『夢遥か』弐ノ章 月下氷人⑫
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秋の終わり、流行り病が大和国を襲った。
それは人の密集する葛城の市庭で猖獗を極め、町民から武士たちにも感染が拡大した。幸い疫神はそこまで強力なものでなく、暦が翌年に移る頃にはその猛威は去っていたが、主膳様を含む瀬利家の御家門たちが揃って病の床に臥せる事となった為師走の頭に控えた婚礼は延期された。
無論そこまで先送りにする訳にも行かないので、目途としては如月が始まってからすぐという事になった。大晦日から正月朔日にかけては、天照道の教義上冠婚葬祭は執り行わないものとされている。寿詞を告げるという意図も込め、先延ばしされた婚礼は朝廷が「神呼ばいの儀」を行う翌日と決まった。
その頃には、忠綱先生が「深森の屋敷」を訪ねて来る事は一切なくなっていた。婚礼前の仲人の仕事は了畢されたはずだが、やはりそれは氏篤殿らが嫁入り前の千与と彼の交流に憂患が拭えなかったからに違いない。
千与は、霜月が始まる頃には、大人しく瀬利の家へ入るしかないという覚悟とは異なる諦めに近い思いを抱えていた。主膳様の仰った通り、一度籍を入れてしまえば自分も全てを受け入れ、人並みの幸せを得られる──少なくとも主膳様は、私を不幸にはしないだろうと思った。しかし婚礼が延期になった時、過去最長の会えない時間を更新した先生への想いが再び熱を持ってしまった。
──先生は、私の事を想ってくれている。
確信には僅かに及ばないながらも、最後に千与の抱いた予感。それを思い返す度に何年分もの先生との思い出が胸に去来した。年が変わり、輿入れまで一月を切った頃から、それは深更に夢を見、目を覚ます程狂おしいものに育まれた。
千与が先生に便りを出したのは、婚礼の二日前だった。
駆け落ちの相談をするつもりだった。由比家からも、婚姻からも、武家という運命からも逃げたかった。それは千与自身の”決定”といえるものではなく、決定それ自体をも放棄したいという意味を持っていた。
物的証拠を残す訳には行かない為、文にしたためたのは「大事な話がある、亥一つに鵺鳴きの森で会って欲しい」という旨だけで、ものは例によって戯れを使い鶫に託して直接先生の部屋まで届けた。それは夜半の事で、そのような時間帯に先生が屋敷を抜け出す事がどれ程難しいかは分かっていた。しかし、残された時間が少ない以上しようのない事ではあった。
年が明けてから、「深森の屋敷」の警護を行っている侍たちがめっきり減った。それでも、夜中に厠へ行く振りをしてこっそり外に出、見張り櫓から板塀を伝って外へ、などという芸当は、元来の性質が活発な千与でなければ出来なかっただろう。堀を渡る際は、肉食魚たちに関しては法で操り、全てを裏手に移動させた上で素早く泳ぎ渡った。冬の水は冷たかったが、先生に会うのだという事を思えばその程度は幾らでも忍べる事だった。
そこまでして約束の場所まで行った千与は、もしも先生が来てくれなかったら、という不安がなかった訳ではない。だから、彼に会って言うべき言葉を頭の中で推敲しているうちに夜が更け急ぎ、約束の時刻丁度に
「千与ちゃん──」
山道を登って来た先生が名前を呼んでくれた時、千与は感極まってしまった。
「忠綱先生……こんばんは」
──幾月もの間、どれだけ会いたいと思っていたか。
にも拘わらず、言えたのはそのようなありふれた挨拶だけだった。
「こんばんは……急にどうしたの、千与ちゃん? ずぶ濡れじゃないか……こんな寒い夜に、そんな格好をしていたら風邪引いちゃうよ」
先生は、失った言葉を必死に取り戻そうとするかのような喋り方だった。山道とはいえそこまでの勾配でもない斜面だが、余程急いで来たのだろう、額に玉の汗を浮かべて大きく肩で息をし、苦しそうに胸を押さえていた。
千与は、焦る心の臓の上に手を置き──勢いに任せて彼のその胸に飛び込んだ。自分より何寸か高い先生の背丈では丁度胸元の位置に千与の頭が来る。薄い寝間着の襟元に顔を埋めると、彼は瞠目した。
「ち、千与ちゃん!?」
「お願い先生、叫ばないで。こうさせてよ……」
腕を伸ばして背中に回すと、先生は苦しそうに一瞬だけ顔を引き攣らせ、その後で柔らかくこちらの両肩を抱いてきた。
千与は、思いがけなくするりと言いたかった言葉が口を突くのが分かった。
「先生……一緒に、何処か遠くに行かない?」
「遠くって──」
「私、先生の事が好きだよ。本当はずっと分かっていたの、主膳様との結婚があんなに悲しかった理由……だって私には、この人じゃなきゃ愛せないっていう人が居たんだもん。先生が居てくれたら、私は何も要らない。だから先生、私を助けて。ここから連れ出してよ……!」
最後の方は、半ば咽び泣きに近かった。
顔を押し当てたままだったので、彼がどのような表情をしているのかを窺い知る事は出来なかった。しかし、彼が鋭く息を呑んだ音は聞こえ、その後、ぐっと唇を引き結んだのか息遣いが聞こえなくなった。
千与は彼の着物に溢れ出る涙を染み込ませ、尚も続けた。
「昔みたいな、遊び半分の子供の気持ちじゃない。私、自分が女として、男の先生に惹かれているのが分かるの。だからもう、私は先生以外の人と幸せになんか、なれるはずがない。……先生、私に言ってくれたじゃない、幸せになって欲しい、出来る事は何でもしたいって。それなら、先生が私の幸せになって。もしも、武家っていう縛りがそれすらも駄目だって言うなら、私……私、もうどうしたらいいのか分かんないよ……っ!」
──こんな事、普通だったら絶対に言えなかった。
言い終わった時、冷静な自分が心の中でそう呟いていた。いつものような彼との関わりの何処かでこのような事を口にして、彼に受け容れて貰えなかったら自分はどうなってしまうだろう。
友達ですら、居られなくなってしまうかもしれない。そのような怯えが、千与に今という状況の変化を恐れさせていた。
けれど──今の自分は、そのような事を言ってはいられなかった。今この気持ちを口に出さなければ、この先一生、想いを抱えたまま彼に会う事は叶わなくなってしまうのだ。そんな焦燥があった。
そんな焦燥に掻き立てられなければ想いを告げる事の出来ない自分を、心の底から臆病だと思った。
「………」
言い終わった千与が微かに顔を上げた時、忠綱先生は俯いたままわなわなと唇を震わせていた。鼻から上の方は、樹間から射し込む月明かりが逆光となり、深い影に隠れて見えなかった。
やがて先生は、またゆっくりと両腕を解き、千与を離した。千与も体を離すと、彼はじりじりと数歩後退り、空いた右手で髪を掻き上げるようにして顔の半分を押さえながら天を仰いだ。その時間が、千与には永遠にも思われた。
噛むようにして引き結ばれていた彼の唇が、徐ろに形を変えた。
それは、笑みの形だった。だがそれを見た瞬間、千与は濡れ冷えた背筋に戦慄が走るのを感じた。
今まで見てきた彼の笑みではなかった。酔い痴れるようでありながら、ぞっとする程冷たく、昏い──。
「千与ちゃん、君は……呆れるくらいに愚かな娘だね」
「えっ?」
耳を疑う自分に対し、聞き間違いでない事を示したのは彼自身だった。
先生は顔を元の位置に戻し、手を離す。その下から現れた、血走った彼の目を見た刹那、千与はひっと声を上げて身を引いた。
「全く……これだけ長い間勉強を見てやったというのに、君は私の事を、何も分かっていなかったんだね。恋は盲目? 違う、君を盲目にしたのは私自身なのだから。けれど、そこはやむを得まい。だが私と幸せになりたいというのは、幾ら何でも薬の効きすぎというものだ。いや……毒の、かな」
「先生……何を言っているの?」
「最後の授業をしよう、千与ちゃん。由比の家にとって、君がどういう存在だったのか。私が何の為に、君の所に通い続ける必要があったのか」
忠綱先生は、下草を踏みつけながら千与の周囲を回り始めた。立ち尽くす千与の四方から、彼の声が悪夢の如く襲い掛かって来る。
「考えてみれば、いや、考えなくても馬鹿な話さ。事の発端は君の法ろい、つまりは迷信だ。だが、由比が瀬利傘下で他の中流武家と派閥争いを繰り広げていたのが良くなかった。言いがかりは、どのようなところからでもつけられるものだからね。その点君は女子だったのが幸いした。本来武士になるべき赤汐の男児が法ろい持ちだなどと誹られては、目も当てられない」
「何の話……?」
「君はまだ片付けようがあった。女子であれば、由比家との強固な結び付きを求める他の武家に嫁けてしまえばいいのだから。けれど、一昔前には既に世が乱れ始めていた。特にここ、畿内では多くの武家が鎬を削り合い、大領主や朝廷のお膝元での地位を巡り駆け引きを続けていた。
武家って、武士道っていう言葉程綺麗なものじゃないよ。どのような些細な事であっても、言いがかりさえつけられれば他家を蹴落とす為に利用する。それが、戦略と呼ばれていた時代だ。それが乱世なんだよ。君には気の毒な話ではあるけれど、男たちの論理に縛られた世界で我々に求められるのは”完璧”以外の何物でもなかったんだ。
ご当主様──容昭公は、他家の口実の種になる君を『深森の屋敷』に隠した。しかし、それに飽き足らず闇へ葬ろうとまでした」
先生の言葉に、ひっと喉が鳴った。
「父上が……私を?」
「そうだ。暗殺をしたという事実すらも公になってはいけないから、それこそ万全の用意をしてね。当然頼母殿も私の父上も、分家の者たちは何も知らない。その時になって、君を軟禁する為の『深森の屋敷』の防備の堅さが仇になった。支度の為には内側を知る必要があった訳だ。そこで遣わされたのが、学問の教師としての私だったんだ。
おっと、私を恨むのは筋違いだよ。考えてもみろ、私はその当時、まだ十二歳の子供だったんだ。当然大人たちの複雑な事情に関しては何も明かされず、ただ教師をさせ、雑談の中で何気なく家の事を尋ねて報せを引き出す。それを、本家の連中がまた稽古の折にそれとなく聞き出す。言ってみれば、私もまた利用されていたという事になるね。武より文を優先した事と、従兄であり君に近いという事を理由に。
けれど、連中も私を童だと侮っていた。私は数回君の元へ通ううちに、彼らの狙いに気付いた。十二という歳は、元服のみを大人との境界と考えている頭の固い侍たちが思っているよりもずっと大人なんだよ。私はその時既に、千与ちゃん、君を見て考えていた──この娘は将来、美しくなると」
先生はすっと千与の背後から近づくと、また肩を掴んできた。項に顔が近づけられ、囁きが耳朶をくすぐる。
しかし、千与は既にそれで気分が高揚する事はなかった。ただ、次に何をされるかという恐ろしさが心を支配していた。
「どうせ私は、都合良く利用されたんだ。多少の見返りを貰っても文句を言われる筋合いはないだろう。千与ちゃん、君との仲を深めておけば、いつか君が私の見込んだ通りの女になった時抱けると思った。そうこうしているうちに野侍の跋扈跳梁が深刻化し、権力闘争に明け暮れていた国内の旗本たちは団結せざるを得なくなった。暗殺計画もいつしか有耶無耶だ。なあ、これじゃあんまりだと思わないかい? 私も多少はご褒美が貰えなくては、努力と釣り合わないよ。
君は頭の悪い小娘だったね。顔と声だけは美しい、だから読みはいい。上手いんじゃないか、と騙されてしまいそうになる。けれど、書きがいつになっても出来るようにならない。それで、法唱と切っても切り離せない呪者になりたいなどと宣うんだからなあ。苛立って仕方がなかったね。
その上何だ、好きだの愛しているだの、ガキの戯言だと思っていたのに、まさか君が未だに本気だったとはね。挙句君は瀬利家との縁談が決まって、私の長年の苦労は水の泡だ。武家という束縛? 確かに、君の言う通りかもしれないね。僕にも少々のっぴきならない事情が出来てしまったし、こうなったらもうこんなせせこましい世界に縋りつく意味もなくなった。君が本当に呪者になれば、私は君を天照道に引き渡して自分も上方へ行き、後の生涯を有意義に暮らせるかもしれない。だから、まずはあの瀬利主膳を殺しに行くとしよう」
「主膳様を!?」
恐怖と絶望に苛まれながら口を利けなかった千与だが、忠綱先生がその名前を出した時、つい叫んでしまった。
「彼は関係ないじゃない! 何で……何でそんな、酷い事を?」
「君たちが結ばれてしまったら、私からは手が出しにくくなる。彼は明日の夜、野侍にでも殺された事にしよう。無論その場には君にも立ち会って貰わねばならない。結婚を控え人目を忍んで逢瀬を重ねていた君と主膳を野侍が襲撃、彼を殺してしまったが、私はすんでのところで敵を撃退、君を助けたという事にする。その上で、褒美に私が君を迎えてはいけないかと上に掛け合ってみる。私は君の命の恩人という事になるのだし、面倒を避けたい連中は喜んで了承するんじゃないかね」
「そんなの……上手く行くはずがないじゃない!」
虚勢を張ってみたが、先生はただ哄笑するだけだった。
「いや、何とかなるさ」
彼が言うや否や、突然千与の背骨の中央に鈍い痛みが走った。
何か固いもので突かれたらしい、と思うか思わないかのうちに、先生はこちらの肩をむんずと掴み、振り向くや否や下草の上に押し倒してくる。乱暴されるか、と竦み上がるが、そうではなかった。
彼は、懐に収まる大きさの短刀を抜いていた。妖の徘徊する夜の森に出るべく護身用に持って来たのか、或いはもっと邪悪な意図があったのかは分からない。彼はその柄で、先程千与の背を打ったのだ。
しまった、と思う暇もなく、柄が千与の頭に振り下ろされた。




