『夢遥か』参ノ章 天読み(承前)㉓
⑧ 勝呂兵部
呪者の若者たちが出て行くと同時に、帳が降りるように光が強くなった。
その目映さに耐えられず、見開いた目を細めた玉響に情景が変化していた。群青色の空、水平線と境目を溶け合わせる同色の海原。漁火がその彼方にぽつぽつと見えるが、それらは天上の星と区別がつかなかった。
それらを翳める程の光源が、間近に浮かび上がって見える為だった。あの満艦飾の光、自分の心象風景。忘れていた訳ではなかった。それなのにどうして今まで、自分はこの輝きを心の奥底に封じ込めてしまっていたのだろう──。
「辰彦」
満艦飾を見下ろしていると、不意に声が掛けられた。
すぐ隣に、彼女が立っている。その瞬間、辰彦は手を伸ばしてその細い体を抱き締めていた。
「ごめんなさい! 私が愚かでした、痴け者でした!」
「辰彦……そんなに自分を責めないで。許しを乞うべきは、むしろ私です」
彼女は優しく、子供に返ったように泣きじゃくるこちらの背を撫でる。
「私を許して下さる?」
「何で、そんな事を言うのです……私はあなたに、酷い事を言った。酷い事をした……それなのに、あなたは……」
「嫌だわ、辰彦。そんな他人行儀な言葉遣いは止して下さいな」
頭に、温かな掌の感触が伝わる。
「昔のように私を呼んで。そしたら、私もあなたを許します」
「お琴……!」
「そうです、辰彦。私は、あなたのよく知っているお琴ですよ」
彼女は言うと、そっと体を離した。指先が、辰彦の手を探り当てる。
「初めて、あなたに抱かれた時──」
「………?」
「私は気が付いたのです。あなたはまだ、かつての私への気持ちを捨てきれてはいないのだと……自ら口にすると、自惚れみたいで恥ずかしいわね。けれどそれで、私はあなたとの契りの厳しさを悟りました。私があらゆる行為を以て懺悔しても、それは所詮、私自身の自己満足に過ぎないのではないかと。
そして私は、分からなくなった。あなたは確かに私に、女を見ていた。昔からあなたが、私を姉妹ではなく異性として捉えていたのだと分かったのは、それから暫らく経ってからでしたよ」
「そう……だったんだ」辰彦は、やや俯いた。
「おかしな事ではなくってよ。男女の違いを認識られる齢に差し掛からずとも、恋をする事はある。私が最初にそうと気付けなかったのは、きっと私の方が必死になっていたからだったのね。家を存続させる事は、皆が私に望んでいる事。そうとは思いながらも、あなたの居場所を私が奪ってしまったのではないかと怖かった。あなたに邪険にされる度、それが裏づけられるようで。
だから私、何とかしてあなたと仲良くなろうとしましたわ。けれど、別に媚を売ろうとしていた訳でもない。実際、あなたが初めて私に笑顔を見せてくれた時は、本当に嬉しかった。思えばあれは、出発点だったのでしょうね。どんな絆も、愛情も、そのような些細な事から始まるのでしょう」
辰彦は彼女の言葉を聴きながら、眼下の輝きにもう一度目を向ける。
──この光景が、始まりだったのだ。自分と彼女が、心を通わせる為の。だからこれを思い出さなくなった時、自分は大事なものが見えなくなった。
復讐を意図し、彼女を抱いた時の空虚感。
それは、真に彼女を愛する自分が心の奥底に居たからだった。
そう思った時、辰彦はふと大切な事を思い出した。
「お琴……」
「何ですか?」
「あの夢の世界で、俺が言った事……その、返事を聞かせて欲しい」
愛している、と叫んだ事だ。あの時は踟蹰する事なく大声で叫べたのに、今になって恥ずかしさが勝り、曖昧な暈し方をしてしまった。
彼女は辰彦を改めて見つめ、答えは決まっていたというように言った。
「私のあなたへの想いは未だに、兄弟に対してのそれという範を出でてはいないようです」
「……そうか」
「けれど」
彼女は、辰彦が肩を落とす前に付け加えた。
「生まれ変わって、再び私たちが巡り会う事があったならば──その時私は、きっとあなたを一人の男として好きになる。そんな気がする事は、事実ですわ」
夜光が、一際明るくなったような気がした。
辰彦は「分かった」と肯く。
「それなら、俺はきっとお琴に会いに行くよ」
また会えるはずだ。辰彦はその予感を信じる事にした。
彼女は驚いたようにきょとんとしてから、指先で微かに眦を拭った。
「ええ、待ってる」
夢の残像が、終わろうとしていた。
これから自分たちは、何処へ行くのだろうか。そう思いながらも、辰彦は怖い気がしなかった。
繋がれた手を結び目に、二人の体が光の一部と化す。浮揚感と共に、あらゆる色彩が一元化されていく。何処かに向かっている事を感覚する。
辰彦は琴と共に、その涯に思いを馳せた。
『夢遥か』参ノ章「天読み」はこれにておしまいになります。連載休止中を除いてもトータルで三十四日間の長さになってしまいましたが、お楽しみ頂けたでしょうか。最後の部分はやはり「あれ?」と思われる方も居るかと思いますが、作者は決して初期設定を忘れている訳ではないのでご安心下さい。いずれその謎は解消されます。
この章を執筆するに当たって大変だったのは、幼くして投獄された兵部が琴姫を「サイコパス」だったのではないか、と疑う場面や、鶴来の推理の際に琴姫は「遺伝の法則」を発見していたのではないか、と考える場面などで、それらの語がない世界背景の中で概念をどのように言い表すか、という事でした。舞台である日出国は日本とは似て非なる世界ですが、一定のモデルやルールブックはありますので……読みながらお察し頂けたのなら幸いです。
連載は明日以降も続行します。明日からは「断章」に入りますが、引き続き宜しくお願いします。




