『夢遥か』参ノ章 天読み(承前)⑮
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一連の事が運んでいる間に、自分たちの見えない場所に黒壁衆と名乗る者たちの存在があった事を辰彦が知ったのは、家臣たちによって牢に入れられてしまった後になってからだった。
天読みの真の能力を知る者──即ち当主が引退するまでの間、客体からその死を観測する事がないと知る者は、榛名嫡家の者たちと医師、専属の呪者のみ。その他の家臣たちにとっては、陸姫が誰かの手に掛かって死ぬという事は有り得ない事ではなかった。
「お城に現れた黒壁衆は皆殺しにされたらしいぞ」
「一体何者だったのかしら? 事もあろうに、ご当主様とお琴様のお命を狙うだなんて……」
「大方、甲斐の雇った忍だったのではないか」
「庵原の城下に、もう甲斐の手の者が?」
「おかしな事ではない。関所が破られたと聞いたのも、あの黒壁衆襲来から間もなくであったはずだ」
「惨い事よ。祐雄様も図書様も、山伏の役で正側両の夫君が陣没なされてしまうとはのう」
「なれど、守備はあくまで国境で成功したというではないか」
「本当になあ、ほんの小競り合い程度、没されずに済む道はなかったのかねえ」
「甲斐の者であったかは疑わしい。黒壁衆を率いていたのは、何と若様であったというではないか」
「信じとうはなかった。だが、お琴様のお首に手を掛けられているところに踏み込まれたとあっては、何の申し開きのしようもあるまい」
「あなた、そのような恐ろしい事を平然と」
「血を分けた妹君だぞ?」
「眉唾だが、彼女は陸姫様の真のご息女ではないとの噂があるが」
「妄言は慎まぬか。嫡女であったにせよなかったにせよ、天読みを持たれる以上我々の次の主である事には変わりはなかろう」
「陸姫様の外聞も考えよ。法を継いだ子を産めなかったなどと」
「うむ、別段我らは鰐口を風聞しようなどとは思わぬ」
「しかし、それが真実であれば若様のお気持ちも多少は分かろうというもの。他の武家では申し分のない男児であらせられながら、法という一点を以て次期当主の座をお琴様に奪われる形となってしまったのだから」
「それにしても、何故あのような恐ろしい者たちと結びつかれたのか」
「一人、二人は生け捕りにする事は叶わなかったのか」
「嫌よ、あんな悍ましい連中。死んで良かったわ」
「それが、黒壁衆をその場で皆殺しにするよう命じられたのは、巍城殿であったという話だが」
「巍城殿を責めるのは酷だ。お琴様の御身を預かる者としては当然の判断だろう」
「ああ、それにしても哀れなのはお琴様よ」
「母を亡くし、父を亡くし……確か、後見人に陸姫様の従妹様がいらっしゃったのではないか?」
「ああ、綾姫。ご先代の可愛がられた姪御様だ」
「ところが、その綾姫までが自害されてしまったとも聞く」
「何と。何故に?」
「分からぬ。此度の一件とは関わりなき事情なのではないか? しかし、そうなると本当に、お琴様は天涯孤独の身になってしまわれたのだなあ」
「その上、齢八つでご当主様とは」
「それは些か尚早なのではあるまいか?」
「いつまでも家督を空席にしている訳にも参らぬだろう」
「大丈夫、采女殿は聡明なお方だ。お琴様が就任された後も、能く彼女を補佐して下さる事であろう」
「そうであるに違いない」
「ああ天照、どうかお琴様にご加護を……」
牢にも、人々の噂はよく聞こえてきた。辰彦はそれにより、琴が陸姫を刺し殺したあの日、黒壁衆という謎の集団が庵原城に現れて彼女らを狙っていた事、自分がその指揮者と見做され、陸姫殺害の犯人とされている事を知った。
何が何だか、一向に分からなかった。
母は本当に琴を「穢れた娘」などと呼んだのだろうか? 琴はそれに絶望し、憤怒と共に母の自害を幇助したのだろうか?
天読みに伴う苦痛が、呪者の精神を磨滅させる事だとは知っている。
母は、自分たちに見せないだけでそれ程に澌尽礱磨してしまっていたという事だろうか。
では、そこに何故黒壁衆などという者たちが関わっていた?
摩耗をひた隠していた母の精神が、ほんの些細なきっかけでぷつりと切れてしまったその時、たまたま彼女の命を狙う曲者が城を襲おうとしていたというのか。そのような偶然がある訳がない。
真相を知りたい、自分に何が起こったのかを詳らかにしたいと辰彦は思った。
その半分でも話し得るのは実際に手を下した琴のみであるように思ったが、その後琴が口を割ったという話は一向に届かなかった。だが彼女が責められていないという事は、彼女は自分が陸姫を殺したという事は采女たちに語っていないという事だ。辰彦があらぬ疑いを掛けられ、母殺しの大罪を着せられているというのに、知らん顔をしているという事になる。
琴は、自分の事を恨んでいるのだろうか。考えると、今まで仲睦まじく過ごしてきた彼女の笑顔ばかりが思い出され、胸が絞られるような気になった。しかしそう思うと同時に、彼女が母を殺し、その上で嘲るような事を口にした情景が思い起こされ、激しい怒りが和やかな思い出を塗り潰してしまう。
或いは本当に、琴は「穢れた娘」なのではないかと思った。彼女が口にしていたような、血筋にまつわる偏見などではない。彼女の中には、あらかじめ本質的な邪悪さや狡猾さ、攻撃的で反世俗的な病的人格が宿っており、母はそれを見抜いていたのではないか?
そう思い、ぞっとした。話によると、そういった者は表面上は極めて魅力的で他者に好意を抱かせる事には天賦の才めいたものがあり、口達者であるという。これはまさしく、琴の事ではないか。
自分は今まで、そのような者と家族として暮らしていたというのか──。
辰彦は悪夢に魘された。
質の悪い眠りの夜がもう何度目になるか数えきれなくなってきた頃、八つにして肉親殺しの禁罪を犯した事、外患を招こうと首謀したという事で辰彦に斬首が言い渡された。本来、どちらか一つであっても獄門は免れない罪だった。
元々地獄に居るような気がしていた為、それを告げられた後も特に感慨は湧かなかった。殺すのならばさっさとしてくれ、という気持ちすら芽生え始めていたが、刑の執行前夜、思いがけなく自分を救ったのは巍城だった。
格子から朧月の光が差し込む丑三つの頃、彼が牢を訪って来た。
「若様、若様。目をお覚まし下さい」
「誰だ……って、巍城殿?」
浅い眠りからすぐさま目覚め、声を上げかけた辰彦を彼は「静かに」と窘めた。
「如何にも私にごさいまする。若様、ここに着替えと最低限の荷物をお持ち致しました。直ちに用意を整えて下さいませ」
「用意? 用意とは何のじゃ?」
「ここを出る為のものにございまする。私が直々に警護致します故、今宵のうちに庵原を離れますぞ」
巍城は言うと、辰彦の返事も待たずこちらの帯を解き始めた。
辰彦は面食らい、「あいや暫らく」と慌てて言った。
「何故じゃ? わしは明日、首を斬られる事になっておるのだぞ」
「ですから、夜が明けてしまってからでは遅いのです。私が采女殿と話をつけ、まだ元服前、齢一桁の若様を梟首にするのは忍びない、刑は手前と首斬り役人のみで行い始末するので許して頂きたいと請うたところ、許しを賜ったのです。あとの首斬り人につきましては如何様にもなりまする。武士は罪死の穢れを恐れます故、執行後の検めも私に一任されておりますれば」
「つまり……わしを逃がしてくれると?」
「そう申し上げているのでごさいます」
巍城はきびきびと言い、辰彦の身支度を整えた。「細かな事についてはお考えなされるな。ただ、命が助かった事をお喜び下されば良いのです」
「しかし、逃げて何処へ行けと?」
「何処へなりとも。但し、もう庵原には──いえ、駿河には戻らぬ方が宜しいかと存じます。この晩、榛名辰彦という個人は完全に死にます。今後は新たな名を……さよう、剣客として生くるならば新たな姓も必要となりましょう。勝呂とお名乗りになるが宜しい」
「勝呂……」辰彦は、その名を口の中で転がした。「その謂は?」
「元は、古より存在する姓だそうです」
巍城は元々考えていたというように、すらすらと口に出した。
「呂は律に対し、陰の音階。律とは法であり、また理を意味する呪術の用語にございます。勝呂とは天読みの法を継がず、それでいて榛名の宿世に背馳し、尚それにすら打ち勝つ者を意味します。若様は立派に、由緒ある武家の血を引く男児。過去を捨て、家との絆を断って尚、天のみぞ知る事実として縁を維持し続ける者なりと、私はそう考えました」
「巍城殿……」
辰彦は、歳若き呪者を真っ直ぐに見つめた。
「相分かった、最早事情は聞くまい。しかし感謝する。天のみではない、其方もわしが、矜持を持って何処かで生きている事を知っていてくれるのだろう」
「若様……」巍城は軽く頭を傾ける。「勿体なきお言葉」
「荷物は自分で持つ。馬を曳いて参れ」
「はっ、只今」




