『夢遥か』参ノ章 天読み(承前)⑯
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辰彦は関所を越えた所で巍城と別れ、夜明けには伊豆国へと落ち延びていた。その後彼がどのようにして「榛名辰彦」の処刑を済ませたのか、駿河の家督相続を巡ってどのような手続きがあったのかなどの事は、辰彦は一切与り知らない。
辰彦は天城を越え、伊豆の半島の先でひたすらに刀術の鍛錬に努め、武の道を究めんとした。その流派が駿河の濤割流であった事に最初こそ大きな意味合いは感じていなかったが、時が経つに連れ、辰彦は己が過去を振り捨てきれずにいる為であると気付いた。
辰彦は家名を捨てて以来、自らのうちに暗く、一種残忍ともいえる心が育まれている事を自覚していた。
それは、宿命に抗い打ち勝つという「勝呂」の名から、身に沁みついた逆境への対峙心が拡大解釈されたのであろうと思われる感情、即ち復讐心だった。
巍城からは止められていたが、いつか駿河に戻る事を考え始めたのは、流浪の地で元服して名を兵部と改めるよりも前だった。自分の生涯を決定的に狂わせた娘、琴への復讐が目的だったが、無論駿河の領主に収まっているであろう彼女を母と同じように殺める事などは考えなかった。そもそも、それは面倒な手続きがなければ自分には不可能な事だ。
生きながらの地獄を味わわせようと思った。
その時彼女が味わう苦痛を思えば、どのような苦痛にも耐えられた。
十五年の放浪の間、一時期辰彦は顔に厚く包帯を巻いていた事がある。自分で刀を用い、顔の皮を剝いで肉や骨を削ったのだ。骨格を変え、再生する肉や皮膚の形を変える為だ。痛みを堪えて長い時間を掛け、再生を待ち、奇跡的に違和感のない別人の顔が出来るまで何度も繰り返した。下宿先では大いに気味悪がられたし、時には医術を知る者から止められる事もあった。骨の再生には肉や皮膚以上の時間が掛かる、あまり何度もそのような事をすると骨が薄くなり、簡単に砕けてしまうようになるだろう、と。
しかし、そうなる以前に”奇跡”は起こった。元々、顔貌の優れた榛名の血を引いているのだ、生来の高い鼻梁や長い睫毛と相俟ち、得心の行った顔は各地で天照道の祭祀を行う際、俳優を務める者たちのように美しいものとなった。
それは辰彦の将来の目的にとって、この上なく都合の良いものだった。
二十三の歳になって間もなく、辰彦は駿河に舞い戻った。武家に属さない傭兵を募る登用試験の際、受験者と共に入城した辰彦は、巍城の姿を見つけるや否や個人的に彼に接触をつけた。
顔を変えた辰彦、勝呂兵部がかつての陸姫の長男だと、巍城は最初気が付かないようだった。しかし自分がその姓の意味を語ると、彼は信じられないというように目を見開き、自らの執務室に辰彦を招いた。
「何故戻っておいでになったのか! あれ程申したものを!」
「全てを変える為にございます、巍城殿」
辰彦は、わざと遜った口調で言った。自分が最早榛名家との連関はないと強調した上で、別人として榛名に仕えるという意志を示す為に。
巍城は辰彦に対し、琴が今では榛名の当主に着任した事、分家から景吾、蔵人という若い男を迎え、それぞれを正配、側配として間もなく婚姻の儀が行われようとしている事などを告げた。辰彦はそれがどうした、と一蹴すると、巍城には感謝しているという旨ははっきり述べた上で琴に会わせるよう迫った。
特に事情は語らなかったが、彼は辰彦の気概に何かただならぬものを察知したらしく、初めはそれを拒んだ。しかし辰彦は諦めず、もし彼女に取り次いで貰えぬようであれば婚姻の儀で二人の夫を斬り殺すと言い放った。
琴は巍城から話を聴くと、あっさりと目通りを許した。巍城曰く、最初こそ驚いたようだったが最後には何処か面白がっているようにすら見えた、との事で、辰彦は改めて彼女の腹黒さを感じた。
彼女は家臣たちを皆下がらせ、巍城のみを控えさせた上で自分に会うと言ったそうだ。謁見の前、巍城は厳しく自分に言った。
「もしも姫様に対し、害意を持たれるような事がござれば」
「構いません。その時は、遠慮なく阿修羅にて私を殺せばいい」
辰彦は余裕綽々に言い、十五年ぶりに琴と顔を合わせた。
彼女は、変わり果てていた。辰彦が彼女を見て最初に浮かんだ語句は「淫婦」だった。
伸びた背、肉置きを増し女らしくなった肢体。天照に仕える「占縁の宮」の宮司らしく髪は垂髪にしていたが、そこに幾つもの簪を挿し、陸姫はあまり使わなかった白粉をべったりと塗り、派手な着物は上体が半ば露わになる程に襟を寛げ両の肩を下げていた。はっきりと述べれば、京の色町に居る花魁のようだった。
そしてその顔に、自信を漲らせながらも何処か作り物のような、相手を見下すような微笑を始終浮かべていた。
「お帰りなさい、辰彦。生きていてくれて嬉しいわ」
「それは幼き頃の私の名。今の私は勝呂兵部という名にございますよ」
辰彦は言い、立ち上がると、巍城が身構えるのも気にせず大胆な足取りで彼女に近づいた。
「改めまして琴姫様、遅ればせながら当主へのご着任、おめでとうございます。偽者の分際でよくそのような顔が出来ますね、ご当主様ご当主様と持て囃されてご満足ですか?」
「口が過ぎますぞ、勝呂殿」
容喙しかけた巍城を、
「あら巍城、あなたはこの会見中、口を差し挟まぬお約束ですよ」
琴は甘ったるい口調で制した。
「偽者? それは、母上の血を引きながら肝腎要の天読みを継げなかったあなたをこそそう呼ぶのではなくって?」
「あなたに我が母上を、母と呼ぶ資格などない!」
辰彦は怒声を叩きつけた。自らに主導権があると思い知らせる為、琴がどれだけ取り乱してもあくまで冷静に話を進めようと心に決めていたはずが、いざ彼女と対面すると感情が爆発してしまった。十五年間醸成され続けた自身の闇の深さに、辰彦は自ら驚く事になった。
他方、琴は怒鳴られても以前のように動揺する事はなく、極めて泰然自若とした態度を貫いていた。
「詮ない事でしょう? 天読みを継ぐ者が家督を継ぐ、そう決めたのはご先祖様ですもの。私を恨むのは筋違いというものですわ。それとも、母の死について皆が天読みの真実を知っていれば、あなたが無実の罪を着せられる事もなかったと仰りたいのかしら? 私が証言しなかったから?」
「しゃあしゃあと仰る。母を手に掛けたのは、あなたの癖に」
巍城がその事を知っているのかどうかは不明だったが、辰彦は言った。彼に聞こえても構わない、という気持ちはなく、単に夢中になるあまり彼の存在が頭から抜け落ちていただけで、言い終わってからはっとした。
しかし、巍城は琴に窘められて以降だんまりを決め込んでいた。
「それは彼女が望んだ事でしたもの。法の真実を知る巍城も、そうでない限り私が私の意思で手を下せる事など有り得ないと思ったはずですものね。ああそうだ、天読みの真実を開示しなかったというならば、巍城もそうですわね」
再びはっとし、辰彦は巍城を見た。彼は咳払いをした後、
「姫様。幾つかだけ口を挟む異例をお許し下さい」
「どうぞ」
「勝呂殿はあの時、姫様を絞め殺そうとなさいました。お世継ぎの命を狙った事は紛れもない事実、私がご先代の死と勝呂殿の犯行の是非について法の性質を証言して弁護を行ったとて、勝呂殿に下された裁きに大きな変化があったとは思えませぬ。この点は如何か」
澄ました顔で言う巍城に、辰彦はかっとなったが何も言わなかった。自分を脱獄させてくれた時、彼がそのような事を考えていたのかと思うと腸が煮え繰り返るようだったが、冷静さを失っては向こうの思う壺だと考えた。
全体この家には、狡知に長けた者しか居ないのか、と思った。
「それもそうですわね。……まあ、とはいえあなたが私にあのような事をした原因を糺せば、私の先代への自殺幇助とその際の言葉であったのは事実。兵部、あなた、私に償いをさせたいのですか?」
「如何にも」
「では、どう償えば宜しくって? 千万回土下座をしましょうか? それとも、腹を斬れば良いのかしら。しかし、斬ったところで呪縛を解かれた私には意味がありませんわね。一刻前に遡り、あなたが来ないよう門衛に追い払うよう命じれば済んでしまう事ですもの」
「そのような意味のない行為、私は求めませぬ」
辰彦は意地悪く嗤い、近づいた琴の生肌に触れた。
「あなたは子供心ながらに、不安になったのではありませんか? 私がやはり母上らの采配に納得出来ず、次期当主の座を狙い、将来我を通すのではないかと。憶測ですので答えずとも結構。けれど事実は、あなたは当主になるべく私を踏み台にしたという事です。事実、あなたが当主となったのは母上が亡くなられた為。そしてその為に私は、咎なくして斬首を言い渡された。そんな、私という男の存在をあなたに刻み込みます。呪いとしてね」
「遠回しな言い方は止して下さいな。つまりはどういう事かしら?」
「あなたに、体で覚えさせとう存じます。巍城殿によると、景吾殿、蔵人殿との式はまだ挙げていらっしゃらないのだとか。つまり床入りもまだ行われていないはず。あなたは、まだ処女であらせられる。それを私が奪えば、我が呪いは生涯、あなたから消えぬものとなりましょう」
眉一つ動かさない琴に、辰彦は駄目押しした。
「あなたを犯します」
暫し、沈黙が下りた。巍城は膝の上でぐっと拳を握り締めたが、琴がすかさず横目で一瞥したので言葉を呑み込んだようだった。
彼女は辰彦に視線を戻すと、改造された美しい顔をじっと見つめた。胡乱げに瞼を半ば程伏せ、唇から紅の香る息をふうっとこちらに吐き掛けてくる。その淫靡な仕草に、凶暴な衝動が体内で膨れ上がるのが分かった。
しかし、彼女は焦らすかのように時間を掛けた後、視線を逸らし、剝き出しの肩を竦めてつまらなそうに言った。「それはあなたの自己満足ですわね」
「自己満足?」
辰彦は負けじと嘲笑った。
「確かにそうでしょう。けれど、私の名誉回復だとお考え下されば、あなたにとっても償いになるはずですよ、琴姫様。あなたが天読みを持つ以上、私との間にも天読みを継いだ子は産まれる。そうすれば、私の子が次期当主の座に就く事になる。無論この事は、公にはなりません。榛名辰彦としての私は既に亡く、それに夫君以外の私生児が座を継ぐとなれば軋轢も生じましょう。その子は、景吾殿との子として頂いて構いません。
けれど、血は血です。陰なる律、呂は事実として過ちません。たとえ人々がかつての榛名辰彦を、呪われた若君への認識を改める事がなくとも、血の名誉は回復出来ます。嫌とは言わせませんよ、それを成す事は、嫡男である自分の人生を狂わせたあなた自身の、最低限果たすべき責任なのです」
「血の名誉ねえ。そのような、目に見えぬものに意味がありましょうか」
「客体に観測されぬ真実。それを蔑ろにする事は、天読みの苦痛をも知るあなた自身を冒瀆し否定する事になるのでは?」
「……なるほど。理屈は通っていますわね」
琴は言い、「では」と続けた。
「景吾殿や蔵人殿との夫婦の営みはどうします? 床入りの儀は? 彼らとの間に交わりがあれば、子が出来ても誰の子か判別がつかなくなります」
「さよう。故に、一切断って頂く」
辰彦──きっぱりと。言い切った時、未知の快感が体幹を貫いた。
「床入りは、行った振りだけをすれば宜しい。彼らにも、きちんと説明の責任を果たして頂きますよ」
「それはあんまりご無体な。私も女です。断れば如何なさるの?」
「先代当主、陸姫殺害の下手人があなたである事を風聞に流します。幸い、榛名辰彦という男は既に死んだ事になっていますので。噂が時に国政すら危うくする事は、歴史が証明しているでしょう?」
「その時は、私がこの場であなたを始末する」
いよいよ我慢の限界が来たのか、巍城が立ち上がって腕を振り抜いた。
しかし、その瞬間琴が
「分かりました」
はっきりと大きな声で言った。
「琴姫様」巍城が彼女を見る。「宜しいのですか?」
「ええ。私も、卑怯者と誹られるのは御免被りたいところですもの。それに彼も美しい容貌をしていますし、まあ私の秘事の相手としては悪くない──というか、結構なのではなくって?」
「よくぞ申して下さった」
辰彦は会心の笑みを浮かべた。琴は巍城に言い募る。
「私はもう決めました。その決定に不満でも?」
「……いいえ」
巍城は再び座り直すと、深々と低頭した。
「手前は、姫様に服う身ですから」




