『夢遥か』参ノ章 天読み(承前)①
④ 歴木雅楽
釣瓶落としともいう秋の日の巡りは速く、爽籟はとうに色を失くしてしまった。
彼岸も過ぎ、色なき秋風は今や爽やかさを逸して肌寒くすら感じられる。近衛府の寮にて夙早く目を覚まし、雅楽は小さくくしゃみをした。
枕元の襖に、夜軋りの悪戯だろうか細く隙間が開いている。夜半のうちに蓄えられた冷気が、その細さ故に真っ直ぐ顔に当たり、掛け布団と肩の間から褥の中へと入り込んで来る。
雅楽は畳の上へ体を滑らすように這い出ると、そこに畳まれた山藍摺の寝間着を羽織り、裸身を屈めるようにして襖の隙間を閉めに行く。桟をぴたりと合わせ終える頃には既に、体に蟠っていた火照りは霧消してしまっていた。
褥から唸るような声が上がった。振り返ると、そこに臥した男は先程まで雅楽に枕として差し出していた毛深い腕を抜き、額の上に投げ出していた。
「う……雅楽よ」
譫言の如く呟く彼に、雅楽は前を合わせながら挨拶する。
「おはようございます、中将殿。……起こしてしまいましたか?」
「いや……わしも今丁度覚醒たところじゃ」
男──頭中将は大きく欠伸をし、ごろりと体を反側させて俯せになる。その視線が、やや名残り惜しそうにこちらの肩に這った。しどけなく──と自ら表白するのは些か気色悪いが、わざとそう振舞っているのだから仕方がない──露わになった雅楽のそれは、女子のようなと言われる程の撫で肩だ。
「もう、天照寮へ上るのか?」
「私が戻らねば、堅塩が怒ります」
「天照頭殿がか……其方は神子となって尚、あの方に頭が上がらぬと見ゆる」
雅楽は曖昧に苦笑いを浮かべる。実際には早くここを出、勤務前に身を清めたいという事が大きかったが、自分が堅塩に対して頭が上がらないのも事実だ。だが、その理由はこれまでのように「部下として接してきた時間が長かったから」というものではなく、正体の分からぬ彼に対する恐れが根本にある。
皇家の正当なる霊統を継ぐ者、稲置家の末裔として決起するよう彼に教唆されてから、雅楽は表向きは言を明確にしないながらも行動を起こし始めていた。それに関連して、確かめておかねばならない事もあった。
凡下の輩である歴木の家から自分を取り上げ、神祇官としての天照寮への配属に便宜を図ってくれた頭中将は、舎人であった頃の自分に自身の男娼としての役回りを命じた。朝廷に於いて、上級職に在る者が部下や使用人に対し、上の立場を濫用して個人的に囲う事は男女を問わず風紀紊乱として戒められる。しかし、裏ではこのような行為は暗黙のうちに看過されており、男色に対しても取り沙汰される程の偏見は持たれない。
とはいえ雅楽は霊能者ではなく、天照寮に加わるにも呪者として呪祷官になる事は出来ない。偶然にも周防俊輔離反後の神子として神託が下らねば、自身と特別の結びつきを持たせて出世させようにも限界は目に見えている。更に、雅楽は自分の容姿が男の情をそそる程のものだとも思えなかった。
それが、頭中将が自分の真の血筋を知っていたと考えれば得心は行く。
(いずれ中将殿は、私を養子に迎える事を打診したやもしれぬ)
彼は野心家だ。しかし陰湿であったり、狡知に長けていたりする事はなく、潔く立派な人柄、学問や法政にも通じた人格者であるといえる。現在の上達部の中では、雅楽が唯一評価出来る人物だと言ってもいい。
彼もまた、堅塩と同じ考えだったのではないか? 太政官──大臣たちは当てにならない。目下の朝廷に必要なのは総体的な刷新策であり、希望は”裏”の存在である天照寮にしかない。そのように考え、神祇官たちを束ねる旗印に、装置としての神子ではない者が要ると判断したのではないか。
以前中将は伽に、自分がしまいには現在の太政大臣が致仕した後その役職に就きたいと語った事がある。豪快に大口を叩くのもこの中将の特質だが、あながち誇大妄想ではなかったのかもしれない。
──だが、お飾りにされる事だけはごめんだ。
是非を問う為、雅楽は彼岸の入りの頃、神子になってから初めて、夜密かに彼の元へ渡った。神聖な存在である神子を以前のように遇っては、万一事実が露見した時に申し開きのしようがないとして一度は断りを入れた中将だったが、雅楽はそこで彼を「父上」と呼び、共寝を迫った。それは以前、彼が雅楽に、自分に阿る時にそう呼ぶよう命じてきた呼称だった。
「父上、私は歴木の真の子ではないのですか?」
この問いに、中将はあっさりと肯いた。また、一頻り絡み合い汗をかいた後にも拘わらず、冷静にその懐疑の出所を雅楽に問い返す事も忘れなかった。
別段、その時点で自分が陰謀を企てている訳ではなかった。堅塩の意に従うとすれば、出方によっては”表”の人間である頭中将を敵に回す事になるかもしれない。しかし、こちらが疑問形の言葉を投げ掛けた時点でまだ彼は自分と堅塩が同じ考えとは思わないだろう、と思い、雅楽は堅塩から自分が稲置家の裔であると告げられた事を正直に語った。
中将は、その後多くを語らなかった。故に彼の思惑について、雅楽が思案を巡らせている事は全て推測の域を出ない。
ただ、彼が自分を寵愛するのは皇家の血を引いている為であり、それ以外の理由はないのだという事は分かった。
(もしも、大義というものがあるのならば)
以降も時折彼の腕に抱かれながら、雅楽は矜持の維育をやめなかった。
(それは私が自ら負うべき大義だ。誰にも利用はさせぬ)
「時に、雅楽よ」
上体を起こしながら、中将が声の調子を変えた。
雅楽は彼の肩に寝間着を掛けながら「何でございましょう?」と応じる。
「其方、山城に神人の私兵団を持ったとか……」
神人。天照道の関係者がこの言葉を使う時、それは自衛の為刀や槍で武装した禰宜と、法を使う呪者でありながら武士でもある魔戦士という二つの意味を持つ。中将が今後者の意味で使った事はすぐに分かった。
恐らく彼は、幻月の事を言っているのだろう。天照寮が山城国の呪者と結び、日出全土の諜報員として堕ち武者たちを利用している事は公にされていないが、風聞は思わぬ風に形を変えて伝わるものだ。現在雅楽は、彼らの差配を堅塩から完全に委ねられている。
雅楽は少々眉を潜めたが、中将には自らの後ろに居るこちらの表情は見えるはずがなかった。
「……いえ、そのような者たちには心当たりがありませんが」
「そうか。まあ、神子様には無用のものであろうな」
中将は自らに言い聞かせるように呟き、「よし」と言った。
「では行くが良い、雅楽。昨夜の事はくれぐれも口外せぬようにな」
恒例の台詞を口にする彼に、雅楽は
「承知しております、中将殿」
今度は「父上」ではなく、普段の呼び方をした。
下帯を着け、ずり落ちた肩と袖を整えてから帯を締める。廊へ続く障子の前で一礼し、閨を後にする。
脂のような臭いが着物に染みるのを感じ、早く朝の水垢離をしたい、と思いながら雅楽は徐々に白みゆく空の下を急いだ。
本日より『夢遥か』の連載を再開します。文庫本換算で二冊目です。当初は全部で三冊分になる予定でしたが、目下書き進めているうちにどうやら三冊では済まない可能性が浮上してきました。相当な長期連載になるかもしれませんが、飽きずにお付き合い頂ければ幸いです。
そして人名の読みをすっかりお忘れの方も居るかと思われるので書いておきますが、「雅楽」は「うた」、「堅塩」は「きたし」です。最初にルビを振った時、「物部堅塩」の名は姓と名の間に「の」が入るので「もののべ・のきたし」だと思われていた可能性があります。ややこしくて申し訳ない……ですが、彼に「の」が入るのはきちんと理由があるのでご了承を。




