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夢遥か  作者: 藍原センシ
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『夢遥か』参ノ章 天読み(承前)㉒


          *   *   *


「わしは、ものの見事に欺かれておった訳だ」

 琴姫様たちの姿が消え、白花の間に再び夜の(とばり)が降りると、堅塩は顎髭を撫でながら(おもむ)ろに言った。

「僻呪の契りがこのような弊害をもたらすとは思わなんだ。多少、興味深(おもしろ)さを感じさせる体験ではあった。だが、まだわしは彼の──猊下の()心に従わねばならない身である。後の事は勝呂殿、其方そなたが知っている通りよ」

「俺が……」

「『占縁の宮』は最早神託の一部たり得ず、猊下にとっての障りとなった。これは解体する(ほか)なく、わしは周辺諸国に神託を下し、伊勢ノ湾の(えき)を予定した。その最中に幻月を用い、()(おんな)を葬る為に。彼の女はそれすらも見越し、小(ざか)しくも後の事までをも抜かりなく調(ととの)えたがな」

 彼はそれだけ言い、矢庭(やにわ)に後退(ずさ)った。すっと滑るような足取りで、現れた時と同じく座敷の暗がりの中へと溶け込んで希釈されていく。

 僕は、慌てて「待て!」と声を掛けた。

「あなたは一体何者なんだ?」

「わしは呪者だ。(ことわり)(まつろ)う者、それを宿命とする者──」

 彼の姿は、やがて見えなくなった。

 僕は彼の消えた暗闇へと向かいかけたが、その瞬間、手首をぐいと掴まれた。

 振り返ると、兵部さんが滂沱の涙を零していた。

「俺は……今まで彼女に、何という事を……」

「兵部さん……」

「彼女はこれ程までに、俺の為に……それを、俺は自分の事しか見えずに……幼い頃からそうだった。彼女とて、運命を担わされた身……そうと分かっていながら、(つら)く当たる事しか出来なかった頃と同じだ。(あやま)ちを繰り返すばかりで、敢えて俺の感情を引き受けてくれていた彼女に甘えるばかりで……俺は彼女から、純潔を奪い、在るべき人生を奪い、果てには命までも……!」

「けれどあなたは、本当は彼女を愛そうとしていた。それが、実際には出来なかっただけです。最後にお琴と呼ぼうとして、姫様としか呼べなかったように」

 僕は彼の手を握り返し、囁いた。

「憎しみは、あなた自身を縛る枷でもあった。もう、それから解き放たれてもいいのでは?」

「鶴来殿……」

「愛したいという願いの果ての、永劫回帰の夢。抜け出す方法はきっと──」

 僕がそれを言った時、夜光が急にその明度を上げた。

 兵部さんが外に視線を向け、はっと泣き濡れた目を見開く。

 黒洞々(こくとうとう)と湛える深い夜の海に、彼が幼い頃、琴姫様と一緒に見た満艦飾の船が浮かんでいた。彼の唇が、音を紡ぎ出す。

「お琴──」


          *   *   *


 景色が土蔵に戻った時、壁際の兵部さんはあの満艦飾と同じ溢れんばかりの輝きに包まれていた。

 その光源は彼の前に立つ琴姫様だった。その姿は最早魔のそれではなく、優艶に微笑む見慣れた彼女のものとなっている。兵部さんを庇護するかのようにその背に手を回す彼女に、

「お琴、愛している!!」

 兵部さんは、(いまし)めを解くかのように叫んだ。

 琴姫様が笑みを大きくする。もうわざとらしさを感じさせる事のない、少女の頃の彼女が浮かべていたものと同じ。

 転瞬、俊輔たちの相手にしていた魔の融合体が方向転換した。取り込みかけていた兵部さんを解放させじとするように、今までで最も大きな咆哮を上げながら彼らへと飛び掛かる。

「すまん、鶴来! そっちに!」

 俊輔が叫んだが、

「大丈夫ですよ」

 琴姫様が振り返りざま、ふわりと浮き上がった。その姿が大きく、透き通る程に薄くなる。

 彼女はその(かいな)を目一杯に広げ、魔を包み込んだ。

 その四面の瞼が、心地良さそうに順に閉じていく。全てが閉じられた時、融合体の全身は細かな砂塵のように分解され、空気に溶けるように消えていった。

 琴姫様の姿もまた、そのまま透明となり、土蔵を満たす淡光となる。春の如きその雺光(むこう)の中で、兵部さんは彼女の温もりを逃がすまいとするように我が身を双腕(もろうで)に包み込み、嗚咽し続けていた。

 俊輔、弥四郎、お胡尹が僕の周りに駆け寄って来た。

 僕たちは並んだまま、兵部さんを見守る。

 僕はふと気になり、俊輔たちに尋ねた。

「ねえ、さっき僕が彼に言っていた事って……」

「俺たちにも、ちゃんと聞こえていた。全部分かったよ、琴姫の真意も、彼がどれだけ彼女に想われていたのかも」

 俊輔は肯いた。「色々思いがけない事はあったし、堅塩も現れたのは予想外だったけれど、夢惣備は完遂された。今は、それで十分だ」

「そうか……そう、だよね」

 戻ろうか、と俊輔が促した。「(うつつ)に」

「待ってくれ!」

 兵部さんが、(きびす)を返しかけた僕たちを呼び止めた。

「あいや(しば)らく、神子様方。……いや」彼は、先程の堅塩の見せた光景を思い出したらしく言い直した。「俊輔殿。鶴来殿、各々(おのおの)方。俺は──私は、これからどうなるのか? 幽世(かくりよ)に行くのだろうか? 私は彼女に、取り返しのつかない事を行ってしまった。きっと、黄泉津国に堕ちるのだろうか」

「兵部殿」

 俊輔はゆっくりと首を振り、言った。

「生まれ変わりなさい。悲しみも、愛情も、彼女から貰ったもの全てを──この世に反映された夢と共に(いだ)いて、あなたは行くしかないのです」

「皆さん──」

 彼は涙を払うように何度か目を(しばたた)き、深々と腰を折った。

「ありがとう」

 俊輔はこれに無言で会釈を返し、僕たち三人の肩に腕を回すようにして再び歩き出す。

 僕はもう一度、兵部さんを振り返った。

 彼は憑き物の落ちたように晴れやかな笑みを浮かべ、まだ涙露(なだつゆ)の残る目で光の来処を見上げる。その目が輝き、はっと見開かれた。

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