『夢遥か』肆ノ章 恋煩い⑩
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雪たちが十四の年、奥州を大凶作が襲った。
由利の村に限らず羽後国中、皆が貧しくなった。米価が跳ね上がり、人々の消費は停滞した。これを受け、早期の解決を図った羽後の守護・佐武胤重は朝廷の太政官らに、国内の農村に於ける産業を活発にすべく銀券と呼ばれる兌換券の導入に関する許可を願い出た。
これは厳正な協議の結果、羽後が日出でも銀の産出地で通り、国内の富裕層を札元とする事で周辺諸国に影響を及ぼさないという前提があって通された。
特に政に精通している訳でない雪にも、不況時に於ける質の悪い貨幣鋳造がいちばんしてはならない解決策だという事は分かる。突然皆の財布の中身が倍になったりすれば、商人たちも彼らに卸売を行う農民たちも、物価を二倍にしなければたちまちものがなくなってしまう。しかし、それでは本末転倒だ。
これに対し、兌換券とはどのような性格であるか。
当時の雪にはまだ理解が難しかった事だが、本来兌換券とは、同価値の金銀と引き換えが可能な「財産の証明書」であるに過ぎないのだ。胤重公はこれに、兌換券と同価値の金銀と同価値な商品との取り引きが可能という性格を付与した。巡財の仕組みに疎い人々からすれば、市に出回る兌換券と、それと交換可能な豪農や地主たちが蓄えている金銀──”お金”が二倍になったように感じた訳だ。
結論から言うとこの政策は大失敗に終わったが、それはひとえに領民たちの理解不足が原因だった。
胤重公は触れを出し、太政官を通して認可された規定を領民に告げはしたが、如何せん政策の実施が急すぎた。動揺する領民たちの誤解が解けぬまま、導入決定から急遽発行された銀券は造りが粗雑ですぐに贋札が横行した。
当然、銀券の価値は下がり、領民たちはすぐさま正銀に兌換しようと取引所に押し掛けた。佐武家は慌てて兌換に制限を設け、国内での取引の一切を銀券で行うよう通達を出したが、これが逆効果となった。その時、凶作が始まってから高騰し始めていた米価は天井知らずになっていた。
そのような中で、猛と惣右衛門の親子を村人たちと隔絶させる決定的な事件が起こった。
佐武家主導による、国内の市庭や農村の電撃捜索である。胤重公の出した命令は銀券発行から二月後、国内の佐武傘下の武家に各村を捜索させ、退蔵されている貴金属や米を摘発する事だった。
余剰米の全てを領主が買い上げ、有米調査と再分配を行うという買米仕法は豊作飢饉──収穫量が増えすぎたせいで米価が暴落し、他国に買い叩かれて領民が飢えるという現象──の際、奥州諸国で過去にも行われた事のある政策だ。通常は京で余剰米を売るなどの後策が採られるが、凶作の際は一部の者が食糧を独占し、他の人々が迷惑を被るのを防ぐ目的で行われる。
しかし当然、反発が生じないはずがない。その大規模さから一斉摘発とはいえ時差が発生し、直前まで極秘に進められていた計画は何処かから報せが漏れた。
戸破家も城下町・久保の市庭から派遣された捜索隊を迎え、摘発の手引きを行う事になっていたが、当然猛や惣右衛門は乗り気でなかった。報せを聞いていた由利の村人たちは戸破家に対し「暴君佐武の狗」「裏切り者」と陰口を叩いた。
暴君──後に京で猛と再会し、この時子供には分からない世界で何が起こっていたのかを説明された雪は、村人たちが蛇蝎の如く罵っていた事で暴虐の君主だと思っていた胤重公への印象が誤っていた事を知った。彼の治政は決して暴戻でも苛斂誅求を行っていた訳でもなかったのだが、最初の失策を填補する為に行った事柄が拙かったのだ。
各農村から回収された米は佐武家がその量を検分し、再分配が行われるはずだったが、各地で人心が離れていた為に政策実施が遅れ、領民の飢餓状態は輪をかけて悪化しただけだった。
人心乖離に加え、自分たちも飢えに苦しむ佐武家では、胤重が再び太政官の裁定を求め、朝廷への直接参内を許された身分の者が自分しか居ないとして、家来たちを連れ京への出発準備を整えていた。村人たちが「領主は逃げ出すつもりだ」と非難したこの上洛に、御家人の惣右衛門とその息子・猛も同行する事になった。
「村を出て腹が一杯になるのは、結局侍だけか」
「残されるお雪ちゃんが可哀想よ」
皆が雪の肩を持ち、婚約相手の戸破を頼り甲斐のない家だと口撃した。
しかし雪は分かっていた──猛がこの事に、納得していた訳がないという事を。
「お雪……ごめん」
出発の前夜、猛は雪の元を訪れ、詫びを口にした。
「父上は仕方がないだろう。しかし、僕が父上の命令を突っ撥ねる事が出来ていたなら──」
「そんな事、しなくて良かったのよ」
雪は、深々と頭を下げる彼の両手をそっと取った。
「いえ……むしろ、そうしないでくれてありがとうって言いたいな。猛君の上に居るのは、お父上だけじゃない。ご領主様もなんだから。それに私情で逆らって、打ち首獄門なんて事になったら私が悲しいもの」
「分かっている。だけど、もう長い間お雪に会う事は出来なくなる」
猛は、雪の背に負ぶわれた赤子を見て睫毛を伏せた。「君たちも、こんなに飢えているのに」
雪たちが九つの頃から、不思議と次々に弟妹が生まれた。母の年からして、閉経が見え始めて今しか機会がないとばかりに子供たちが生み尽くされようとしたかのようだった。今雪の下には五人──弟が二人、妹が三人──居り、次女誕生の翌年こそ空いたもののほぼ毎年連続だった。しかし今年は栄養状態の不良により母の乳の出が悪く、末の弟は重湯を煮出した汁で不足を補っていた。
雪は猛の言葉に黙って首を振り、子供故力のない自分に忸怩たるものを感じているらしい彼を優しく抱擁した。
「私、ちゃんと待ってるから」
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しかし、一年が経っても胤重公らは帰って来なかった。
現地で──或いは道中で何があったのか、雪は不安に駆られた。京に沙汰を問う文を出したかったが、紙切れ同然の兌換券のせいで多くが流出してしまった家の金は食糧を購う為に大切にせねばならず、また矢文も猛たちはそれ専用の呪符を持ってはいない為使えなかった。
その間に、村人たちを死の連鎖が襲った。一日一合の米で糊口を凌いでいた雪一家も、母を始め次々に栄養失調で命を落として行った。
隣村で、いよいよ田畑の売買が始まったという話を聞いた。名目上、土地が特定の地主に集中し、水呑百姓が増えすぎると租税の徴収に支障を来すという事で朝廷は土地は永代売買禁止を謳っているが、質流れや借金の担保としての召し上げでこういった取り引きはごく普通に行われていた。
実際、青田売りと行っている事は変わらない。凶作が続く間、変動する石高など豪農からすればどのようにでも恣意的に解釈出来る。当然の如く二束三文で買い叩かれるのが落ちだったが、それが分かっていて尚、まとまった金を手に入れて目下の窮乏を脱したいという思いは人々の中にあった。
母が死に、乳離れの以前だった末の弟が後を追うように逝った後、与兵衛は自宅の田を手放そうかと口にするようになった。どうせ稲を蒔いても、悪天候が続けば翌年の収穫量は目に見えている、と。雪は状況がどう転ぶか分からない以上、長期的に見てそのような危険は冒せないと思ったが、その先の未来で一家が全滅しているという可能性がないとも言い切れなかった。
雪の覚悟は、その頃を境に固まりつつあった。
最終的に、雪は誰にも話さず村を出る事に決めた。それは口減らしでもあり、また自身に猫瞞しの法がある事から、京に行けば身を売って稼ぐ事が出来ると考えた為でもあった。
お胡尹には、自分が上洛するという事について書き置きを残した。そこにはこれらの動機しか書かなかったが、雪自身にはやはり、帰って来ない猛にこちらから会いに行きたいという思いがあったし、お胡尹がそれを察しない訳がないだろうという事も思った。
色恋に関して疎い──猛に対して、彼女に異性という感覚があるのかも雪には不明だった──ようでいて、雪の喜憂に関しては妙に繊細なお胡尹だ。母が衰死した際の野辺送りでは雪本人よりも泣いていたし、猛が上洛して帰らぬまま年を越してからはこちらの気持ちを慮ってか、どう接したら良いか彼女も分からないのか、自分の元を訪って来る事もめっきり減った。
仲良し三人組のうち、一人だけ残されてしまう彼女を、可哀想だと思う気持ちは嘘ではない。
だが──当時であれば、心の拠り所であった許婚と生き別れてしまった自分にも同じ事が言えたのではないだろうか。雪はそう思う気持ちを、自己弁護だと言われれば反発するだろう。




