『夢遥か』参ノ章 天読み④
* * *
眠りに落ちる前、うとうとと微睡んでいると時折陥る感覚だった。
高所から底知れぬ深い澗底へと落下して行き、地に到達したと思しき瞬間に軽い衝撃と共にはっと目が冴える。二度目の「夢遥かの世界」への潜行、現の僕が夢の中へと降り立った時の感覚はまさに、その布団の中で心の臓がびくりと竦む現象に似ていた。
元からそこに立っていたのに、今まさにその場所に辿り着いたような。移動もしていないのに、突然見知らぬ景色が眼前に展開されたような感覚だ。
「おっ、今回は鶴来も上手く入れたみたいだな」
隣に立っていた俊輔が、ほっとしたように胸を撫で下ろした。どうやら先の潜行時の失敗は、彼らに予想以上の心配を掛けていたようだ。ちゃんと出来て良かった、と改めて思いながら、僕は周囲の様子を確かめようとした。
刹那、揺れが来た。
足元が蹌踉とし、やはりまだしっかりとこの世界に足を付けられていないのか、と思った僕だが、よろめいたのは俊輔たちもまた同じだった。僕たちは四人で、誰からともなく手を取り合って踏み堪えた。
「何なんだ、ここは──」
俊輔が言いかけた時、次の揺れが来る。今度は足元から垂直に突き上げるような揺れで、僕たちはお互いの手に縋ったままふらふらと横方向に進んで壁にぶつかってしまった。と、同時に、僕たちのすぐ近くに置いてあった樽が滑り、傾斜となった床を滑るようにこちらに向かって来た。
弥四郎が手を伸ばし、時柵を発動した。樽は斜面でぴたりと静止し、僕たちはその間に壁伝いに線上から逃れる。時間停止が解除されると、樽は先程までこちらの居た壁に思い切り激突した。
「ぺしゃんこになるところだったねー」
お胡尹が口元を押さえながら言う。俊輔はぶるぶると頭を振った。
「中身にもよるけど、四人で固まっていたら誰かは大怪我していたな」
「何でこんなに揺れるんだろ? 海の上とか?」
「その可能性は大いにあるぞ」弥四郎が、お胡尹に応じつつ顎をしゃくった。「ここはどうやら、船の貨物庫らしい」
僕は、薄暗いその空間を見回した。
なるほど、弥四郎の示した通り、そこには束ねられた矢や、武器や食糧が入っているのであろう大きな桐箱や樽、水甕などが置かれていた。真水を大量に持ち込んでいる事から考えて、恐らくここは海上。潜行前に弥四郎が説明した事と、兵部さんの眠っていた庵原城の部屋から見た光景が思い起こされ、現在ここがどのような状況なのかはすぐに理解出来た。
そしてそれを裏づけるように、頭上で鬨の声が上がった。
「甲板に出よう。十分に気を付けてな」
俊輔は言い、未だに続いている揺れに翻弄されぬよう壁に掴まりながらゆっくりと進み始める。このような内部構造を持つ程の大きな船は、渡海の商人と交易を行う鎮西諸国の領主たちの他に持っている者は少ない。それこそ、せいぜい榛名家くらいのものだろう。僕も当然ながら乗った事はなく、早いうちに慣れないと酔い潰れてしまいそうだ、と感じた。
縄梯子を伝って甲板に出ると、船縁に多くの侍が並んで矢を射ていた。その背後では負傷した兵たちが座り込み、矢傷を縛って血止めをしたり、軟膏を塗ったりしている。船縁の一人が敵の矢を浴びて後退すると、傷の治療を終えた別の一人が立ち替わりにその穴を埋め、射撃を開始する。
「戦をしているじゃないか」
僕は呟き、掲げられた軍旗を見る。そこには確かに、榛名家の家紋である九曜が染め抜かれていた。
「当然だが、これは兵部殿の願った世界ではない。生前の記憶に従って世界が構築されているとすると、彼はここで余程衝撃的な体験をしたに違いない」
俊輔が言うと、弥四郎が「といっても」と首を捻った。
「向こうの船を見ろ、志摩国の領主、相良家の旗だ。伊勢ノ湾の役……兵部殿が陣没した戦だぞ。まさかこの世界で、彼が命を落とすところまで再現されているはずはないだろうが」
「それじゃあ、彼のお願いって何だったんだろう?」
お胡尹が言った時、また船が揺れた。僕たちは駿河の兵に見つからぬよう匍匐前進で甲板を進み、縛られて積み上げられた箱の陰に身を潜める。
息を詰め、戦局を窺う。やはりこの船も他の船でも、駿河兵たちは負傷こそあるものの全体的に有利な様子だった。船が大きく、甲板の位置が高い分、彼らはあたかも迫り来る敵に対して高楼の上から矢を射掛けるような、難攻不落の城を護るような形で主導権を握っているのだ。刀や槍を使っての戦いとなると敵側が駿河の船に乗り移らなければならないが、高度の関係上それは難しい事だった。
頭数の問題もある。志摩国は半ば伊勢──こちらも内陸に進めば控えているはずだが──の属国のような扱いを受ける小国だが、駿河は東国で随一の強国。人員で見た兵力も、こちらが遥かに上を行っていた。
とはいえ僕たちは、すぐ頭上を引っ切りなしに矢が断空するので、生きた心地がしない。無論、致命傷でない限りこの世界で傷を負っても現実の肉体に影響は及ばないが──。
と、その時、兵たちの中から怒号が上がった。
一瞬の間を置いて、重い衝撃が甲板を震わせる。波とは明らかに異質な揺れ。
「あれは──」
僕は、駿河の兵たちを圧し潰すようにして落着したそれを見、また敵船に出現したものを見た。
岩石──恐らく山から切り出したままの状態。軍艦の大きさでは駿河側が圧倒的だが、向こうは対艦に特化した兵器を用意していたらしい。
志摩軍の船上に屹立するのは、丸太を組み、縄を引いて石を擲つ為の投石台だったのだ。距離がある分その威力は凄まじく、それを受けた甲板は中央付近が大きく陥没していた。船の中程で傷の応急手当てを行っていた兵士たちは、包帯を巻きかけた四肢を投げ出して息絶えていた。
榛名家の水軍を攻略する為に誂えられたらしい虎の子の投石台の登場は、駿河兵たちを少なからず叫喚に陥れたようだった。半ば海面に身を乗り出すようにして弓矢を放っていた侍たちは船縁に身を隠し、飛来する巨石から頭を庇う。最初の石が落着した場所の周囲に居た者たちは、歩行もままならぬ足を引き摺るようにして襲い来る石から逃れようと逃げ惑う。見ればこの船だけでなく、他の船──駿河軍より小さいものは遠江の軍勢だろうか──も同じような様相を呈していた。
形勢が刹那に一変する様は、鮮やかですらあった。事態の推移に着いて行けず、僕は目を白黒させる。
「どうする……これじゃ兵部殿の探しようがないぞ」
「別の船が近づいた機会に、跳び移って移動してみるか?」
俊輔が弥四郎に応じたが、それすらも難しいようだった。
僕たちの隠れている後方までは射程に入らなかったようだが、船首側を巨石で満たされた軍艦が大きく傾き、前にのめり始めたのだ。
「沈む! 船が沈むぞ!」
「飛び込め! 早く飛び込むんだ!」
兵たちの狼狽が、否が応にも僕たちの心を急き立てた。
今や、駿河・遠江連合は総崩れになりかかっていた。僕たちが陰に隠れている箱の山がずるりと横滑りする。
「弥四郎、お胡尹」
僕は二人の袖を掴んだ。
「二人の法で、敵船を無力化出来ないかな? 時柵であの石を止めて、夢患いで船を燃やすんだ。いや、燃やす幻を見せるだけでもいい。向こうの人たちも、それで逃げてくれるなら……」
「駄目だ、鶴来」
容喙したのは俊輔だった。
「こんな船の上で、まだ兵部殿も発見出来ていないのに見つかったらどうする? 俺もこの状況は予想外だし、彼の願いも今のとこと全く分からない。だけどまさか、これが彼の──そうだな、絶対拒絶の意志みたいなものの表れだとは思えない。曲がりなりにも『夢遥かの世界』は、偽神の定めた法則に従って運行されているはずなんだから。もう少し様子を見よう」
「けど、このままじゃ──」
僕が反論しかけた時、敵船の攻撃が次の段階に移行した。
投石台から、先程までの巨石とは明らかに大きさの異なるものが飛んで来る。あまりに小さく、素早いので目捉する事は難しいが、あれは──陶器ではないか。釉薬も塗られていないらしい、光沢のない赤茶色の容れ物。小鉢のようなそれは徐々に直立しつつある船体に当たると、粉々に砕け散って波間に消えて行く。
攻撃どころか、威嚇ですらない──何の意図で?
いや──。
「うおっ!?」
顔のすぐ傍にそれが叩きつけられ、弥四郎が驚いたように仰反る。割れた小鉢の中からどろりとした液体が零れ、波光を浴びててらてらと輝く。
お胡尹が人差し指を伸ばしてそれを掬い取り、無警戒にも舐めてみてから「ぺっぺっ」と吐き出した。「油だ、これ」
「おい、見ろ!」
弥四郎が、投石台の陰に居る志摩兵たちを指差して叫んだ。僕はそれを見、このまま海に飛び込みたくなる。敵兵たちは、油に塗れたこちらの船に向かって火矢を番え始めていたのだ。
既に、僕たちの居る船に乗っていた者たちは皆、海中に飛び込んで戦線を離脱していた。とはいえ水の中で重い防具が邪魔をし、多くの者が没していく船から距離を取れずに居る。水軍の錬成に力を入れている榛名の侍は、一応鎧はこのような時の為に着脱しやすい仕様になっているはずだが、不測の事態による周章狼狽の中で上手く脱げた者は限られていた。
船体が沈む際に巻き起こる激しい渦に向かって流されている侍を発見し、僕は咄嗟に手を伸ばした。が、当然ながら届くはずもなく、その侍はたちまち湧き立つ白波の中に見えなくなってしまった。
そして、僕たちにも限界が訪れた。
船体の傾きが更に垂直に近づき、僕たちは踏み堪えられず滑ってしまったのだ。
「飛び込むんだ! このまま落ちたら、さっきの石に激突しちまう!」
言いざま、俊輔が海面に身を躍らせた。考えている余裕などなかっただろうが、それでも咄嗟の機転でなるべく船から離れた場所に向かって弧を描くように跳躍したのはさすがと言うべきだった。
僕、弥四郎、お胡尹も甲板を蹴って跳ぶ。
それと、敵兵たちが火矢を放ったのはほぼ同時だった。
天高く舞い上がった無数の火は、夏の海の強い日差しが溶け落ちたかの如く弓形の軌道を描き、油を浴びせられたこちらの船団へと降り注ぐ。僕は半ば流されながらも海面に浮かび、次の瞬間に巻き起こるであろう紅蓮の炎を幻視した。
刹那、
「狼狽えるな、濤割の駿河武士ともあろう者どもが!」
後方から毅然とした声が響くと共に、
「……えっ?」
飛来していた火矢が一瞬、空中でぴたりと止まり──戻り始めた。
ここからでは、船上に居る志摩兵たちの顔は見えない。しかし、逆行した火矢が敵船の甲板上に用意されていた大量の油壺に引火した事は容易く予想がついた。志摩の船団から火柱と黒煙が上がり、それは噴き出した溶岩が流れるように甲板から船全体を包み込んでいく。
駿河軍の軍艦よりも遥かに小さなそれらが巨大な箱型の薪と化すのに、時間は掛からなかった。
「『累合せ』の法……勝呂様」
僕のすぐ傍に浮かんでいた駿河兵が、沈んでいく自軍の軍艦を──否、その後方を見ながら呟いた。その名に、僕ははっとしてそちらを見る。
新たな船団が近づいて来ていた。船の大きさから、それも駿河のものであると分かる。旗艦と思しき一際大きな船の舳先に、黒緋色の陣羽織を纏った若い武士が刀を手に立っていた。庵原城の座敷で見たままの顔──勝呂兵部さん。
「弱国の烏合の水兵など、琴姫様のお手を煩わせるまででもないわ。まして、彼我の力量差を埋めるにこのような小細工を弄する穴虫どもにはな」
彼は凛然と言い放つと、海中の一同を見回した。
「只今周辺海域の清掃を完了した。我々駿河軍はこれより伊勢ノ湾を北上、雲出河口にて陣営を行う。水に落ちた者は軽挙妄動を慎み、落ち着いてこちらによる回収を待て。負傷者は近くに居る者が支え、傍を我らの救命艇が通り次第申告せよ。優先的に回収を行うものとする。遠江の方々も、増援が到着するまでこの場は琴姫様の指揮下に入って頂く。これは軍権簒奪ではなく、あくまで一時的な措置である。努々疑う事のなきよう」
兵部さんの呼び掛けと共に、軍艦から小舟が水面に投下され始めた。応援に駆けつけた兵たちがそれらに乗り移り、救出作業を開始する。
僕の周囲に、俊輔たちが泳いで来た。
「ひとまず助かったが、どうだ?」
「どうだ、って?」
「兵部殿に対して、ここから心渡りは使えそうか?」
「目を合わせようにも、距離が遠すぎるよ」
僕が首を振ると、俊輔は「まあ、それもそうか」と肯いた。
「それに、ここで彼の未練を暴けば間違いなく魔が現れる。前回のように『夢遥かの世界』の登場人物が変化するものだったら、泳ぎながらこの大人数を相手取る事になるかもしれん。ここは控えて、陸に上がってから改めて機会を窺った方が良さそうだな」
「だが、どうやって連中に着いて行く?」
弥四郎が疑問を口にする。
「船団の後を泳いで着いて行くのは論外だ。俺たちが皆水練に慣れている訳ではないし、雲出川といえばここから十数里も離れている。仮に出来たとしても、目立ちすぎる上に船の速度に追い着けるはずがない」
「となれば、船に忍び込むしかないんじゃない?」とお胡尹。「この人たちと一緒に救助して貰って、駿河の人たちの中に紛れ込むの。皆、私たちの事見てもおかしいと思っていないみたいだし」
「いや、それはあくまで一時的な事だ」
俊輔は、他の兵と顔が合わないよう注意を払っているようだった。
「皆、船から投げ出されて生き延びるのに必死になっていたから、周りを見る余裕がなかったんだ。冷静になって見られれば、明らかに彼らと服装の違う俺たちが紛れている事は一目瞭然。救助を待つのは得策ではないな。けど、船に忍び込むのはいい案だ。幸い今は大勢の目が俺たちでない方に向いている、このまま救出作業が終わる前に軍艦に近づいて貨物庫に隠れよう」
俊輔の判断は的確だった。丁度兵部さんの搭乗している船の後尾付近から人気がなくなっており、救出係が下りた縄梯子が下がったままになっている。僕たちは視線を交わし、肯き合うと、そちらに向かって泳ぎ始めた。
が、その目論見はあえなく潰えた。
「そこ、作業の邪魔になる故無闇に動くでない」
一艘の小舟の上から救出係の一人が声を掛けてきた。思わず僕が振り向いてしまうと、その係の者の表情がぎょっとしたように硬くなった。
「汝ら、何者だ……?」




