『夢遥か』参ノ章 天読み(承前)⑧
志摩兵たちは止まる事がなかった。四方から一斉に兵部さんに襲い掛かり、次々と斬撃を浴びせ始める。兵部さんは毒吐きながらもそれらを刀一振りで捌き、軽いものは鎧で受け、獅子奮迅の勢いで健闘する。
「鶴来、そこか!」
俊輔の声が、不意に耳に届いた。振り返ると、いつの間にか何処からともなく俊輔とお胡尹が姿を現しており、こちらに駆けて来るところだった。二人とも着物を煤に汚し、局所に軽い火傷を負っているが大きな怪我はしていないらしい。
ひとまず良かった、と安堵してから、僕は二人に兵部さんの方を示した。
「彼を助けないと」
「落ち着け、鶴来。彼はこの『夢遥か』の主観の人物だ、死ぬ事はない」
俊輔は言い、冷静に辺りを見回しながら呪符を取り出す。だが、僕はそれが俄かには信じられなくなってきていた。
彼はあまりにも──”現実”を生きているようだった。
「万が一の事もある、もしもあの蘇古常みたいに……」
僕が言い募ると、俊輔は「ああ」と応え、
「勿論、殊更に放置して様子を見ようと言っている訳じゃない。ただ、分かりきってはいた事だが敵が多すぎる。優先順位はまず俺たち自身の安全、それを見極めてからでないと──」
不意に言葉を中断させた。実際には彼はその先までを口にしていたのかもしれないが、僕はその時目に入った光景に気を取られ、聴く事が出来なかった。
兵部さんの左肩口に、先程彼が峯員に対して行ったように志摩兵の一人が刀を突き刺した。血液が吹き零れるのにも拘わらず、兵部さんは微かに呻いただけですぐに反撃、自らを傷つけた兵の耳鼻から上を斬り飛ばす。
「兵部さん、大丈夫ですか!?」
僕は俊輔たちの言葉を待つ間もなく飛び出し、俊輔、お胡尹も僕に対して警告の声を発しながらもやむを得ないというように続いた。しかし、
「邪魔をするなっ!」
兵部さんは、今までの僕たちに対する──少なくとも上辺は──慇懃な言葉遣いを忘れたかの如く喝破してきた。声を刀に載せ、更に三人の敵兵を屠る。が、先程一撃を加えられたのを嚆矢に、彼にも限界が訪れ始めていた。
彼の体から飛散する血液の量が増した。足元も一所に留まる事が覚束なくなり、右へ左へ、蹌々踉々とふらつき始める。一兵の横薙ぎが背後から甲冑越しに彼の腰椎の辺りを痛撃し、彼は前にのめり込むように自らが生み出した遺骸の中へ転がる。追撃を掛けるように一斉に振り下ろされた敵の切っ先を、横方向に体を転がして回避すると、そこには焼け崩れた天幕の柱があった。
赤熱し、半ば炭と化した木材が彼の脇腹を貫いた。口腔から胃液混じりの血の塊が吐き出され、眼球が飛び出さんばかりに剝かれる。
俊輔が我慢出来なくなったように呪符を放ち、更に追い討ちを狙った志摩兵たちの背にそれらを貼り付けた。呻き声を上げて脱力する兵たちだが、無論それは全ての敵を無力化するには到底及ばない。
全身をずたずたにされながらも、炎の中ではっきりそう見える程血走った瞳の一兵が、血刀を手に兵部さんに摺り足で近づいた。
「駿河の者、覚悟!」
突きが放たれ、僕が定まらない言葉で叫ぼうとした──その瞬間だった。
「兵部!」
海岸から、素早く割り込んだ影があった。志摩兵はその主を刺し貫くと、根本まで通したその刀の柄から手を離し、よろよろと数歩後退る。
「う……討ち……取っ……た、り……」
「あ、ああ……そんな」
どさりと倒れ伏す兵に目もくれず、兵部さんは自分の方に傾いてきたその闖入者の体を両腕で受け止める。彼は、とうに刀を投げ出していた。
お胡尹が夢患いの幻炎を熾し、俊輔の呪で倒しきれなかった敵を冷静に焼却していく。それすらも、兵部さんの目には入っていなかった。
「どうして船から出て来られたのです、姫様!?」
「ひ……兵部。大事はありませんか……?」
割り込んで来た影の主は、琴姫様だった。僕は言葉を失いながらも、例によって常に心の何処かに居る冷静な自分が「有り得ない」と呟くのを聞いていた。自然に、僕はその声に耳を傾ける。
琴姫様の法、天読みは未来を知る能力。しかしその真の有様は、彼女の死の瞬間から一刻前に精神が遡る事で客観的に未来を読んだように見え、客観からは彼女が呪縛者に戻らぬ限りその死を目の当たりにする事はない、というものだった。
そこまで思ってから、僕は自分が、彼女を既に死んだもののように見ている事に気付いてぞっとした。
そうだ──だから、彼女はここで死ぬはずがないのだ。
(……いや、そんな訳があるか)
自ら再度否定する。琴姫様は今、心の臓を真っ直ぐに貫き通されたのだ。その傷で生きていられる人間など、存在するはずがない。ならば何故、と思考は最初の時点に戻る。
彼女は何故、こうなる未来を読み取れなかったのか?
「姫様、あなたは何故私の事などを問うのです? 主君が臣下を庇い、このような傷を負うなど……私は認めません、全く馬鹿げている!」
兵部さんは取り乱したように叫び、琴姫様をかき抱く。その無我夢中ともいえる仕草に、琴姫様がふっと笑みを浮かべた。
「有り得ません……か、兵部? うふふ……っ、あなた、やはり……主従関係の在るべき姿について、分かって……いませんね? ねえ、兵部……あなたは畢竟、私の家来。可愛い僕……あなたをどうしようと、私の勝手ですのよ。ええ……嫌ですわね、私ったら。これじゃあ、まるで暴君じゃありませんか……私には、私の財産である家来を……守る、自由がある……」
「そのような屁理屈、聞きとうはありません!」
兵部さん──頭を振る。駄々を捏ねる子供のように。
「それじゃあ……屁理屈に聞こえぬよう、言いますわね……兵部。私、あなたの事……好きなんですもの。愛しています……のよ。愛に理屈は……不要、そうは……思わなくって……?」
「それは──」
兵部さんは唇を噛む。
「伴侶とすべき男児として、ですか? それとも……一時の愛人として?」
「うふふ……自信家ですのね、あなたは」
琴姫様は、笑みを湛えたままゆっくりと瞼を閉じる。
「私の夫は……夫たちは、ちゃんと決まっているではありませんか……」
「姫様!」
彼の声は、最早届かないようだった。がくりと首を後方に落とし、動かなくなった琴姫様の体を、兵部さんはしっかりと抱き締めたまま項垂れる。
「兵部殿! 琴姫様!」
防塁から、新たな人影が現れた。僕たちはその姿を見て声を上げる。
「弥四郎!」
「その声は俊輔、鶴来、お胡尹──そこか!」
現れた弥四郎は、僕たちの姿を認めるや否や満面に安堵の表情を浮かべる。しかしすぐに顔を引き締め、琴姫様を抱いたまま座り込む兵部さんへと視線を移した。
「残兵の掃討に手間取りました、申し訳ない。兵部殿、ご無事ですか? 琴姫様が先程……」
言いかけた彼の言葉が、ふつりと途切れる。
その目がもう動かない琴姫様を捉え、はっとしたように見開かれた。
「ひ……姫、様?」
「……貴様らのせいだ」
兵部さんの低い声音が、焼けついた空気を震わせた。彼は充血した目を炯々と光らせ、琴姫様の亡骸を横たえるや否や刀を拾い直して立ち上がる。
「何なのだ、貴様らは!? 貴様らさえ居なければ、彼女は死ぬ必要はなかった!」
「兵部殿!?」
俊輔が、ぎょっとしたように身を引く。兵部さんは刀を振り回して続けた。
「天照道の邪悪な奴ばら! 何が『占縁の宮』だ、人の運命をいいようにして、弄んで!」
「兵部殿、何を──」
「死ね、日出の寄生虫ども!」
彼はいきなり、弥四郎に向かって斬り掛かった。弥四郎は身を仰反らせるようにして跳び退くと、刀を握ったまま両手を挙げる。
「どうなされたのだ、兵部殿! 冷静に話をされぬか──」
「問答無用!」
一閃された刀が、弥四郎の胸元を薙いだ。バッと血飛沫が散り、弥四郎は翻筋斗打ってその場に倒れる。兵部さんは更に追撃を掛けようとし、
「弥四郎っ!」
俊輔が彼に向かって呪符を放つ。別段夢惣備の対象となる相手に攻撃する意図はなかったのだろうが、彼も咄嗟の事だったに違いない。兵部さんは宙空に眼光が光芒を曳く程の勢いで振り返ると、
「累合せ!」
俊輔の投擲した呪符の向きを反転させた。巻き戻るように俊輔へと襲い掛かる呪符だが、それらは彼の眼前でぴたりと停止する。弥四郎がそれらに対して、地面に蹲いながらも「時柵」の法を発動したのだ。
兵部さんは改めて彼に向き直る。「貴様の法、俺と相性最悪のようだな」
「やめてっ、兵部さん!」
お胡尹が幻炎を鬼火のように出現させ、兵部さんを取り巻く。彼が蹈鞴を踏んだのを合図にしたように、鬼火は彼の周囲をぐるぐると回転し始める。あたかも、彼は火の輪に巻き絞められるような形になった。
「累合せで向きを逆にしても、これなら大丈夫だよね!」
「お手柄だ、お胡尹」
俊輔は言うと、「鶴来」と僕を呼んだ。
「彼に刀を突きつけろ。色々と、説明して貰わなければならなくなった」
「俊輔……?」
彼の冷たい声色に、僕は思わずその横顔を見つめる。
兵部さんは僕たちを見回すと、「貴様ら……」と唸った。「本当に神子の一行なのか? 違うのならば説明するのはそちらだ、何故俺たちに接触した? こうなる事が分かっていたのか?」
「兵部さん──」
「言え、何故彼女は死んだ? 天読みの法ある限り、このような事は起こり得ぬはずだっただろうが。……いや、それ以前に何故彼女は死なねばならなかった? 何とか言ってみたらどうだ!」
「鶴来殿! 勝呂殿! 何処にいらっしゃるのか!?」
背後から、景吾さんの声が近づいて来た。
振り向くと、走って来た彼と巍城さんと目が合う。彼らはこちらに近づき、場の様子を見るや否やたちまち緊張を漲らせた。
「神子様方、これは一体どのような経緯ですか? 何故勝呂殿が縛められているのです? そこで、琴姫様が倒れていらっしゃるのは──」
矢継ぎ早に問いを浴びせてくる景吾さんに、僕はふるふると首を振る。
「分かりません……何故このような事態になってしまったのか、僕たちにはもう……何も分からないのです」
言っているうちに、無性に感情が込み上げてきた。
困惑ではない。悲哀──理由の分からない、唐突な悲しみの波濤──。
(分からない……本当に、分からないのに……)
視界が、唐突に滲み始める。景吾さん、巍城さん、兵部さんに琴姫様、俊輔、弥四郎、お胡尹──皆の顔がぼやけ、遠ざかっていく。本当に遠ざかっているように、音も次第に小さくなる。
収斂し、溶暗していく視界の中で、あちこちに燃える炎の明かりだけが一層眩しくなるようだった。そしてそれも見えなくなった瞬間、僕は自分が起きているのか寝ているのかすらも分からなくなった。




