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夢遥か  作者: 藍原センシ
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『夢遥か』断章 葉月③


          *   *   *


 兵役や納税の為に大人たちが(みやこ)へ向かう際経由する逢瀬ノ坂から、凪紗と奈美は孔舎衛山に入った。

 入ってすぐに熊笹や野蒜(のびる)の鬱蒼と茂った道なき道に行き当たり、昼前だというのに周囲が薄暗くなった。湿っぽい土の匂いが漂い、草萊(そうらい)を抜ける度に露で着物がじっとりと濡れる。

「奈美、さっき比較的通りやすそうな道があったけど、俺がそれを使わなかったのには理由(わけ)がある。ああいう所は」

「知ってるよ、獣道なんでしょ? 猪と鉢合わせする可能性がある」

 得意げに言う奈美に、凪紗は少々意外に思う。

「山には不案内なんじゃなかったのか?」

「それくらいの事はさすがにね。それに私だって、昔から日がな一日家に籠りっきりって訳でもなかったし」

 村の子供たちは人数が少ないので皆が顔と名前を一致させて互いを認識しているという事はあるが、だからといって常に皆で一緒に遊ぶ訳ではない。凪紗も奈美と親しくなるまで、彼女が普段何をして過ごしているのかという事に殊更(ことさら)関心を払って見てはいなかった。

「むしろ、小さい頃はもっと活発だったんだよ。冬でも海に泳ぎに行って、風邪一つ引かないくらい」

「そ、それは凄いな」凪紗はやや引き気味に(いら)える。

「昔から子供たちの遊び場は、海か山って相場が決まっているしね」

 老人たちのような口調で言う奈美に、凪紗はまだまだ彼女には俺の知らない面がある、と脳内で呟く。

 凪紗はむしろ、家が(きこり)と炭焼きをしていなければ野外で活動をする事は全くなかっただろう。息努老師からは男子にしては大人しいと言われるくらいで、幼い頃は父が京で土産に買って来てくれたでんでん太鼓や独楽などで(もっぱ)ら遊んでいた。村番衆に参加する為に刀術を修め始めてからも、その稽古はほぼ道場か家の周囲でのみ行っている。

 やはりそのような道を志す男児(おのこ)としては、普段から仕事以外でも山に入り、体を鍛える事に努めるべきなのだろうか。今度同い歳の同胞たちに聞いてみよう、と考えつつ草を掻き分けて進んで行く。

 山は登るに連れて木々の密度を増し、いよいよ間伐などの管理がされている様子も見られなくなってきた。雉兎蒭蕘(ちとすうじょう)(たぐい)は全く出入りしないようで、俗世との交わりを断った魄允子が人知れず(ぎょう)を行うには最適であるように思える。

「ところで奈美。魄允子の行について、語り部の人は何か言っていたか?」

「んー、彼が特にっていう訳じゃないけど、仙人全般については」

 絵空事の話だから何処まで信用出来るかは分からないけど、と彼女が前置きするので、凪紗はやや拍子抜けしてしまった。無論語り部は自らの話が絵空事である事を最初に断ってから物語をするのだが、彼女はいつもそれを本当の事だと信じているかのような口ぶりで凪紗にも伝えてくる。

「閉関っていって、岩窟に籠って面壁で何年も過ごすとか。あとは、自然の気と一体になる為に目を瞑って山を歩き回るとか。ものは食べなくても平気なんだって。ある人が昔、魄允子がその時駐箚(ちゅうさつ)していた場所を訪ねて行った事があるみたいなんだけどね、そこは霞が降りるような山奥のあばら()で書物が何冊かあるだけ、寝床も食糧を貯蔵する甕や樽もなかったんだって」

「何だかおっかないな、それは本当に人間なのか?」

「千年なんて生きていたら、とっくに人間辞めちゃっててもおかしくないよ。けど待ってよ、彼が呪者だとすると、そういう法って可能性もあるのかな?」

「不死の法、か」

「有り得なくはないでしょ? まあ、魄允子に関してはそれ以外の不思議な逸話も多いし、確信を持っては言い切れないけどね」

 奈美が言った時、唐突に山道が途切れた。

 目の前に広がるのは、ごつごつとした岩場だった。火山岩だろうか、斜面を覆うように広がるそれらは上に行けば行く程に大きさを増し、やがて縄を使わねば登れない程の切り立った崖になっている。

 崖の上の方は濃い霧に覆われて見えず、その麓には熊の口のような洞穴が黒々と開いていた。

「言っている傍から、岩窟が……」

「何か、如何にもって感じじゃない?」

 奈美は得心したように肯き、岩場に近づく。着物の裾を(から)げ、登ろうとするので、凪紗は慌てて追い駆けて肩を掴んだ。

「おい、まさかあそこに入るのか?」

「入らなきゃ、本当に魄允子が居るか分からないじゃない」

 彼女に平然と言われ、凪紗は両手首を振る。

「いやいやいや、そんな! あそこ、どう見ても大きな獣の(ねぐら)だぞ?」

「それなら、周りに餌場の痕跡があるはずでしょ。大丈夫、私たちが歩いて来た途中でそんなものは見られなかった」

「だけど、森全てを見てきた訳じゃない」

「私たちは比較的歩きやすい場所を通ったはずよ。それ以外の所は、草が茂りすぎてて歩けなかった。大きな獣が日常的に行ったり来たりしているようなら、それこそ獣道が出来ていて然るべきじゃない? あれは多分、山がもっと活発だった頃に火泥が流れ出した名残(なご)りだと思う。探せばもっと、獣の塒に相応しい環境の穴が見つかるんじゃないかな」

 奈美の言葉に、凪紗はぐっと言葉に詰まった。彼女はそんな凪紗の様子を見、やや訝しげな目つきになる。

「そもそも、大きな獣って何?」

「そりゃ、例えば熊とか、虎とか……」

「凪紗ったら。虎は渡海の獣だから、こんな所には居ないわよ」

「あ……そ、そうか」

 しどろもどろになる凪紗を見る奈美の目が、そこで悪戯(いたずら)っぽく笑った。

「もしかして、怖いの?」

「そんな訳ないだろっ!」凪紗はわざと声を張る。「刀だって、ちゃんと持って来ている。ただ俺は、その……奈美が危ない目に遭うの、嫌だから」

「ありがとう、凪紗。優しいね」

 奈美がほんのりと頰を染めるのを見、凪紗は増々へどもどする。彼女は自分の肩に置かれた凪紗の手を取り、指を絡めるように繋いだ。

「ほら、こうしていれば大丈夫。何かあっても、どっちかがもう片方を置き去りにしたりはしない。それに獣って、どんなに獰猛でもお腹が一杯の時は人を襲ったりはしないのよ。びっくりさせちゃったら暴れるかもだけど、熊とか狼は意外と臆病。刀があれば、傷つけずに威嚇するだけでも逃げられるわ」

「そうか……?」

「ねえ、凪紗。私の事、ほっとけないでしょ?」

「………」

 凪紗は、無言で奈美の目を見つめる。黒く、潤いのある小鹿のようなその瞳を見ているうちに、繋がれた手の柔らかな感触が妙に意識され、自然に鼓動が高まるのが分かった。

 それを彼女に聞かれる事が、やけに不安だった。

「……分かったよ。でも、何かあったらすぐに引き返す」

 意を決して凪紗が言うと、彼女は嬉しそうに肯き、二の腕を寄せてきた。

 微かに、ピリピリという感覚が(うなじ)に走ったような気がした。

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