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夢遥か  作者: 藍原センシ
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『夢遥か』肆ノ章 恋煩い④


          *   *   *


 昨年、朝廷で神呼ばいの儀が行われる夜の事だった。

 数日前に店を出入り禁止になったお胡尹は、それでも雪との会話を諦める事は出来なかった。やはりいざとなると向こう見ずな方法に走るのは自分の性情──悪い癖のようで、その時お胡尹は路地から着物の尻をからげて雨樋を攀じ登り、屋根の上からこっそりと開店間際の店に侵入しようとしていた。

 ()しくもその日、お胡尹は京に来て初めて猛を見た。十八になり、月の頭に元服していた彼は後髪を伸ばし、(まげ)を太く結い、(もとどり)まで上げていた前髪は綺麗に剃っていた。

 お胡尹が四年前の村での別れ以来、猛に会ったのはこれが最初で最後だった。朝直という名についても、お胡尹がそれを知る事になったのは俊輔や弥四郎に出会った後だ。お胡尹はこの時初めて、彼が既に”大人”なのだという事を実感し、分かっていたとはいえやはりそこに男を見た。

 四年間見ない間に、彼はより男としての体が出来上がっていた。肩幅は広く、腕は太く、女の雪や自分とは明確に異なると分かる高さまで背丈が伸びていた。そしてその時お胡尹は、彼に男の性に対する衝動を覚えた。

 彼は雄々しく、凛として美しかった。彼は店先に出てきた雪と何やら話しているらしく向かい合っていたが、それはあたかも男雛と女雛のようで、七夕伝説の牽牛と織女のような調和を感じさせた。もしもずっと村で暮らしていたら、自分が彼らと三人で友達で居る事が不自然になったのではないか、と思う程に。

(ゆっちゃん、猛君……私、どうしたらいいのかな?)

 部屋に乗り込もうなどと考えていた事が、嘘であったかのように気持ちが萎えていった。

 お胡尹は瓦屋根の端ぎりぎりまで這い進み、二人が何を話しているのか聴き取ろうとした。上から見た限り、背中の大きく開いたお引き摺りの着物を纏った雪は道路の方を向いており、こちらからは表情が見えなかったが、猛は真剣な顔つきで、時間が経つに連れて身振り手振りが徐々に激しくなっていった。二階から張り出した外廊下の(おばしま)に邪魔をされ、半ばしか窺えないが、何か言い争っているようにお胡尹には見えた。

 随分と長い間、二人はそうしているように見えた。夜が進むに連れ、辺りの提灯(ちょうちん)雪洞(ぼんぼり)に火が入り始め、人足も増え、色町は賑わい始める。お胡尹には彼らの話す声が増々聞こえにくくなる。

 開店時刻になったらしく、既に(できあが)っている男たちが店先に現れ始め、眼下の外廊下に妓女が顔を覗かせた。彼女は階下の雪に向かって「何しているんだい!」と叫んだ。「まだ身支度が済んでいないのかい?」

 やり手婆の不機嫌そうな声もする。

「も、申し訳ありません! 只今!」

 雪が上を向いて(いら)え、お胡尹は慌てて首を引っ込めた。

 再び覗いた時、雪は身を翻して店内に消えようとし、その腕を猛がバッと素早く掴んだ。

 もっとよく見ようと身を乗り出した時、矢庭(やにわ)に背後から「おい」と声を掛けられ、お胡尹は驚きのあまり危うく滑落しかけた。

「そこのお前、何をしているんだ?」

「………?」

 振り返った時、そこに黒い羽織を纏った一団が刀を佩き、立っていた。

 用心棒たちに見つかったか、と思い肝を冷やしたお胡尹だったが、先に驚愕の声を上げたのは自分ではなく彼らの方だった。

「何!? 先発隊でないだと……」

「娘、ここで何をしていた?」

 鋭く問い質され、お胡尹は咄嗟に(ども)った。

「な、何って、何? あなたたち、ここの用心棒さんじゃ……?」

 そこでお胡尹は、彼らの羽織に染め抜かれた紋章がこの店の看板になっている蕨ではなく、小紋村濃(こもんむらご)である事に気付いた。しかし、それが山城国領主、畠山家の家紋だと、この時はまだ知らなかった。

 男たち──武士たちは、一斉に鯉口を切った。

「まあいい、やや早いがもう亥の刻は始まっている。呂組、()組の店内(なか)への潜入も確認済み……おい、誰か奴らに矢文で連絡(つなぎ)をつけろ」

 先頭の男が双眸に鬼火のような光を宿し、残忍な笑みと共に接近して来た。

「見たところここの見かじめという訳でもなさそうだが、通りすがりにしては変な所を歩いているな。運が悪かったが、まあ、死んでおけ」

「まさか、堕ち武者!?」

 お胡尹は自らの言葉に、背筋が冷たくなるようだった。

 無意識のうちに掌印を組んでいた。本来覚えているべき時節と、忘れていて然るべき時節が入れ替わった、自分の幼少期──心を失くし、そうさせた父親が何処かに居なくなってしまう前、体で覚えていた事。

 法の使用。それが危険である事を自覚し、雪たちと遊ぶようになってからは今まで決して自ら使おうとしなかった力。

 しかし、お胡尹は必死になるあまり、その”自覚”を忘却した。

「ヴヴヴアアアッ!!」

「えいっ!」

 獣のような咆哮を上げて襲い掛かって来た男の体が、萩色に燃え上がった。彼に続こうとしていた堕ち武者たちが、突然の事にたじろぎその場で蹈鞴(たたら)を踏む。幻炎に包まれた男は下手な踊りをするかのように、野太刀を取り落とした腕を掲げて右へ左へと揺らし、やがて瓦の上で足を滑らせ路地に転がり落ちて行った。

 隣の屋が炎に光り始めるのを見、お胡尹は慌てて消火──否、消幻する。堕ち武者たちは狼狽の声を上げた。

「こ、こいつ、呪者だったのか?」

真眼(まなこ)を使え! 気が揺らいでいる、多分法持ちの一般人だ」

「これだけ居りゃ全滅は有り得ねえだろ。油売ってる暇はねえ、やっちまえ!」

 ──良くない。この流れは、絶対に良くない。

 この者たちが何者なのか、何故早蕨屋を襲うのか、思考を巡らせている余裕はなかった。ただ大事な事は、今ここには──自分の居る後方、店先の往来に雪と猛が居るという事だった。

「ゆっちゃん、猛君!」

 再び一斉に野太刀を振り被る堕ち武者たちから目を離せないまま、お胡尹はいつしか淡雪の舞い始めていた夜空に叫んだ。

「逃げてえ─────っ!!」

「き……きゃああああああ──っ!!」

 魂消(たまぎ)るような絶叫が響き割ったのは、まさにその瞬間だった。

 店内からだった。揉み合うような音と共に、お膳が覆ったり盃や徳利が割れるような破壊音も響き始める。そしてその間隙に、お胡尹は大勢の男女の阿鼻叫喚を聴捉したのだった。

 やがて、決定的なものが視界に入った。

 外廊下に、赤い光芒を曳いて飛び、ごとりと重い音を立てて転がったもの。やや(しば)し前に顔を覗かせ、店外の雪に声を投げ掛けた妓女の生首だった。

「ひっ……!」

「くたばれっ!」

 剣風が頰に感じられた。お胡尹は我に返り、刀を振り上げた事で空いた堕ち武者の懐に飛び込み、掌印を押し当てる。その体がたちまち火柱となり、自らの起こした幻炎に包まれそうになったお胡尹は急いで横に動いた。

 その拍子に、足元の瓦がずるりと滑った。

 炎上し、落下していく堕ち武者の体に、往来を行き交っていた酔歩の人々も客引きの女たちも何が起こっているのかを察したようだった。店内の叫喚はたちまち屋外にまで伝播し、皆右へ左への大騒ぎになった。

 その中でお胡尹は、這い蹲りながらもずるずると外廊下に滑り落ちていた。落ちた男の(むくろ)に思わず上を見上げた人々の中に、雪と猛も含まれており、空中に居る一瞬確かにお胡尹は彼らと目を合わせた。

「お胡尹……?」「お胡尹……なのか?」

 二人にもう一度何かを言う前に、衝撃が全身を襲った。

 (おばしま)(したた)かに打ちつけた背中が痛んだ。お胡尹は顔を顰めながらも立ち上がり、そこに転がされた生首の横を通って駆け出す。

 店内は地獄絵図になっていた。

「ヴヴァアアアッ!!」「いやあっ! 来ないでっ!」「この化け物が!」

 襖が倒れる。床が抜ける。血飛沫(しぶき)や破壊された人体の破片が舞う。

 仕切りの失われた座敷から我先にと逃亡を図る客や妓女、妓夫太郎(ぎゅうたろう)に向かって、全身から黒い靄を上げた堕ち武者たちが斬り掛かり、(なます)の如く滅多斬りにする。虻の飛んでいるような音がする、と思うと、それは堕ち武者たちが不気味に唱え続けている法唱(のりと)だった。

 早く、早く雪たちの所へ行かねば。しかし二階から飛び降りる勇気はない。

「どいてっ! お願いだから!」

 お胡尹は幻炎を放ち、虐殺を続ける堕ち武者を(たきぎ)に変えながら前進した。最早いちいち消火する余裕はなく、突然狐火の如く燃え上がる炎を目にした人々は増々周章狼狽に陥る。押し退()けられ転倒した者からは罵声が浴びせられる。しかし、構っている事は出来なかった。

 死屍累々たる廊下に駆け出た時、お胡尹の通った座敷から追って来た火は既に天井の(うつばり)に燃え移ろうとしていた。みしり、という(たるき)が膨らむような嫌な音がし、背後で轟音が響く。

 直後、震動が床を震わせ、季節柄足袋(たび)を履いていたお胡尹は足を滑らせて転倒してしまった。熱がじりじりと頰膚を焼く、と思っていると、背後では焼け落ちた梁が廊下を塞いでいた。先程の座敷に居た人々は、もう逃げられないだろう。

(ごめん……だけど!)

 お胡尹は起き上がり、走りづらい足袋を脱ぎ捨てると、煤塗れになりながらも前進を続けた。火はもう何処がどう燃えているのか分からないので、消し止める事は難しい。煙を吸った肺が苦しく、刺激された涙が止まらず視界が遮られた。遮二無二走っていると行く手から引っ切りなしに堕ち武者たちが現れ、お胡尹は被害が拡大するのを承知でそれらを焼き払った。

 玄関に辿り着いた時、そこは押すな押すなの人(だか)りだった。最初から店先に立っていたはずの雪と猛は手を取り合い、人流に流されまいと足を踏ん張っている。

 お胡尹には、それを責める事は出来ない。今下手に動けば、転倒して圧死するか堕ち武者の餌食になる事は必至だろう。

「ゆっちゃーん! 猛くーん!」

「お胡尹、あなた……!」

 雪はこちらに気付いたのか、目を大きく見開いた。お胡尹はもう一度彼女の名を呼ぼうとしたが、その時彼女の顔が歪んだ。

「来ないで、お胡尹!」

「ゆっ──」

 足が、意思を受け付けなくなったかのように停止した。糊を流し込まれたかの如く思考が停滞する脳裏に、いつかの彼らの接吻(くちづけ)の光景が明滅した。ゆっくりと熱そうな吐息を零す、桜の実のように妖しく濡れた雪の唇──それは妓女として紅を点した今よりも、何故かずっと赤く思われて──。

「見つけたぞ、猫瞞しの女!」

 不意に、逃げ惑う人々を斬り捨てながら一人の堕ち武者が現れた。

 引っ提げた黒鉄(くろがね)色の太刀は、生々しく紅血色に濡れている。

 ──駄目、やめて。二人を殺さないで。

 お胡尹は自らの胸をぎゅっと掴む。懐に忍ばせたものの硬い感触に、お守りの如く縋ろうとする。しかし、その祈願は呆気ないものになった。

「お雪!」

 猛が腰の刀に手を掛けた時、

「若僧が……戦の経験とて、あるまいに!」

 赤黒い刀軌が、二人の居る場所を襲った。

 猛の手首が柄を握る前に断たれるのを──二人の首筋から血飛沫(しぶき)が迸るのを──彼らの目が見開かれるのを──折り重なるようにその体が傾倒していくのを、お胡尹は走馬灯の如く断続的に見た。

 二人が石畳に倒れ、その拍子に手と手がゆっくりと重なり合った。

 堕ち武者はさっと血払いをすると、まだ数滴(やいば)に残った雫を舌先で舐め取った。

「ふん、造作もない」

「ゆっちゃん……? 猛君……?」

 お胡尹は、ふらふらと二人に歩み寄った。がくりと膝を突き、まだ心の臓の拍動に合わせて血を噴き出し続けている傷口に触れる。温かかった。

「嘘……でしょ? こんな事って……」

「何だ娘? 標的を仕留めた以上おぬしなどに用は……いや?」

 言いかけた堕ち武者の言葉が、不自然に途切れた。どうやら先程屋根に現れた一団の中に居たらしい、こちらが法を使う霊能者だと気付いたらしく眉を潜め、やがてぎょっとしたように再度刀を振るおうとした。

「くたばれ、娘!」

「う……わああああああああっ!!」

 お胡尹の感情が、そこで爆発を起こした。

 未だに()()は、克服出来ていない事だったのだ。胸中で、悲しみ、怒り、混乱、あらゆる混沌とした感情が膨れ上がり、皮膚を突き破らんばかりに迸る。それに呼応したように、いよいよ窓や戸から漏れ出し始めていた幻炎が数倍に膨れ上がって早蕨屋を呑み込んだ。

 それが何処まで膨張し、色町にどれだけの被害を出したのか、最終的にお胡尹は分からないままだった。背後から襲い掛かった火風の中、自分に刀を振り下ろそうとしていた堕ち武者が焼き尽くされて灰となり、伏せていた自分の身を雪たちの上に叩きつけた時、懐から一本の櫛が飛び出した。

 (とき)色をした珊瑚の櫛。それは昔、雪が自分に譲ってくれたものだった。

 お胡尹は必死に手を伸ばし、吹き飛ばされようとするそれを掴んだ。その拍子に脇の下が裂け、限界が来た。

(おかしいな、私……こんな時なのに、こんなものの事、気にしちゃって……)

 熱さを感じなくなり、徐々に微睡(まどろ)みがお胡尹の意識を支配した。瞼が閉じるように頭に(とばり)が落ち、自分は死んだ。

 命を落とす直前の状態で時が止まった際、自分はずっとその櫛を握り続けていたそうだ。「夢遥かの世界」から自分を救出してくれた俊輔は、自分と雪の遺体を天照道から奪回した後、密かに回収しておいたというそれを再びこの手に、そっと握らせてくれた──らしい。

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