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夢遥か  作者: 藍原センシ
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『夢遥か』参ノ章 天読み(承前)⑩

  ⑥ 勝呂兵部


 壁の紗綾形(さやがた)を数えていれば、時は(またた)く間に過ぎるものだった。

 辰彦は、細かいものを眺めるのが好きだ。飽きが来ない。それが取り分け楽しいという訳でなくとも、対象が尽きぬうちはする事がなく暇になる事はない。辰彦にとって、剣術の稽古や役立たぬ学問以外の時間は、ほぼ無限に近しいものとして存在していた。

 母が正配との間に二度目の懐妊を迎えるまで、辰彦は両親や家臣たちからの失望を一身に背負わねばならず、そればかりは自らの努力でどうにか出来るものではない宿命だったが故、最後の自助の(すべ)は目立たぬよう努める事だけだった。辰彦は努めて動きすぎぬよう心掛け、それは再従妹(はとこ)の娘が母に迎えられてからは一層著しいものとなった。

 もしも、彼女が自分の前に現れなければ。

 そのような仮定に、特段の意味はない。母の、自分に次ぐ二度目の出産が上手く行っていても、そして生まれた子が母と同じ法を引き継げていたとしても、辰彦はその彼または彼女に注がれるべき愛情から韜晦(とうかい)し、陰に徹するべく以前にも増して目立たぬ事を意識しただろう。

 自らが落伍者として冷遇される理由に、納得が行かない訳ではない。

 むしろ、納得が出来すぎるからこそ辰彦は、決して口に出す事は許されない反発の灯火(とうか)を胸の内に飼い続けていた。

 ──母上が俺を、天読みを持たせて生んでくれなかったのが悪いんじゃないか。

 ──あの娘を迎えた事だってそうだ。

 自らの成し得なかった事は、運命を理由に正当化出来る限りそうする。運命を理由に見損なわれて然るべき子供には、当然のようにそうする。故に辰彦は母を恨み、しかし肉親として憎みきる事は出来なかった。

 あの再従妹の娘も良く思ってはいなかった。それらの気持ちは全て、自分が父や母から愛されたかったという気持ちに帰結するものだった。それは、自らに彼らを慕う心がなければ生じ得ない力動だ。

 彼らからの愛情を横から攫った娘。

 そう思う彼女は、誰のせいでこのような目に、と腐り続ける辰彦の思いにはまるで頓着しないように自分を探し、(おとな)い、ここにやって来る。辰彦が身を隠すのに常々利用している場所、紗綾形を数え続ける土蔵へと。

「辰彦、またこんな所に居たのね。薄暗い場所にばかり居ると、目を悪くしてしまってよ」

 彼女は──琴は言う。いつも、慎ましやかとは無縁の笑顔で。

 何かしら(いら)えずにはいられないような気にさせる声で。

「お琴……」

 そして辰彦が、それに応える事が次第に大儀には思われなくなってきているという事も、確固とした現実だった。


          *   *   *


 駿河国領主、庵原城主榛名家の現当主・(クガ)姫の嫡男である自分。

 先代当主・石蕗(ツワブキ)の君の姪、陸姫の従妹である(アヤ)姫の長女である琴。

 どちらが榛名の跡取りとして重んじられるかと問われれば、他国であれば満場一致で前者だろう。しかし駿河は日出で唯一、直系の血筋よりも法の継承が重視される国だった。そういった意味では、不幸とまでは言わずとも、辰彦が不運な生い立ちであった事は否めない。

 家相伝の法、未来を知る力である「天読み」を受け継いでいる事。これこそが、榛名家当主に最低限求められる条件だった。そして、辰彦はそれを母から受け継ぐ事が叶わなかったのだ。

 陸姫は、榛名家に仕える呪者、宇角巍城に辰彦を診断させ、呪縛者でないと知った際露骨な失望を見せた。その代わりに自分が有し、後に累合せと分かる法が何なのかにまるで関心を持たなかったし、辰彦自身もそれをどういった形で使用するのかを知らぬまま成長する事となった。

 無価値と定義された自分。

 天読みとは如何なるものであるのか、それが榛名家──及びその裏の顔である「占縁の宮」にとって何の意味を持つのかを辰彦が知る事になったのは、ずっと後の事だった。その時はただ、両親や周囲の者たちを失望させてしまった原因が自分にあるのだと真剣に悩み、心苦しさを感じていた。

 陸姫の第二子の分娩は、困難を極めるものとなった。後に医師が告げた事には、彼女は辰彦の出産の時点で身体が著しく消耗しており、次の子を産めるかどうかすら分からない状態だったという。

 原因は明白だった。天読みの、呪者本人が体験する真実だ。

 死の瞬間から一刻前に精神が遡り、結果的に未来が読まれるという真実。呪者は客観から死を観測されなくなる一方、法が発動する度に死の恐怖と苦痛を味わう。特に国政に大きく関わる「天読みの儀」は過酷で、呪者の見た未来景、”星相”を告げる際には本人が”星告”より一刻先を待ち、自害せねばならない。この事実を知る者たちは、当主の嫡流のみだった。

 実際、先代当主である石蕗の君は「天読みの儀」が近づく度に憂鬱を滲ませ、心を病んだように生気を失い、また儀式後にも異様な消耗を見せたという。そして精神は身体にも計り知れない影響を及ぼす。陸姫はまだ晩年の石蕗の君程には抑鬱を進行させてはいなかったが、体は正直だった。

 第二子の分娩に於いて、陸姫本人が医師に語った事によると、彼女は何度も子を産み落とすと共に血の病で命を落とし、時を遡る事を繰り返したという。辰彦には母のその苦痛を我が事のように実感する事は出来ないが、それこそ想像を絶するものだったに違いない。彼女の訴えを聴いた医師は出産を困難と判断し、やむを得ず子は堕胎(なが)された。

 その後子供を作る事は不可能とされ、陸姫は国家老の采女や巍城と話し合った末に親族から天読みの呪縛者である養子を迎える事となった。巍城の診断の末、天読みの呪縛者として認められ、やって来たのが琴だった。

 辰彦たち一家の元を訪れた日、(よわい)四つの彼女は丁寧に頭を下げて挨拶した。

「この琴、一所懸命に励んで参ります」

 その時辰彦は既に、自らが”落伍者”である理由、天読みが本来どのような法であるのかなどの説明は受けていた。故に次期当主としての運命を唐突に背負わされながら毎日を溌剌と送り始めた琴に対し、本当に自分の置かれた立場を理解しているのだろうか、という疑念が萌した。

 彼女は将来、再び法を呪縛され役目から解放された母の死を見る。そしてその跡を襲い、今は未だ(きた)らぬ先への期待に膨らんでいる胸に、聖剣・斗星(ひきつぼし)を突き立てる事になるのだ。それを、分かっているのか。ただ幼心ながらに、ご当主様という「偉い役柄」を担う事となった幸運に喜んでいるのではないか。

 そう思った。

 自分は理解した上で、そうなる覚悟は出来ていた。それが叶わないと分かったからこそ、このような劣等感を抱かねばならなくなったというのに。

 他所(よそ)の巣で孵り、元居た子の居場所を略奪し、排斥しながら親の愛情を独り占めにする不如帰(ほととぎす)のような娘。辰彦は琴に対してそのように思い、決して深く交わる事はすまいと心に決めた。

 別段そう誓わずとも、空気に徹していた自分には、そう難しい事ではなかったのではないかと思う。

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