『夢遥か』断章 葉月⑤
「……何の音だ、今の?」
「高麗、お前が見て来い」
麁鹿火が仲間の一人を指名する。誰かの足音が近づいて来るのを感じ、凪紗はしまった、と思ったがもう遅かった。
「誰だ、そこに居んのは!? 俺たちの話を盗み聴いてやがったな!?」
うかうかしていたら、本当に見つかってしまう。そしてこちらの存在が、野盗たちにとって望まないものである事は明らかだった。
何しろ、村を襲う計画についてである。余所者がこれを聞き、村人たちに密告するような事は、向こうとしても何が何でも避けたいはずだ。
凪紗は奈美の手を引いて立ち上がり、短く言った。
「全力で走るんだ!」
「あっ、凪紗──」
「誰か居たぞ! 逃げやがった、マズいぜ」
様子を見に来たらしい野盗が、仲間たちに向かって叫んだ。途端に、背後の静寂が破れる。
「旦那の言葉が聞かれたな!?」
「野郎、誰だか知らねえがぶっ殺してやる!」
がちゃがちゃという武具の音、大勢の足音。彼らの掲げる灯りが、緩やかな曲がり角の向こうで段々明るくなっていく。距離が近づいて来ているという事だ。
振り返っている暇はない、と思いながらも、抗いきれず凪紗はちらりと視線を後方に向けた。そこに、涅色の袖なしの貫頭衣と鎖帷子を纏い、斑鳩の嘴を模したような覆面を被った男たちの姿が見えた。
奈美は今にもへたり込んでしまいそうな心理状態だろうにも拘わらず、気丈にも泣き言一つ言わず凪紗の走りに着いて来る。しかし息遣いは荒く、恐怖が体力を余計に消耗させているのだ、と思った。
間もなく、凪紗たちが分岐した二又の道に出た。何とか懸命に距離を開き、野盗たちの持つ灯りが届かない闇の中に紛れ込む事が出来ている。凪紗は奈美の手を引いたまま、壁伝いに手探りでもう一方の道に入った。
壁に背中を預け、松明の灯りとそれに映し出される怪獣のような野盗の影が出口側の道に現れるのを観察する。影が十分に膨れ上がり、薄らいで消えた時、最初にこちらを発見した男──高麗と呼ばれていた──がこちらに背中を見せて前方に進み出て来た。
「畜生、何処に行きやがった?」
「そのまま先に行け。首、任那、不等は俺と残れ。もう一度確かめる事がある」
「合点だ、旦那!」
麁鹿火の声に応じ、高麗が通路の先へ駆けて行く。その後ろから、実に夥しい野盗たちが列を成して続き、火の玉となりながら闇に溶け込んで行く。彼らは非常な低姿勢で、地面を嗅ぐように半ば這って歩き、山野での活動によって育まれたらしい長い手足も相俟って黒い蜘蛛のような印象を抱かせた。
最後に悠々と現れた麁鹿火は、一目で初鹿野の親玉だと見て取れる出で立ちをしていた。皮膚に密着するような、首から脹脛まで一繋ぎの黒い服。その上に、灰を被ったように黒ずんではいるが元々は極彩色だったのであろう事を匂わせる鎧を纏っている。ちらりと見えた横顔は酒精でも帯びているように赤く、奈美が以前語り部に聞いたという”鬼”とはこのような容貌だったのではないか、と思わせる程に恐ろしさに満ちていた。
彼に指名されたと三人と思しき影が現れた時、麁鹿火は「さて」と言いながらいきなりこちらの道を振り返った。凪紗と奈美はまだ辛うじて影の中に隠れているが、彼の仕草はあたかもここに自分たちが居る事を知っているかのようだった。
嬲るようにじわじわと、麁鹿火が歩を進めて来る。凪紗は息を殺し、奈美と一緒にその速度に合わせて爪先で奥へ移動する。
「本当に大事な件は、俺がこの目で見届けない事には安心出来んからな」
「だ、旦那。まさか俺らだけ残ったのは、わざとなんで?」
「ビビるなよ、首。こそこそ穴虫みたいな真似をして、バレたと思った途端逃げ出すような奴なら大した事はない。俺の勘も、そこまでの相手ではないと告げている」
──最早逃げられないか。
凪紗は覚悟を決めると、奈美に囁いた。
「奈美、ゆっくり奥に這って行くんだ。焦っても、絶対に走っちゃ駄目」
それで、彼女は自分が何をするつもりなのか察すだろうと思った。そして、止めてくる事は予想が出来たので、有無を言わせず身を翻し、野盗たちの灯りの届く場所まで飛び出す。彼女の恐怖心が、その場から彼女が動く事を許さないで欲しいと願いながら。
姿を晒した自分に、麁鹿火以外の三人が微かに顎を仰向けた。無論怯えた訳ではなく、驚いたからだろう。「何だと、ガキか!?」
「とはいえ、刀を帯びているようだな」
麁鹿火は呟くと、面白がるように口の端を少し上げた。
「坊主、お前何しにここに来た?」
「………」
凪紗は答えず、無言で刀の柄に手を掛ける。
「俺たちがここを根城にしている事を、知ってという訳じゃなさそうだな」
「………」
今度は、微かに顎を引く。内心では今にも心の臓が破裂しそうで、上手く戦わずに切り抜けられるならばそれに越した事はないと思っていた。
それ以前に、凪紗は自分が落ち武者の麁鹿火に勝てるなどと思ってはいない。ただ敵に、ここに居るのが自分一人だと思って貰えれば、最悪自分が斬り殺されるような事になってもその魔手は奈美には及ばないのではないか──そのような考えが、胸裏に浮かんでいた。
麁鹿火が「ふむ」と肯き、更に問うてくる。
「お前、茅渟のガキか?」
「………」凪紗──肯定。
「俺たちが怖いか?」
「………」──肯定。やや間を置きつつ。
「俺たちが喋っていた事を、村の連中に伝えるつもりか?」
「………」──不動。否定も肯定もせず、ただ麁鹿火たちを睨みつける。
我慢出来なくなったように、首と呼ばれた男が鏃型の短い尖刀を抜いた。
「旦那、駄弁ってねえで殺っちまおうぜ。こいつ、震えてやがる。そりゃそうだ、どうせその刀、ろくにぶん回した事もねえんだろ」
「まだ待て首。俺が喋っている」
麁鹿火は身を屈めるようにし、凪紗の顔を覗き込んできた。
「殺されたくないなら、命の代わりのものを貰いたい」
「何だ、それは?」
凪紗は自らを奮い立たせ、初めて声を出した。どうせそのような交渉をするつもりなどなく、端からこちらの口を封じるつもりなのだろうが、奈美が離れるまでの時間なら幾らでも稼ぎたい。
「その刀と」
麁鹿火は凪紗の腰を指差し、
「その娘だ」
次いで、その指を凪紗の背後の惣闇に向けた。
凪紗は振り返ろうとする自分の頭を、あるだけの自制心で止めねばならなかった。
「娘だあ? 娘が何処に居るんです?」
麁鹿火に問うたのは、彼の仲間の野盗だった。それで凪紗は、向こうから奈美が見えた訳ではない事を悟る。では、何故彼は気付いたのだろう?
「姿は見えない。だが感じる、俺の勘がそう言っている」
「よっ、いつもの旦那のやつか」最後の一人がニヤリと嗤う。「なら、本当に娘が居るんだろうな」
「……信じているのか、その勘とやら?」
凪紗は言い、そこではっとした。まさか、そのような事があるのか、とも思う。
「あんた、まさか……呪縛者か?」
「ほう、よく知っているな。だが、取り立てて不思議な事ではないぞ」
麁鹿火はやや得意げな表情になる。
「世の中に男と女が居るように、霊能者とそうでない奴が居る。俺はたまたま霊能者の方に属していて、呪者にはならないから呪縛を掛けられている。たったそれだけの話だ。小僧、お前もそうじゃないのか?」
「……感じるんだ、呪縛者同士の共鳴を」
奈美が言っていた事は、本当だったのだ。そして彼女は、呪縛者が法を使えない代わりに顕す不思議な能力については、封じられている法が強いものであればある程顕著になるとも語った。
凪紗は、これ程近づいても麁鹿火との間に”共鳴”は感じない。麁鹿火は一方的に感じているばかりか、極めて優れた勘で姿の見えない奈美の存在を知覚した。これは自分に比べて、相手の元の力が圧倒的に上だという事の証左なのか。副次的な効果だけで、それ自体がある種の法のように振舞う程──。
(落ち着くべきは俺だ、凪紗)
凪紗は、考え直して自らにそう言い聞かせた。
(幾ら勘が鋭くたって、どんな強い法を持っていたって、封じられているうちはただの人と変わりはないんだ)
「で、どうする?」
麁鹿火は畳み掛けてきた。
「刀と娘を寄越すか、命を寄越すか。決まったか?」
「奈美をどうする気だ?」凪紗は問い返す。
麁鹿火──獰猛に嗤って。「使い道は色々ある。今はまだ未熟なようだが、成長すれば立派に商いの道具になってくれる。見えはしないが、俺の勘がそいつは器量のいい女になると言っている」
意味が分かった瞬間、凪紗の体からぶわっと怒りの熱が散った。
「あいつにそんな事、させられるかよっ!」
興奮のあまり、気付けばそう叫んで麁鹿火に突進していた。
「残念だ」野盗の親玉は、ぞろりと野太刀を抜く。「俺の勘が、お前の攻撃は下から来ると言っている」
ガシャーンッ! と、物凄い音が鳴った。
下方から突き上げるように放った凪紗の刀が、反対──上から力任せに叩きつけられた麁鹿火の刀によって、一瞬のうちに叩き折られた。凪紗は我が目を疑い、猛烈な痺れと共に手から飛ぶ血を見る。
衝撃で、手首から下腕の半ば辺りが内出血を起こしていた。痣は膨らみ、皮膚を突き破って黒ずんだ血液を爆ぜさせ、それが凪紗には、あたかも斬られたかのような錯覚を起こさせたのだ。信じられなかった──敵うはずのない相手だとは分かっていたが、これ程容易く刀を折られる事になるとは。
「てめえ、旦那に何を!」
麁鹿火の手下三人が動きかけたが、
「野郎ども、俺はいい。なかなか面白い小僧だ、暫らく遊んでやる。それより、隠れている娘を捕らえろ」
彼は言い、洞穴の奥を顎でしゃくった。
凪紗は、声の限りに叫ぶ。
「奈美! 早く逃げろーっ!!」
「へっへっへ……なるほど。確かに可愛い嬢ちゃんだ」
「これならガキでもいいくらいだぜ」
野盗たちが松明で照らし、その全貌を露わにしたところで、
「凪紗……!」
奈美はやっと、躓きながら転ぶような足取りで駆け出した。
何故時間を稼いでいる間に逃げてくれなかったのだ、などと責めるつもりはなかった。凪紗を置いては逃げられない──何かあってもお互いを置き去りにしない、という宣言を律儀に守り、自分の身を案じてくれていた奈美の気持ちが、凪紗は嬉しく、それと同じくらいに悲しかった。




