『夢遥か』参ノ章 天読み(承前)⑪
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しかし、琴はそうではなかった。
「水際に参りませんこと? このように雲一つない日は水平線がいと美しく見えましてよ。もしかしたら、河口の近くでは海豚が見られるかも」
彼女は、こちらが困惑する程に明るく、押し強く辰彦に接してきた。彼女にとってそれは誰に対しても分け隔てのない態度であり、家格の異なる家臣の子らにも、庵原の城下町に出た時には町人の子らにもそのように振舞う。
「……いいよ、わしは行かぬ」
辰彦は短く返す。わざと、ぶっきらぼうに聞こえるように。
最初は応答すらしなかった。だが、あまりにも彼女がしつこい為、いつもこちらが根負けして返事をせずにはいられなくなった。それでも鬱陶しさを覚え、辟易する事には変わりなく、ある時堪忍袋の緒が切れて怒鳴りつけてしまった事がある。その時彼女は初めて涙を見せ、辰彦は得も言われぬ居心地の悪さを感じる事になった。それは気が咎めた為で、いつしか彼女を憎んで自業自得だと思う気持ちすら起こせなくなっていた事に辰彦自身が戸惑った。
琴の方は、翌日にはそのような諍いなど忘れたようにけろりとし、昨日までと同じようにぐいぐいと迫って来るのだった。
「どうして? 海豚ってとっても可愛らしいのよ」
「嫌だ。行かぬと言ったら行かぬ」
「うーむ」
壁の方を向いて背を丸める辰彦に、琴は腕を組んで考え込む。
何故か会話を滞らせてはならないような気がし、辰彦は早口で続けた。
「第一、其方は己が立場を理解しておらぬ。海に行って、万一引き潮に浚われるなどしたらどうするのじゃ? 溺れたら? 跡継ぎの身に大事があってはならぬと、其方の外出の度に家の者が付き添う事になるのだぞ。其方、わしらの遊びの為に彼らの手を煩わす事を、何とも思わぬのか?」
「うーむ……それも道理、ですわね。でも、皆さんそんなにお忙しいのかしら。一緒にお外で遊べば宜しいのに、残念」
「分かったならさっさと去ね。わしは忙しいのじゃ」
「そうは見えないけれど」
琴は尚も考え込むようにしてから、「そうだ」と手を打った。
「辰彦、それなら今宵、日の入りと同時に港まで参るのはどうかしら? 私、いいものを知っていてよ」
「嫌、黄昏を過ぎれば人攫いが出る」
「あら、庵原の市庭にそんな悪い人は居なくってよ。お城から港近くの四つ辻の角まで、私とっくに下々の皆さんとはお友達になったわ」
「嘘だ」
「嘘じゃないもん」
時折彼女の言葉遣いは乱れる。彼女は心外だと言わんばかりに頰を膨らませ、細い腰に両手を当てる。「下々を知らずして、榛名が務まりますか」
「どうせ俺なんて」
彼女の喋り方が乱れると、釣られて自分まで乱れてしまうのは解せない。
「そう、卑屈になる事もないと思うけれどね」
琴は小さく溜め息を吐いてから、そこで初めてやや控えめになり、もじもじと人差し指の先を合わせて動かした。
「その……もし、辰彦が来てくれる気になったら。その時は、門の所にある百日紅の木の下にいらっしゃって。私、暮れ六つ──酉三つまでは待っていますわ」
「………」
これ以上「行かない」と繰り返しても、彼女は同じ事を言うだけだと思った。視線を逸らし、無言で居ると、彼女は「それじゃあ」と手を振って身を翻す。
戸も閉めずに土蔵から駆け出して行く彼女の背を目で追いながら、彼女はいつも何が楽しくてあれ程はしゃぎ回るのだろうか、と辰彦は考えた。
* * *
結局、何故自分が彼女の言った通りの時刻、言った通りの木の下へ行ったのか、分からないままだった。琴は手持ち提灯を持った手を背中で組み、靴先で土に落書きをしたりしていたが、辰彦が近づくとぱっと顔を輝かせた。
その顔があまりに嬉しそうなので、辰彦は些かの気恥ずかしさを覚える。
「来てくれたのね、辰彦」
「采女殿らに止められても行く気だったのだろう。可惜跡継ぎを、一人でやらせる訳にも参らぬ」
憮然として言うと、彼女は増々目を細めた。
「大丈夫って言ったのに、それでも私の事、心配して下さったのね。ありがとう、辰彦」
「いや、わしは」
他人の言う事をここまで悪意なく受け取れる女子も居ないものだ、と、自らには似つかわしくないやや老成た思考が脳裏に萌した。琴は「うふふ」と声に出して笑ってから、辰彦の手を握った。
「こっちよ」
「こら、何をする」慌てて振り解こうとすると、
「だって辰彦、ちょっとそそっかしいところがあるんですもの。日の落ちかけた道で転んだりしては大変」
「それは」
お転婆娘に言われたくない、と思ったが、こちらが抗議するのも待たず、彼女は門の外へ駆け出して行く。辰彦は彼女に引っ張られたまま、榛名傘下の武家屋敷が並ぶ通りを抜け、港の方へ下って行った。
港の堤の上に至る頃、日はとうに隠れて空は藍鳩羽に色を変じていた。彼女はこちらの手を引いたまま石垣の端まで行くと、裙を穿いているにも拘わらず、尻の部分に砂を付ける事も厭わず腰を下ろす。辰彦はやや躊躇ったが、彼女に促されて蹲踞のような姿勢になった。
眼下の海は、深い群青色を湛えて縹渺と広がっている。星が出るにはまだ時が早く、水平線と空の境目も見えない。
「何なのじゃ、いいものとは?」
「じきに分かるわよ」
琴は波止場──榛名家の管理する軍港ではなく、漁りをする海人たちの船が停泊している辺り──を見据えたまま言う。はっきり言わぬか、と促そうとした時、突然にそれは起こった。
自分たちの見ている漁船のうち、一際大きなものがぱっと明らんだ。赤や黄、緑色の光が一斉に点灯し、船を琳琅を散りばめたが如く彩る。
辰彦ははっと息を呑み、刹那に目を奪われた。我に返って目を凝らすと、それらは船体に渡された細縄に吊るされた、色とりどりに塗られた提灯に入れられた火だという事が分かった。その火入れ作業を行ったらしい海の男たちが、一仕事を終えた満足感を滲ませるように腰を伸ばしたり、腕を振り回したりしている。
言葉を失う辰彦に、琴は何故か得意げに説明した。
「満艦飾よ。今日は沖に漁りに出ていた貔貅丸が帰港する日ですもの」
「貔貅丸?」
「知らなくって? 駿河で最も大きな漁り船で、半年前からずーっと沖へ出ていたのよ。海人の方々も、さぞお疲れの事でしょう。無事に帰れた事と、大漁であった事をああしてお祝いしていらっしゃるのね」
綺麗でしょう? と、彼女はうっとりと呟いた。
辰彦はその言葉に、素直に何度も肯く。その時辰彦は、海面に映ずる満艦飾の灯を更に頰に受け、仄かに熱を帯びたような彼女の横顔を可憐だと思った。
初めて、彼女を綺麗だと思った。
それに気付き、心の臓が大きく拍動するのを感じた。
「辰彦?」
矢庭に、彼女が見つめ返してきた。「何を、笑っているの?」
「笑っている……?」
言われて初めて、辰彦は自分がどのような表情をしているのかに気付いた。
琴は暫しきょとんとした顔で首を傾げていたが、やがて歓声を上げた。
「辰彦が笑ってる! 辰彦が笑った!」
「わ、わしは笑ってなど」
「わーい!」
横から抱きつかれ、辰彦は彼女諸共転倒してしまう。
「笑って、もっと笑って!」
「だから俺は」
必死に弁解を試みているうちに、何故か途方もなく喜ばしい気持ちが込み上げ、堪えられなくなった。笑いが声となり、口から零れる。琴もまた一層、溢れんばかりの笑顔を辰彦に向ける。
一頻り笑い終える頃には、辰彦は何がそれ程おかしかったのかも忘れ、考える必要もない程満たされた気持ちを味わっていた。




