『夢遥か』断章 葉月⑥
「待ちやがれ!」
彼女を、三人の男が追う。彼らの掲げた灯りが闇の彼方に見えなくなった時、揉み合うような音と怒号、魂消るような奈美の悲鳴が谺した。
「奈美!? ……お前たち!!」
「連中は荒っぽくてな、ついやりすぎてしまう事もある。そうなったら不運だと思って、諦めて貰うしかない。だが、悪いのはお前たちだからな」
すぱり、と肩口が斬られる。あたかも致命傷を避けるような、皮だけを撫で斬るような動きだった。焼けつくような痛みに、凪紗は顔を顰める。
「俺は初鹿野麁鹿火、侍うべき主を間違えた男」
腹部が斬られる。思わず急所を庇うように背を丸めると、
「そして気付いた男。俺は力に選ばれたのではない、俺が俺自身を選んだのだと。だとすれば、従うべき意思は俺自身の自由」
その背を、逆手に握られた刀の切っ先で斬られた。
着物が裂かれ、帯の代わりに荒縄を巻いた腰の周りにだらりと下がった時、凪紗は怒りと屈辱で涙が滲みそうになった。
「奈美……奈美、ごめん」
「俺の勘は、お前がたまたまここに来たというのが嘘ではないと言っている。しかしそれなら、その運の悪さを恨むがいい。安心しろ、あいつらがやりすぎていれば、俺には残念至極だがお前には好都合だろう、小僧? あの娘とどっちが先に血を絞り尽くされるかは知らないが、同じ場所に行けるさ」
麁鹿火は言い、刀を凪紗の項に当てた。その鋼の冷たさが、肺腑の奥深くまでを冷やしていくように思う。それでいて、浅く皮膚を斬られて滲む血がやけに嫌らしい生温かさを覚えさせた。
「幽世であの娘を可愛がってやれ、小僧!」
麁鹿火の刀が、凪紗の首を落とそうと軽く振り上げられた。
が、その転瞬。
「ぎゃああああああっ!!」「グアアアアグルルルルルッ!!」
野盗の布裂く悲鳴と、凄まじい獣の唸り声が暗がりから響いて来た。続けて、ドタバタという揉み合うような音と、何か液体が撒き散らされたような湿った音。麁鹿火が、ぎょっとしたようにそちらを見た。「何だ──」
「やあああっ!」
凪紗はその一瞬を、見逃さなかった。
折れた刀を、麁鹿火の足首に思い切り突き刺す。腱を断たれ、
「なっ!? このガキ──」
再びこちらに注意を向けた時には、その体は後傾していた。咄嗟に振るったらしい刀は凪紗の首を逸れ、髪の先を一寸程切断して肩の肉に食い込む。痛みに顔を歪めながらも腕を振り、凪紗は麁鹿火の顎骨を斬り割った。
唇と鼻が、野盗の顔面から剝落した。両目は飛び出、戻らなくなったのか細い肉の紐を引いて垂れ下がる。その眉間に刃が至ると、凪紗はそれを思い切りそこに突き込んだ。
隙を突かれ、脳を貫かれた麁鹿火はそのまま仰向けに倒れ、動かなくなる。しかし凪紗は、落ち武者を倒したという実感も自らが助かったという安堵も感じる余裕を持たなかった。
「奈美!」
それだけを叫び、野盗たちの駆けて行った方向に走る。暗闇の中、何かに正面から衝突するかもしれないなどという事を考えている暇もない。
目の前が、突然明るくなった。
野盗が落としたらしい松明が転がり、燃え続けていた。その灯りの中、唐突に展開された光景に凪紗は足を竦めて立ち止まる。
野盗たちが倒れていた。皆腹を上に向けているが、引きちぎられた鎖帷子がいずれもすぐ横に投げ出されている。その下の肉は一様に獣爪に引き裂かれたと思しき痕が残り、肋骨が露わになっている者、腸が傷口から引き摺り出されて撒き散らされている者と、直視に堪えない状態になっていた。
その凶行を実行したと思われる存在が、そこに居た。
九、十尺程はあるだろうと思しき巨大な熊が、両の前脚を血に染め、歯の隙間から臓物の残骸を垂らしていた。本物の熊であれば凪紗も山仕事の際、遠目に見てそっとその場を離れた事がある。だが、これ程大きな個体を目の当たりにするのは初めての事だった。
麁鹿火と相対した時とはまた異質な恐怖で、足が棒のようになった。熊は毛むくじゃらの臀部をこちらに向け、暫し食い荒らした野盗の肉を咀嚼し、前脚に付着した血を舐めていたが、やがて顔を凪紗に向けた。
思考が停止した。その爛々と光る双眸が自分を捉えたのが分かったが、悲鳴を上げる事も、逃げようという意思すら働かない。
だが、熊は凪紗を襲う事はなかった。じろりとこちらを一瞥した後、余程熱いのか空気が白濁する程の生臭い息を吐きながら、固まるこちらの横をゆっくりと抜け、出口の方向へ歩いて行く。
熊の姿が闇の中へ消え、唸り声の谺が遠ざかって行った後も、凪紗は自分が無事だったという事を悟るまでに長い時間を要した。
力が抜け、がくりと頽れてはっとする。
「奈美──」
言いかけた刹那、先程まで熊が立っていた場所の向こうに倒れている小さな体が目に入り、呼吸が止まりかけた。
血溜まりの中、奈美が倒れていた。その胸から着物の裾までが、赤黒く染まっている。その体の荒れ具合から、野盗たちのように今し方の熊にやられた訳ではない事は一目瞭然だった。それよりも早く、野盗たちにやられたのだ。
血溜まりは未だに、ゆっくりと広がり続けていた。胸から背中の方まで貫かれている。凪紗は這い進むと、震える手で彼女の頭を持ち上げ、自らの膝に載せた。
「嘘だよ、こんな事……なあ? 奈美が死ぬ訳がないよ……」
その譫言のような声が、自分の口から出ているという事にすら、凪紗は気付けなかった。
奈美はぴくりとも動かない。失血しかけているのか唇は青くなり、真っ白な頰膚は土気色と化していた。しかし彼女がまだ息絶えていない証拠には、最早手首に指を当てては感じられない程の微かな脈拍に呼応し、その血液が少量ながらも噴き出し続けていた。
「嘘だって……嘘だって言ってくれよ、奈美」
半ば口から零れるに任せて呟きながら、心の中では全く別の事を言っていた。
──俺のせいだ。俺が、彼女に心配を掛ける事のない程刀術で熟練していれば。俺が、最初から奈美の呪縛者に関する知識を疑いなく受け入れていれば。麁鹿火の勘が封じられた強力な法で凄まじい精度を持つ事に気付いていれば。
激しい後悔が募る。
退散を決めた時、転んで音を立てなければ。山慣れしているなどと、自らを過信しなければ。そもそも初めから、奈美が孔舎衛山に行こうと言い出した時、きちんと彼女を止められていれば。
だが、そのような事をどれだけ悔やんでも、取り返しはつきそうになかった。
「奈美……」
もう一度呟き、涙が頰を伝った時だった。
視界が潤んだ一瞬のうちに、そこに見知らぬ人の姿が出現していた。
あまりに唐突に、何の前触れもなくごく自然に現れたので、凪紗は自分が幻を見ているのではないかとすら疑った。
「………? あなたは?」
この世のものとは思われなかった。老人──なのだろう。しかし、どうもそのような印象を受けない。蒼髪は膝に届く程長く垂れ、頰から顎にかけて豊かな垂髭の朱顔は棗のようでもある。衣は祭司が祈年や新嘗祭などの儀式で着用するような一繋ぎの白套で、埃っぽい洞穴に長く居たとは思われない程清らかだった。
その神々しさに、凪紗は目が離せなくなった。直視してはならないような気がするのに、一度見てしまうともう動けないのだ。
回る頭だけを回すうち、凪紗はその正体に思い至った。
「魄允子……?」
呟いた時、その人物が微かに顎を引いたように見えた。
肯定の意か。そう思うと共に、先程の熊の事が脳裏を過ぎる。洞穴に入った時、獣の臭いは微塵も感じられず、また周囲にそれらしいものがうろついているような痕跡も発見されなかった。その上先程の熊は、野盗たちを明らかに食べる量よりも多く殺しながら、同じ場所に居た奈美──恐らく先程の時点で誰よりも濃厚に生血の匂いを発していたであろう彼女には手を出さなかった。
「あなたが、さっきの熊を?」
「………」
再び、老人が肯く。気付いた時、凪紗は彼の足元に縋りついていた。
「お願いします、魄允子! 奈美を……奈美を助けて下さい!」
「………」
老人は依然黙ったままで──やがてその首が、ゆっくりと左右に振られた。
凪紗は目を見開き、「どうして!」と叫ぶ。
「あなた、仙人なんでしょう!? 命をどうこうするくらい、朝飯前のはずじゃないんですか!」
「………」
一向に口を開かない彼に、凪紗は焦れったくなった。
「見返りが必要なのか? なら、俺に出来る事は何でもする! 命だってくれてやってもいい! だから頼む……頼みます。奈美を救ってやって下さい。この通りですから!」
埃塗れの土に、頭を擦り付けんばかりに額づく。
──最早人である事を辞めた仙人に、人の願いは通じないものなのか。
凪紗がそう思いかけた時、徐ろに老人が動いた。ゆっくりと手を伸ばし、自分の足元に蹲る凪紗の肩に手を置く。否、それは「触れる」と言った方が正確な程軽い置き方で、凪紗は目視してそう思わなければ重さを感じる事が出来ない程だった。
老人の口から、微風のような音が漏れた。何か祝詞のような言葉を唱えているらしいが、何と言っているのか聞き取れない。
凪紗が目を円くした時、不意にそれは起こった。
「えっ?」
思わず、老人の手の触れている場所を見る。肩、最初に麁鹿火に斬られた箇所から発光が起こり、それは瞬く間に凪紗の全身へと広がっていく。
それが肌全てに及んだ時、体内から大きな力──としか表白しようのない何かが突き上げてきた。光と衝撃が起こり、それは皮膚の内側で爆発を起こしたかのように思われた。凄まじい痛みが全身を包み込んだ、と、認識して、感じ始めた時には、既にそれは心地良い浮揚感に置換されていた。
体から、魂がすっと抜けたような気がした。そう思った瞬間、体から発された光が浮き上がって目の前に漂ったので、凪紗は本気でそれを信じかけた。
だが、違った。光はその場で円環状に形を変え、回転を始める。と、同時に老人が凪紗の肩から手を離し、
「……っ」
短い呼気と共に、形成した手刀を光環に振り下ろした。
光環は音もなく弾け飛び、そのまま大気中に溶けるように消滅した。その瞬間凪紗は、一連の現象が発生し始めてから生じた一切の異質な感覚が、嘘のように雲散霧消するのを感じた。
はっと我に返った時、老人の姿は消えていた。
現れた時と同様、忽然とだった。
「夢……? 幻だったのか……?」
自らの意識の有無を確かめるように、声に出して呟く。しかしそうでない事は、自身がはっきりとした”戸惑い”を覚えている事で明らかだった。
凪紗は、先程までの凪紗ではなかった。
記憶──正確には記憶とも呼べないような、記憶があるのだ。歩く事は出来るし歩き方も覚えているが、それを殊更に記憶とは呼ばないように。
それが何であるのか、今やはっきりと分かっていた。
同時に、今自分が何をすべきなのかも。
(……奈美)
心の中でそう呼びながら、凪紗は横たわる彼女の顔を見下ろした。
微かな感覚に導かれるまま、恐る恐る両手を伸ばしてその血色を失った右手を包み込む。
体内を流れる自身の血液の脈動が、それを喪失しつつある奈美の肌へと伝播していく。彼女の掌皮が呼応するように拍を打ち、徐々に今拍動しているのがどちらの脈なのかが分からなくなる。
血液ではない温かな何かが、凪紗から流れ出し、触れ合う掌から彼女の中へと流れ込んで行く。
* * *
どれだけの時間、そうしていただろう。
凪紗の出血が止まり、傷が薄く塞がり始めた頃、奈美の瞼がひくひくと痙攣し、ゆっくりと開かれた。後から分かった事だが、凪紗よりも遥かに深い彼女の傷口はその時、完全に消え去っていたらしい。
この時凪紗が何を思い、何をしたのかという事は言うまでもなかった。
凪紗は既に、呪縛者ではなくなっていた。
その時まで存在すら半信半疑だった自身の法、「身献ぎ」。それは生命の源である気を、自分ではない他の命に分け与える能力だった。
ご精読ありがとうございます。断章「葉月」はこれでおしまいです。明日からは肆ノ章「恋煩い」に入り、再び鶴来たちのお話に戻りますが、凪紗たちのパートとは暫らく合流しません。断章の最初の方で奈美が「夢遥かの世界」を思わせる物語を書いていますが、鶴来たちの話は実はフィクションでした、などという話には絶対になりませんのでその点はご安心下さいませ。
もう一つ補足ですが、凪紗と奈美のパートでは「のりと」や「おちむしゃ」といった単語の漢字が鶴来たちのパートと異なり、我々が見知った字面になっています(法唱→祝詞、堕ち武者→落ち武者)。後者の方には傍点を打ってありますが、これらは誤字ではなく意図的なものなのでご心配なく。よく見ると意味も違っている事がお分かり頂けるはずです。
造語だらけの長い物語ですが、ここまでお付き合い頂けた事に改めて感謝を込めて。次回も是非宜しくお願いします。




