たちは話をし、抱き合った。彼が相手である間、雪には芸事も、やや男がかった京言葉も必要なかった。会話(かたらい)の話題は、(もっぱ)ら村での思い出に関する事だった。

 手を繋ぎ、鉛丹(えんたん)色に暮れ(なず)む土手の道を帰った事。季節が移ろう折々に模様を変えた山。そこで野草を摘んだり、時には(たわむ)れに兎を追い駆けたりした事。肌や髪を隠さねばならない自分は川遊びは難しかったが、せせらぎを聴いたり水風(みなかぜ)を浴びて涼んだり、鮒を釣ったりした。

 そのような事を話していると、度々お胡尹の事に及んだ。

 お胡尹はどうしているだろう──どのような話をしても彼女に話題が及ぶと、途端に空気は湿っぽくなってしまった。知る(よし)もないながら、きっと障がいを抱えた母親と窮乏の中で食い繋ぐのは難儀を極めるだろうという事は容易(たやす)く想像出来、それが自分たちを切ない気持ちにさせた。その上、彼女の母が障がいを背負う事になった要因は、彼女の夢患いの法なのだ。

 話が彼女の事になると、二人は韜晦(とうかい)するように寝台に入った。猛は蝶や花を扱うような丁重さで雪を扱い、幾度逢瀬を重ねても不慣れな、あたかも百枚の衣を脱がすような手つきで雪の着物を脱がせた。

 雪はその事で、彼が自分と再会するまでの間、徹して(みさお)を守り続けたのだという事を実感した。自分の猫瞞しの効力がいつまで持続するものなのか、雪に正確な事は分からない。だが、彼が幼い頃、自分の肌に触れて効力を受ける以前から恋心を抱いてくれていたのなら、それは未だに冷めてはいないのだろうと思った。

 しかし、その交歓も長くは続かなかった──。

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