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夢遥か  作者: 藍原センシ
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『夢遥か』肆ノ章 恋煩い⑨


          *   *   *


 雪と猛が幼い恋──一定年齢以上の男女間に於けるそれのような、性的な感情を含まない──をするようになってから間もない頃、村で大きな事件があった。

 ある夜、安彦の伯父が焼死したのだ。雪がこの件に関する裏の事情を知ったのはずっと後になってからだったが、原因は彼の娘──雪の従姉(いとこ)であったお胡尹にあったそうだ。

 彼女は雪と同じく霊能者で、安彦家の血筋が継承する「夢患い」の法を受け継いでいたという。その潜在能力は稀代のもので、父親を遥かに凌駕する力を秘めていながら呪者としての才には乏しく、一度法の制御が上手く行かず母親の命を危険に晒してしまった事から、数年間父親に矯正の為の教育を施されていた。

 それがまた、すこぶる厳しいものだったという話だ。雪がお胡尹と初めて顔を合わせた時、彼女の目は生気を失い、魚眼のようだった。常軌を逸した訓練により感情が喪失してしまった為だった。

 彼女は感情がなくなり、機械的に法の訓練をこなしていたらしいが、その時父親を焼殺してしまったのは完全な誤りだったそうだ。村でもこの出来事は訓練中の事故として処理され、また安彦家の親戚を始めとする多くの者は、口にこそ出さなかったものの禰宜であった彼女の父が日頃から娘に施していた教育には問題があると考えていた。

 そこで、お胡尹の家には父方の叔父である富男が招かれた。彼女は事実上監禁状態だったという山中の岩屋から出され、元の家で育てられる事となったのだが、以前の事故で重度の火傷を負っていた母親──与兵衛の姉で、雪の伯母──が女手一つで娘を育てる事には限界があったし、社の管理職も誰かが継がなければならなかった。幸い、呪を用いた霊能者の診断や呪術治療、神託の拝受などは固有の法を持たない富男でも可能だった。

「しかし、安彦さんからすれば災難ではあったな」

「本当に大丈夫なのだろうか? あの娘、これで己の両親(ふたおや)を共に害した事になるのだぞ」

「安彦さんはそれを分かった上で、あの子を引き取る事を選ばれたのよ」

「感情がなくなっていた為、以前のように法を暴発させる事がないから……か」

「可哀想だが、塞翁が馬だったかもな」

 しかしそれでも富男は、お胡尹が幸せを感じられる心を取り戻す事を望み、彼女を雪や猛と遊ばせた。


          *   *   *


「お母様! 全然駄目よ、あのお胡尹って子」

 雪はその頃、まだ心を失くした人間というものに接した事がなかった。

 お胡尹はよく見ると(まこと)に可愛らしい顔立ちをしており、猛も含めた三人で一緒に遊ぶ事に雪は(やぶさ)かではなかったのだが、時折そんな彼女が酷く不気味で、ともすれば自分たちとは別種の生き物にすら思える事があった。

 彼女は、雪たちが家を訪ねればきちんと顔を見せ、遊びに連れ出そうとすれば素直に着いて来た。その一方で、鬼ごっこをしようと言っても、かくれんぼをしようと言っても、全く動かない。その意味を理解している様子がないのだ。代わりに、おままごとをしようと誘い、彼女の役回りが何をするものかを言いさえすればその通りにこなす。(ただ)し、一言も喋らない。

 一方で、時折ふらりと居なくなる事があった。川に入ったのではないかなどと想像して不安になり、猛と共に血相を変えて探し回っていると、無人の水車小屋でその回転をぼーっと見つめているという事もある。その時雪が近くで洗濯をしていた女に話を聞いたところ、お胡尹は雪が彼女の居なくなった事に気付いたのとほぼ同時刻から何刻もの間そこに佇んでおり、微動だにしなかったという事だった。見ていた女は怪訝に思いはしたものの、そういった不思議な行動を取る子供はざらに居ると聞くので特に気には掛けなかったという。

 また、何処からともなく現れる事もあった。雪も四六時中彼女と一緒に居る訳でもなく、一人で居る事も、猛と二人きりで居る事もある。ある時雪が山に入ってすぐの所にある草地──村人が野良仕事で柴を刈った為に開け、柔らかな下草が萌えている場所で、お胡尹と知り合う以前は猛と二人だけの秘密基地だった──で猛と睦んでいると、いつの間にか彼女が背後霊の如く後ろに立ち、虚ろな目でじっと自分たちを見つめていた。

 それに気付いた時、雪は鳥肌が立った。猛だけが傍に居る時、雪は人目のある家の外では決して外さない頭巾を外して彼に髪の毛を見せたりしていたが、お胡尹はその雪の髪を見たまま酷く恨めしげにも感じられる様子で居た。

「お雪ったら。そんな事を言ったらいけませんよ、お胡尹ちゃんはお友達でしょ」

 母は台所で野菜を刻みながら、雪の愚痴をさも微笑ましいものででもあるかのように笑いながら(いら)えた。だが雪にしてみれば、笑い事ではない。

「あの子、今日(どぶ)に落っこちたのよ! 頭から着物からみーんなずぶ濡れのどろどろになっちゃって、だけど自分で拭こうとも脱ごうともしないの。私、外じゃ腕まくりとか出来ないから川で洗ってあげる事も無理だし……」

 結局、裾や袖を上げもしないまま、猛に手伝って貰いながら川に入った。そのお陰で気に入っていた小袖が台なしになった。

「あらあら……早く着替えてらっしゃい」

「真面目に聴いてよ! ほんっとあの子、泥田坊みたいだったんだから」

「妖と一緒にしたら可哀想じゃない?」

 母は言うと、むくれる雪の方を向いて屈み込んだ。

「お胡尹ちゃん、自分で考えて動くって事が出来ないのね。だけど、代わりに言われた事は何でもするんじゃない?」

「そうよ」

 雪は肯いてから、そこで今更ながら「言葉が通じない相手ではないのだ」という事に気が付いた。

「それって、機械みたいだと思わない? ……もう分かったでしょ、心がなくなってしまうという事が、どういう状態なのか」

「心……」

 雪は口に出してから、自分が今までその言葉を、手や足、胸やお腹といった言葉のように、さも当たり前に使っていた事に気付いて違和感を覚えた。

「心って、何なんだろう?」

「難しいわよね。魂とか、命とかの方がお母様もまだ手に負えるかも。けれど、ここは嬉しいとか、悲しいとかの気持ちと、お洒落したいとか、美味しいものを食べたいとかの『何々がしたい』っていう思いって考えるのがいいかもね。それは、つまり自分自身って事よ。お雪、お胡尹ちゃんはね……今、その”自分自身”がなくなってしまっているのよ」

「自分自身……?」

「そう。お雪だったら、お雪自身の事」

「嘘、お胡尹はあそこに居るじゃない。私、見ているのよ」

「違うのよ。今居るのは、あの子の体だけ」

 母は言ってから、心から痛ましそうに「可哀想よね」と呟いた。

「けれど、お母様はあの子が絶対、自分を取り戻せるって信じているわ。あなたもあの子も気付いていないかもしれないみたいだけどね、私もお父様も、トミおじちゃまも、お胡尹ちゃんは少しずつ変わっていると思っているわ」

「そう……かなあ?」

「本当よ。お雪、時々教えてくれるでしょ、あの子が時々自分でふらっと何処かに行ったり、あなたと猛さんに着いて来たりする事。トミおじちゃまが言うには今まではそんな事、一度だってなかったのよ」

「………」

 雪は、それなら、と考えた。

 それならお胡尹は──お胡尹の心は、本当に()()()()()()()()()訳ではない。何も感じたくないと思う程(つら)い何かがあって、自分の奥深いところに閉じ込めてしまっただけなのだ。

 途端に、彼女をいじらしいと思う気持ちが溢れそうになった。

 自分たちは、信頼されているのだ。自分たちと居れば、彼女は封じ込めてしまった心を取り戻せると、大人たちは本気で考えている。

(もし、私があの子みたいな状態になったら……)

 雪は想像した。

 自分が居ない──それはきっと怖くて、寂しい事だろうと思った。

「お雪。あなたは優しい子よ、人の心に寄り添ってあげる事が出来る。寄り添って貰える心があるって分かればきっとお胡尹ちゃんだって、自分の心の在処を思い出せるはず。だから」

「分かった……お母様、分かったわ」

 雪は、小さな両の拳をぎゅっと胸の前で握り締めた。

「私、絶対にあの子の心を取り戻してみせる。猛君と一緒に──そして、絶対に本当の友達になってみせる」

「偉いわ、お雪」

 母は頭巾を外した雪の頭を、優しく撫でてくれた。

 その瞬間、(かまど)に掛けていた鍋がシューッ! と白煙を噴き、

「あら、大変! お鍋が焦げているわ!」

 たちまち母は火の元へすっ飛んで行った。


       *   *   *


 そのつもりで見ると、確かに少しずつではあるが、お胡尹には着実に変化が現れているようだった。雪と猛はそういった変化を見逃さないよう注意深く目を凝らし、彼女に出来る事が増える度にきちんと褒めた。

 雪たちが繰り返し丁寧に接するうち、お胡尹は短くだが言葉を発したり、意思表示をするような仕草も見られ始めた。

 ある時彼女は、山に向かう小径(こみち)に石垣の上から枝を伸ばしている木通(あけび)の木の下で立ち止まり、雪の袖を引きながら上を見上げた。雪と猛はそこに実が()っているのを見つけ、それから顔を見合わせた。その時二人は、どちらからともなくお胡尹の心が次の段階に進みつつある事を悟っていた。

「お胡尹、あれが欲しいの?」

 尋ねてもやはり彼女は無言だったが、問い掛けた自分に顔を向け、そのまま次の行動を促すように見つめ続ける素振りに雪は「間違いない」と直感した。

 猛が木に登り、その果実を三つ落としてくれた。三人で石垣に腰掛けて薄甘いそれを齧りながら、雪はお胡尹の反応を確かめた。

 彼女は自分が見つめられていると気が付いたらしく、口の端に果肉を付けたまま目を合わせてきた。その瞳は依然虚ろなままだったが、その口元が微かに綻んでいるように雪には見えた。

 決定的に彼女が心を開いた瞬間がいつなのかは、はっきりとしている。

 それは雪たちの七つの年明け、家の整理を行っている時の事だった。

「あら? これは……」

 箪笥(たんす)抽斗(ひきだし)の奥から、風呂敷やお古の着物と混ざって可愛らしい珊瑚の櫛が出てきた。その日猛は戸破の家で同様の作業を行っており、雪の所ではお胡尹のみが手伝いに──というより様子を眺めに──来ていたのだが、雪がそれを見つけた時、彼女は興味を持ったように身を乗り出して覗き込んだ。

「どうしたの?」

「見て、お母様。うちにこんな綺麗なもの、あったんだね」

 振り向いた母は、それを見ると「まあ……」とやや感傷的な表情を浮かべた。

 五つまで発達の遅かった雪には当時知る(よし)もなかった事だが、その櫛は自分が小さい頃に父から京土産に貰ったものだった。法を有している事が発覚し、外で髪を隠すようになってから自分では使えなくなった訳だが、雪はその由来を覚えておらず、後に母から教えられて知った。

 雪は発見したその櫛を(しば)し矯めつ(すが)めつしていたが、ふと思いついて「そうだ」と声を上げた。「お胡尹、ちょっとごめんね」

「………?」

 小首を傾げる彼女の髪を掻き上げ、それを挿すと、途端に狭い座敷にぱっと花が咲いたように思われた。雪は両手を合わせ、歓声を上げた。

「かっわいいー!」

「まあ、本当に!」母も目を円くした。

 雪は手鏡を見つけ、それをお胡尹に見せた。お胡尹はそれを覗き込み、その時初めて──その双眸(ひとみ)を、きらりと輝かせた。

「可愛いでしょ? 気に入ったならそれ、お胡尹にあげる」

 雪が言った時、彼女は真っ直ぐに自分を見つめ、初めて笑顔を見せて口を開いたのだった。

「ゆっちゃん、ありがと」


          *   *   *


 その後お胡尹に尋ねても、正確に心を取り戻し、雪や猛の事を友達だと認識したのがいつなのか、本人も分からない様子だった。だがそれは、特に不自然な事でもないだろう。雪自身も小さい頃、物心というものがついた瞬間が正確にいつなのかを思い出す事は出来ないが、それを異常だとは思わない。

 雪たち三人は親友となった。雪と猛が婚約者同士の仲だという事はお胡尹に殊更(ことさら)に隠すなどはしておらず、お胡尹もそれを受け入れているのかそもそも理解していないのかは不明だが、その事で自分を仲間外れだと思うような事はないようだった。

 猛は、女の子同士がお互いを可愛がるような感覚でお胡尹に接する雪と同様、友達としてお胡尹にじゃれる事はあった。だが、雪はそれで彼女に嫉妬を覚えた事は一度たりともない。

 お胡尹は、春の目覚めを迎える年頃になってからのような重さは孕まない無邪気な口ぶりで、よく「ゆっちゃんが好き」「猛君が好き」と言った。雪もそれをいちいち大きな意味で解釈する事はなかったし、言われれば同じく無邪気に喜んだ。子供たちの仲は、それで良かったのだ。

 実際に十一、二歳頃に自分たちが春に目覚め、男女の肉体の違いが顕著に目立ち始め、またそれを意識するようになってから、雪と猛のお互いを好きだと思う気持ちは変化を迎えたが、それで猛の気が移る事はなかった。

 雪が猛と二人きりで居たある日──晩春の夕間暮れ、(やしろ)の裏で、初めて彼に抱きすくめられた。

 猛の体は既に、徐々に大人のものへと変化しつつあったが、雪はそれであの「凄まじい恐怖の体験」の記憶が脳裏で閃滅するような事はなかった。大人たちの思惑通り自分は、猛を好きになり共に大人になっていく事で、成人男性に対する恐怖心を克服し始めていたのだ。

 その時、雪は初めて彼と唇を交わした。彼の唇はややかさついていて、仄かに塩気を含んだ味がした。

 それ以上先をしたのは、これよりもずっと後の事だった。

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