『夢遥か』序章 色葉巡り③
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宵宮に打ち上げられる花火が「穂灯り」と呼ばれる由縁は、長月の稲刈りの前に村で見られる夜の稲穂灯りの光景だった。
豊かに金色の穂を付けた稲が風にそよぐと、村の夜は信じられない程明るくなるのだ。狭い畦道が、稲穂が受けた月の光に照らされて明るく輝き出す様は、この地の豊穣の象徴だ。
たわわに実った籾粒が重く風で振るい落とされるように、火花を細かく散らしながら太い光芒を描く日根の花火は、豊穣を願う最後の儀式なのだという。そして天高く打ち上げられたそれは、天照に蒼氓の祈りを届ける。故に、花火が上がった時に願い事をすれば叶うという言い伝えもまことしやかに囁かれている。
僕と沙夜の”隠れ家”は、その花火に最も近い場所だ。
「これより上、結界が張られているみたいだね」
古木の下に着き、築山の頂で太い根に腰を下ろすと、沙夜が登山道を見上げながら呟いた。
なるほど、古木の向こうには闇間を縫うように、百鬼の人形を囲っていたような縄が木々に結わえ付けられている。単に立ち入りを禁ずるだけのものでない事は、それらの”結び目”である木の幹に貼られた呪符でよく分かった。
斥邪結界、妖の行き来を阻む簡易的な領域。呪符を使うものなので、法を持たない者でも簡単に使用出来る呪の一種だった。
「妖、こんな所まで出るようになっていたんだ……」
「晋冥先生は、”厄祓い”の頻度を増やすべきだって仰っているみたい。野侍も活発になっているし、堕ち武者が村に妖を共連れする可能性もあるから」
沙夜は、少々寂しそうな顔になった。
「結界はあくまで一時的なものだからね。このまま妖の行動圏が広がったら、ここにも来られなくなっちゃう。次は……三年後、だもんね」
「沙夜──」
彼女は、来年から始まる僕の京の守護役の事を言っているのだった。
「駄目だな、私。鶴来君を困らせるような事言っちゃ……まだ、今年の花火も終わっていないのにね。ちゃんとお祈りしないと」
「沙夜はまだ信じてる、花火のおまじない?」
「本当の呪じゃない事は知ってるよ。だけど、願掛けってそういうものでしょ? 天照様お願い、って思う時、皆呪術について習った事なんか気にしていない」
「そっか……そうだよね」
僕は十を越える時まで、花火の言い伝えを本気で信じていた。今ではさすがに、天孫降臨祭に学んだ子供たちの作り出した迷信だと思っている。それでも毎年願い事をするのは、頭とは関係ない心の作用だ。
沙夜は買ってきた捻り飴の包みを解き、一つを僕に渡してくる。僕はお礼を言い、それを受け取った。
「来年も一緒に、宵宮を回りたかったな」
稲穂の上を風の流れるように、ごく自然にそろりと沙夜の口から零れた言葉が、思いがけない重みを持って僕の耳に届いた。
境内を通る強い風の一欠片が、森を抜けて木の葉をざわざわと揺らした。
「私、鶴来君と回る宵宮が好きだよ。あと何回繰り返せるかは分からないけど、もう駄目なんだよ、なんて言いたくないから……今、京で戦があったら戦うのは近衛侍の人たちだけじゃない。暗い話になっちゃってごめん、だけどこれからも、大人になっても、私は鶴来君と来たいから。分かるでしょ?」
いつもなら、彼女からこのような事を言われれば僕は無心に喜んだだろう。戦への恐れが、これ程現実感を伴っていなかったならば。
僕の心渡りは、彼女には通じない。名刀三家の間には、互いに法による干渉を行わないという呪術的な繋縛──”僻呪の契り”が結ばれている。これは日出国全土に於いて、家同士の最大の絆の象徴である。
法は、保持者が意図せずとも他者に働き掛ける事がある。不慮の事故で互いへの信頼を失くし、絆が裂けないようにする為にも、半強制的な”縛め”を掛ける事は重要だった。また法の有無はその血筋に関係しない為、僻呪の契りは「一族」にではなく「家」に掛けられ、その一族の血を引いていない者でも家に属している間は効力を持つ。
義貞公の実子ではない僕も、日向家に属しているうちは沙夜に心渡りを行い、内心を知る事は出来なかった。彼女が僕の事を、一人の異性としてどのように認識しているのか、という事を。
「帰って来るよ、僕は」
僕は彼女から受け取った飴をまだ舐めず、掌の上で眺めていた。
沙夜が、上目遣いに覗き込んでくる。さっと顔を近づけられる。髪が靡く。
彼女は既に飴を口に含んでおり、溶けた練り砂糖と彼女自身の匂いが混ざった、甘ったるいような香気が鼻を掠めた。
「僕も……これからも沙夜と一緒に宵宮に来たい。だから」
──京での三年間を終えて村に帰って来たら、その時こそ沙夜に想いを伝えよう。
そう、心に決める。
どれだけ、彼女に会いたいという思いが強まるだろう。きっとその時になれば、僕は躊躇ったりなどしない。たった三年のうちに、一緒に居る事が当たり前でなくなったとしても、僕の想いは変わらない──そんな自信はあった。
「鶴来君──」
沙夜が開口した時。
花火の一発目が打ち上がった。彼女は何かを続けたようだったが、遠い残響はそれを掻き消した。
稲穂灯りを思わせる黄金色の火花の軌道が、夜空に尾を引いた。その光の花弁が消えないうちに、赤、緑の炎が続けざまに上がる。
沙夜は口を閉ざし、木の根の上で腰の位置をずらした。薄い浴衣の生地越しに、やや汗ばんだ肌の温かさを感じる。僕の傍らに寄り添うように並ぶと、彼女は夜空を見上げた。
顔を近づけたら髪に触れてしまいそうな程の距離だった。
「沙夜……?」
恐る恐る、横から覗き込む。ねえ、と声を掛けようとした。
だが、僕は開きかけた口をすぐに閉じた。
背が伸びたからだろうか、山の下から打ち上げられる花火が、毎年大きくなっていく気がする。断続的に打ち上がり、散っては次の色と混ざり、絡み合いながら落ちる火の粉は、目に見える全ての群青を上塗りしていた。
あたかも日根の村だけでなく、和泉国全てを──延いては日出国の全てを照らし出すかのように。
「綺麗、だね」
沙夜が囁いてくる。先程よりも遥かに小さな声であったのに、それは花火の大音量に掻き消される事なく夜気のように僕の耳朶をくすぐった。
「そうだね……」僕は応じる。「本当に、綺麗だ」
「願い事しなくちゃ」
彼女は思い出したように胸の前で指を組み、やや俯きがちに目を閉じた。伏せられた長い睫毛に見惚れ、僕はそっと彼女の髪を撫でる真似をしてみる。
その瞼が開かないうちに、僕も瞳を閉じて願った。
──沙夜に、僕の気持ちが伝わりますように。僕と彼女の縁が、いつまでも切れる事のありませんように。
(それから……)
「また、二人で宵宮参りが出来ますように」
最後だけは、声に出して言ってみた。
それは、京の守護役から無事に帰って来られるようにという事だけを意味するものではなかった。今まさに叶っている事をもう一度願う程に、僕は今の状況に満ち足りたものを感じていた。
沙夜と一緒に居られるこの生活を──身近な平穏を守る為に武士を目指している僕では、さすがに京なんて大切な場所を守る事までは手に負えないかもしれないな、と何となく思った。
だがそれも、僕自身の生き方としては悪くなかった。
法を生まれ持つ霊能者でありながら、僕が呪者ではなく養父の跡を継いで武士になりたいと願ったのも、沙夜と過ごす日々を守りたかったからだ。
目を開けると、沙夜はまだ指を組んで目を瞑っていた。
やがてその瞼がゆっくりと開かれ、唇が動く。
「鶴来君は、どんな事をお願いしたの?」
「僕は……」
言えるはずがなかった──あまりに、気恥ずかしくて。
「……内緒だよ」
彼女は微かに微笑み、頰を仄かに赤らめた。視線を彷徨わせ、花火の上がる空に顔を向け直して小さく言う。
「おんなじだね。私も内緒」