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夢遥か  作者: 藍原センシ
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『夢遥か』参ノ章 天読み(承前)⑭


          *   *   *


 辰彦の方で周囲の者たちに対して心を開くようになると、琴がやって来てから如何に榛名嫡家にそれまで漂っていた靉靆(あいたい)とした空気が霧消したのか、という事がよく分かった。世継ぎを得られ、嫡家の天読みの継承が危ぶまれなくなった事で、母・陸姫の心のゆとりのなさが幾分か寛いだ為だろう。

「天読みの儀」の度に彼女が憂鬱さを見せ、気が立つようになるのは、恐らく月のものの周期にも似た事だったのだろう。そればかりはどうにもならないにせよ、彼女の性格が以前よりも穏やかになったのは事実だ。辰彦に対しても、琴に倣って交わるようになった下々の家族程にまでは及ばずとも、子に対する母親の温かみを以て接するようになった。

 七つになる頃には、辰彦と琴の間に長い間(わだかま)っていたものもすっかり消え、自分たちは(まこと)の兄妹のように絆を育んでいた。

 同い歳の為、どちらが兄姉でどちらが弟妹で、という事を殊更(ことさら)に考えた事はなかったが、辰彦は可愛い彼女がきょうだいである事を誇りに思っていたし、また彼女も辰彦を時に兄として慕い、時に弟として世話を焼き、その事に喜びを感じていたようだった。

 そう思っていたからこそ辰彦は、何故彼女があのような事をしたのか、未だに理解出来ない。


          *   *   *


 辰彦と琴が(よわい)八つの春だった。

 春告魚が遠州灘に帰り、芙蓉(ふよう)の山峰に見下ろされる駿河国の町にも里にも分け隔てなく桜が(ひら)いた。世は乱世とまでは行かずとも乱れ、近畿や瀬戸国(せとぐに)など西国では特に著しくなりつつあるようだったが、東国で特に強大な力を持つはずの駿河は不思議と戦火の(ちまた)にはならず、嘘のように穏やかだった。

 唯一戦雲の匂いを仄めかすような出来事は、昨年の師走(しわす)、父や陸姫の側配が家の多くの男たちを従えて甲斐国(かいのくに)との国境(くにざかい)に征った事か──。

 ともあれ、その日は(むが)しく花朝を迎えた。辰彦はその日、琴と陸姫と共に藤枝(ふじえだ)に花見に行く予定を立てており、琴が”それ”を引き起こしたのは牛車(ぎっしゃ)の出発から半刻前の事だった。

 本当に、何の前触れもなかった。

「母上! まだ余所(よそ)行きの支度は終わらないのですか? そろそろ頼んでおいた場所に人が参りますよ」

 久々の親子での外出に、浮足立った辰彦が母に催促しに行った時の事。

「お琴も何処へ行ったのやら。もしや、母上が自らおめかしを手伝ってやっているのではありますまいか──」

 呼ばわりながら母の部屋の襖を開けた時、辰彦は自分の眼前に広がる光景を信じられずに立ち尽くしてしまった。

 その凄惨さを受け入れる事を、心が拒絶していたのかもしれない。

 読本やら巻物やら、衣服やらが嵐に遭ったかの如く散乱した部屋。(しとね)も敷かぬ畳の上に横たわった母と、その傍らに正座する琴の姿。彼女は恐ろしい程に無表情な顔で、両手で短刀の柄を握っていた。

 その(やいば)は、真っ直ぐに母の胸に突き込まれて着物を赤黒く染めていた。

「お琴? 其方(そなた)……何をしておるのだ?」

 琴はその時、着更月(きさらぎ)を過ぎて衣替えを済ませ、春になってそれを着るのを楽しみにしていた桃色の小袖を身に纏っていた。刃の栓が抜かれない母の傷から血液が迸るような事はなく、突き刺した際に僅かに飛び散ったと思しき朱点がぽつぽつとその可憐な着物に撥ねていた。それは、べっとりと血が付いているよりも(かえ)って恐ろしく、陰惨な()に思えた。

 彼女はゆっくりと顔を上げると、光を失った──というより深い影を湛えたと言った方が正確な瞳を辰彦に向け、虚ろな笑みを浮かべた。

「辰彦、ごめんなさい。私、母上を殺めてしまいました」

「殺め……」

 口に出しかけてから、

「うわああああああっ!!」

 絶叫を上げつつ、辰彦は母の亡骸を跨いで琴の襟を掴み上げた。

「何故、何故このような事を!? 答えよ!!」

「母上は眠毒をお()みになられたのです。渡海の品で、大層よく効くものだそうですが、本当でしたわね。そして、母上は私に仰いましたわ。自分が眠った後、きっかり一刻後に心の臓を貫くようにと」

 琴は、ついぞ見せた事のないつまらなそうな表情(かお)で言った。「天読みが自然発動して一刻前に精神が遡ろうと、眠っていては未来は変えられませんわね」

「たわけ! 母上が、母上がそのような事を言うはずがない!」

「では、どう説明が出来るというのです?」

 彼女は辰彦の腕を掴み返した。

「巍城殿は彼女に呪縛を掛け直してはいませんよ? それで何故、こうして私やあなたが天読みの呪者である母上の死を観測出来ているのです? 私が独りで眠毒を手に入れ、彼女に嚥ませて刺殺したと?」

 辰彦は言葉を失った。確かに、琴一人がそれをこなすのは不可能であるように思われた。

 だが、仮に母がそれを琴に頼んだとして、何故彼女はそれにおいそれと従ったのだろう? 恩ある育ての母だというのに、何故そのような事を平気で成し遂げてしまえたのだろう?

 答えは、すかさず彼女が口にした。

「『お前のような穢れた娘を迎えるのではなかった』。母上は、自らを刺し殺すよう告げる前に、そう仰いましたわ」

「穢れた娘?」辰彦は呆然と鸚鵡(おうむ)返しする。

「私の事みたいですわね。でも、何の事やらちっとも分かりませんわ。大方、私の生みの母である綾姫が庶流の男に嫁いだ為でしょう。嫡流は純血、故に庶流は穢れた血の一族。そう思う心が、実に武家の嫡流らしく母上にも……いいえ、この女にもあったという事でしょう。四歳(よとせ)にも渡って、よくぞ私の前で表出しないよう努めてこられたなと、その点は感服致しますけれども。やはり、殿様は殿様らしく固陋蠢愚(しゅんぐ)な価値観をお持ちだった訳ね」

「よくも……よくもぬけぬけと、そのような事を言えるものだな!」

 辰彦は、瞋恚(いかり)のあまり視界が赤転したように思えた。衝動に身を任せ、乗り出した身をそのまま琴の上へと倒す。彼女はそこで初めて、無表情な顔を歪ませた。

 滾るような憎悪と、怨恨の色が漲っていた。彼女は掴んだ辰彦の手を唐突にぱっと放し、爪を立ててこちらの頰を引っ掻く。鋭い痛みに、辰彦の中で怒りの炎に油が注がれた。

 拳を握り込むと、それを琴の白い頰に向かって思い切り振り下ろした。髪の毛を掴み、引きちぎらんばかりに持ち上げて畳に打ちつけた。彼女も四肢をばたつかせてこちらの足や腹部を蹴りまくり、辰彦は袴の下で自らの体が皮下出血を起こし、腫れ上がるのを感じた。

 掴み合いの喧嘩が、どれだけの時間続いたのか正確には分からない。

 先にぐったりとなった琴の胸に乗り、我を忘れて首を絞め上げている時、突如廊下から大勢の足音が近づいて来た。

「陸姫様! お琴様! ……あっ!?」

 先頭に立った采女が、辰彦たちの有様と陸姫の亡骸を──その心の臓を貫いている短刀を見るや否や絶句した。

「若様……これは一体……?」

「采女殿、私は」

 辰彦は言いかけ、我に返って琴の喉笛から手を離した。

 彼女は既に、意識を失っていた。

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