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夢遥か  作者: 藍原センシ
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『夢遥か』弐ノ章 月下氷人⑬


          *   *   *


 目を覚ますと、空が臘炎(ろうえん)色に染まっていた。

 瞼を開くと、すぐ下に農村が見える。脈々と続く畦道の先に、天守閣の(そばだ)つ葛城の市庭(いち)が広がっていた。ここは、麓に程近い山中の崖っぷちだ。

 見慣れた風景の影の伸び方から、太陽の位置が分かった。焼けたような空は(あけぼの)ではなく、日の入りのようだ。昨夜未明から、千与は翌日の日中丸々を眠って過ごしてしまったようだった。

(明日は輿(こし)入れ!?)

 真っ先に、そのような事が頭に浮かんだ。

 千与は森の茂みの中に隠されるように座らされ、草木の蔦で樹木に縛りつけられていた。余程杜撰な縛り方ではあるが、身動きが出来ないという状況が本能的な恐怖を誘ってくる。口には猿轡が噛まされていた。

 回らない頭で、必死に覚醒(めざめ)る前の出来事を思い出す。

(……忠綱先生!)

 歪んだ嗤いを浮かべながら自分に短刀を向けた彼の姿を思い出した途端、その顔が千与の脳裏で屋敷を(おとな)って来ていた時の優しい表情に変化し、涙が溢れようとするのを抑え難かった。

 先生は、ずっと自分を欺いていたのだろうか? 幼心故の軽挙だったとしても、偽りなき本心として彼に「好きだ」と言い続けた自分を、彼はあの笑顔の覆面の裏で嘲笑っていたのか?

 千与は、思い切り歯を食い縛って体を横に倒そうとした。大した高さもない上地面には腐葉土が堆積している。崖から転落したとしても、即死するような事はないだろう。(なり)振り構ってはいられない──そう思ったが、蔦は予想以上に固かった。反動で木の幹に叩きつけられた千与は、背と胸を圧迫される苦痛に呻いた。

 寝間着の薄い生地を通し、ざらざらとした蔦に擦られた皮膚が破れる。痛みに、視界が霞むようだ。

 朝になって自分が居ない事が分かったら、母も頼母殿も、残っている屋敷の使用人や侍たちも慌てただろう。山を下り、分家の元屋敷を始め親類にも捜索を要請したに違いない。無論、婚姻を明日に控えた主膳様にも。

 そこまで考えが至り、千与ははっとした。

 忠綱先生は、千与の目の前で主膳様を殺すと言っていたではないか。それを野侍の仕業に見せかけるのだとも。自分がこうして縛られているのは、その為の支度ではないのか。という事は少なくとも、まだ先生は彼を手に掛けてはいない。

 猿轡を噛まされた口で声にならない叫び声を上げながら、千与は無我夢中で身を(よじ)った。着物の布地が破れ、肌が裂けて綻び、血が筋となって流れ出すのも構わず、蔦からの脱出を図る。

 絶望的な気持ちになりながらも、抵抗を続けた。自分の体はどうなってもいい、ただ主膳様を死なせる訳には行かないし、先生を人殺しにする訳にも行かない。

 ──人殺し、か。

 ごく当たり前の事に気付き、自嘲気味に口角が上がる。

 侍とは畢竟、戦って誰かを殺す者たちだ。氏篤殿も、頼母殿もそうだ。父であるご当主様だって。忠綱先生は、たまたま今までそうでなかっただけだ。それもまた、武家の運命であり論理の内なのだ──。

(それでも、そんなの間違ってる)

 千与は歯を食い縛ったが、痛みを意志で抑える事が出来ても、体力の消耗だけはどうする事も出来なかった。日が暮れる頃には、千与は荒い息を()きながら背後の幹に身を預けていた。

 ここまでなのだろうか? 他に、手はないのか?

 追い詰められている為か、頭の回転が速まっていた。相対的に、時が流れるのが非常に遅く感じ、辺りの様々なものが目に入った。

 ふとその目に、草叢(くさむら)の陰にある野鳥の巣が映った。(つがい)らしき小鳥が、草やその蔓を丁寧に編んだ円形の囲いの中に蹲っている──。


          *   *   *


 法を発動し、器用な嘴を持つ鳥を操って蔦を解かせていると、里から灯りを提げた人影が(ぬえ)鳴きの森への山道を登って来るのがちらりと見えた。

 鳥の目では、夜闇には弱い。自分の捜索を行っていた「深森の屋敷」の者が夜遅くになって戻って来たのだろうか、と思ったがそうではなかった。人影は山中に入って来ると、坂道をこちらの方へと歩み始める。

「二又の杉の古木……とは、あれか? 千与殿! お千与、何処に居るのだ? 全体こんな夜更けに、何の大事な用向けがあるというのだ?」

 声を聴き、千与はすぐに主膳様だと分かった。

 つい鳥に作業を中断させ、聴覚を彼の声に集中させる。

昨夜(ゆうべ)から居らぬようになって、皆を驚かせたそうだな? このような時刻にわしを呼び出して、何があったのだ?」

 どうやら主膳様は、千与が自分を呼び出したものと思っているらしい。昼間の自分の失踪も、何か個人的に大切な用件があっての事だと理解しているようだ。

 不吉な予感が、千与の身を竦ませた。刹那、こちらに近づきつつあった主膳様の眼前に、千与の死角から第二の影がさっと飛び出して立ち塞がった。

「彼女ならここに居ないぜ、主膳殿」

 さっと総毛立つ。その人物は、闇の中でも白く鋭光を放つ抜き身を引っ提げた忠綱先生だった。

 殺気が伝わったのか、主膳様は提灯を放り出し、腰に佩いた刀に手を掛けた。

「由比忠綱(うじ)、これは全体何の真似か? 其方(そなた)は拙者と千与殿の婚姻に於いて月下氷人を務める者と窺っておりましたが」

「あの娘との婚姻? それは最早叶わぬ。あなたにはここで死んで頂く」

 先生が言い放つと、主膳様の顔色が変わった。

 驚愕、そして絶句──後、瞋恚(しんい)(ほむら)が燃え上がる。

「そうか……あの便りを寄越したのはぬしか。亥一つにここに参れという……二又の杉の古木という箇所だけ微妙に筆跡が違ったようだが、やはりわしの思い違いではなかったのだな」

 千与は聴きながら、はっと気付いた。

「模倣の上手い男よな。女の字でお千与の名前があったから、疑ってもみなんだ。まんまと騙されたよ!」

 先生が何をしたのか分かった。千与が宛名を書かず、法を使って直接彼に届けた例の便りを、彼はそのまま主膳様に届けて彼を(おび)き出したのだ。

「わしが彼女を……本気で愛する気持ちを利用して(たばか)ったな、この悪党!」

「来い、瀬利主膳!」

 主膳様が、踏み出すや否や刀を抜き放った。居合の要領で薙ぎ払われたそれを、先生は(やいば)を立てて受け止め、いなしつつ横方向に捌く。後、手首を捻り、半月を描くようにそこから下方に刀身を回す。

 渾身の一撃を捌かれて体勢を崩していた主膳様の腹部に、先生の斬撃が滑り込むように肉薄した──転瞬、主膳様は跳ね飛ばされて土の上に転がった。

 武術の心得のない先生には、そこまで出来た事が奇跡のようだった。彼は主膳様の離脱と共に前にのめり込み、刀を地面に突き立てて喘ぐ。しかし跳ね飛ばされた主膳様もただでは済まず、真珠色の着物に血が滲み出していた。千与は鳥ではない自分の口で悲鳴を上げかけたが、やはり声は出ない。

 千与の自由を(いまし)めていた蔦が、その時ずるりと滑った。二の腕に掛かっていた抵抗が取れ、いつの間にか感覚を自分の肉体に取り戻していた千与は鳥に小声で「ありがとう」と言いつつ──口の動きだけで、言ったつもり──猿轡を外すべく両肘を上げる。

 先生は、主膳様に(とど)めを刺すべく更に歩み出していた。縋るように、杖の如く突いていた刀を逆手に振り被る。

 刹那、主膳様が素早く身を起こした。先生に負わされた傷はそこまで深くなかったらしく、くの字に腹を折りつつ低位置から先生の足を薙ぐ。先生はぎょっとしたように後方に跳躍し、回避を試みたようだったが、追尾した主膳様の斬撃はその左脚を捉え──斬り飛ばした。

 闇の中、舞い散る鮮血が虚空に煌めいた。

 先生は片足を失い、着地に失敗してうつ伏せに倒れる。傷口からどくどくと血が溢れ出し、斜面を千与の居る崖の方へ流れて来た。

 千与は気道が潰れたようになり、声が出せなかった。主膳様は先生を見、追撃を掛けるべきか、この先にある「深森の屋敷」に人を呼びに行くべきか、一瞬迷ったようだった。

 彼が屋敷の方を向き──千与が立ち上がり──状況が一変した。

 動きを封じられた忠綱先生は、両腕で地面を押し、反動で上半身を大きく跳ね上げた。跳び上がった彼は、目茶苦茶な体勢ながらも刀を振るい、後方を向いた主膳様の背中に──(あばら)の隙間、心の臓に当たる部位に突きを放つ。

 切断された左脚の動脈から、迸った血飛沫(しぶき)が朱の緒を曳いた。

震空破(シンクウハ)!」

「駄目─────っ!!」

 茂みから飛び出していた千与が、そこで先生に追い着いた。

 彼に組み付いても止められない事は分かっていた。だから千与は、両腕を広げて彼の前に立ち塞がるという選択を採った。……主膳様を庇うように。

「千与……ちゃん?」

 先生の顔が、驚愕に歪んだ。しかしその表情はすぐに、ほっとしたような、満足そうな笑みに変わった。

 否、それを経て、泣き出しそうなものへと変化した。

 千与の胸に、刀が深々と突き刺さった。痛みは感じず、全身の力が抜けた。

 草の上に膝を突くと、霞んでいく視界の奥に、力尽きたように倒れてくる先生の体が見えた。それはあたかも、千与を抱擁しようとするかのようだった。

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