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夢遥か  作者: 藍原センシ
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『夢遥か』弐ノ章 月下氷人⑪


          *   *   *


 気の早い事に既に宴を始めようとしている親戚たちに一言断り、主膳様は千与を連れてその場を離れた。瀬利家の武家屋敷は広く、裏手に回れば小さな池のある庭が別に造られていた。

「千与殿をここにお連れするのは、初めてでしたな」

 主膳様は言い、池の浮き橋の上に千与を(いざな)った。

 彼は本来、活発な性質(たち)であったという。他人の前に出る時こそ優雅で穏やかに振舞うものの、幼少の時分は無鉄砲な事をよく行い、掘割に飛び込んだり松の木を伝って屋根に攀じ登り落下したり、親族や家臣を慌てさせる事もよくあった。この辺りの事は、本来身分ある女子(おなご)でありながら行儀がなかなか身に着かず、従兄の忠綱先生に対してもかなり開けっ広げであった千与にも通ずるものがある。

 自惚(うぬぼ)れとはまた異なる意味で、千与は主膳様が以前から自分を想っていたという事は本当だと思った。気質(かたぎ)的に自分に似通ったところのある千与に惹かれるものは、彼には確かにあったのだろう。無論千与は、瀬利家の男である彼の前に出る時は礼式の際ばかりで、その際に場を(わきま)えない行動を取った事はない。それで尚、主膳様が自分の内側に本質を見(いだ)したのだとすれば、

(この婚姻の体面が家同士の都合だとしても、主膳様のお気持ちにだけは一切の偽りがない……)

 千与は、そう思うのだった。

「幼い頃は落ち着きなく跳ね回っていたもので、人目を忍ぶ為によくここに逃げ込んでいたのですよ。ほら、そこの酸塊(すぐり)の茂みの奥に、子供一人が身を隠せるような空間がありましてな」

 主膳様は浮き橋に屈み込み、懐から手拭いのような(きれ)を取り出して横に敷いた。

「腰を下ろすところがなくて申し訳ない。宜しければ、ここへでも」

「あ、ありがとうございます……」

 素直に彼に甘える事にする。

 ややおっかなびっくりといった様子で座った千与は、(しば)し無言で水面(みなも)を眺めた。主膳様も何も口にしない。先程から彼に主導して貰ってばかりだという自覚はあり、今度は自分から言葉を掛けねばと思うが、何を言って良いものかと考えると口が開けない。

 黙ったままでいると、やがて(おもむ)ろに彼が尋ねてきた。

「少しは落ち着かれましたか、千与殿?」

「えっ? ……ああ、はい。ありがとうございます……」

 肯き、やや躊躇ってから意を決して「あの」と言ってみた。

「主膳様。千与は、あなた様の細君となる女です。ですから、そこまで改まった言葉遣いは……なさらずとも結構です」

「やっ、これはしたり。申し訳……では、ないな。相すまんな、()()()

「主膳様……」

 そこまで親しみを込めた呼ばれ方をした事もなかったので、(かえ)って戸惑ってしまった。が、彼の改められた口調はこちらの方がぎこちなく、その不器用な”素”の優しさが千与にはありがたかった。

「すみません、主膳様。私、どうすればいいのか分からなくなってしまって」

「わしの喋り方も悪かったようだ。お千与も、変に畏まらずとも良いのだ。女子の嫁入りが、夫に対する一方的な奉仕という考え方を、わしは好かん」

「主膳様は、私で宜しいのですか? 容昭の娘ならば、本家には私よりももっと価値のある美しい義姉(あね)たちも居りましたものを」

「懸念は無用だよ。お千与は往昔(そのかみ)から──変わる事なく可憐だ」

「そんな……いけませんよ、私なんて。全然、実感が湧かないんです。あなた様はとても素敵だと思います。けれど私、ずっと父とは離れて暮らしてきましたし、(ほとん)どただの人みたいなもので……こういう宴席に出ると、何が何だか分からなくなってしまうんです」

 言えないと思っていた一言が、その時、本当にごく自然に口を突いた。

「私、自分が誰かの細君になるなどという事も想像が出来ないんです。主膳様を愛するとか、家族になるとか、そういった気持ちを自分が持てる事すらも分からなくなってしまうのです」

 何故、言ってはいけないと肝に銘じていた事が口に出てしまったのか、千与には分からなかった。

 彼がどのような反応を返すのか、確かめたいという気持ちではなかった。初めて個人的に言葉を交わした事で、彼の人柄の良さが身に沁みて分かった為であるかもしれない。つい、口が滑ってしまった。

 そう思う一方で、これは彼の優しさに過剰に他寄(たよ)り、漬け込むような台詞ではないかと気付き、忸怩たる思いも感じた。

「………」

 主膳様は緘黙(かんもく)した。さすがに気を悪くされてしまったか、とお腹が痛くなるが、別段怒った訳ではないらしい。彼は、やがてぽつりと呟くように言った。

「それがお千与の気持ちならば、仕方がないだろう」

 落ちていた枝垂(しだ)れ柳の枝を拾い、水面(みなも)に触れる。波紋は千与の情動の如く微かに揺れ、広がっては凪いでいく。

「わしの心がどうであれ、家の事情で結ばれた婚姻である事に変わりはない。ここにはお千与の意思が映じられておらぬのだから。それについて、ほぼ一族とは関わらず生活を営んできた其方(そなた)が納得行かぬというのならばやむを得まい。しかし、そのような部分も含めて、其方は其方なのだ。わしが好いた女の一面ではないか。……言わんとする事が分かるか?」

「……ええ」

 千与は、やや伏し目がちに首肯する。主膳様は続けた。

「其方が無理をする必要はないのだ。同じように好いてくれとは言わない。ただ、共に居てくれる事を厭わしく思わぬのであれば、それで。其方の分まで、わしが伴侶である其方を愛する。それは保証しよう」

 千与は泣きたい気持ちを、懸命に押し留めねばならなかった。

 歓喜でも悲哀でも、困惑でもない。罪悪感だ。

 だから、主膳様は”いい人”なのだ。絵に描いたように理想的な男。それは武家の男としても、求めようとすれば贅沢だという誹りを免れない程のものだった。なればこそ、千与には引っ掛かってしまう。

「もしも──どうか、深い事とお取りにならないで下さいね。私に、恋い慕う殿方があるとしても、主膳様はそう仰って下さるのですか?」

 今度は、彼を困らせると分かった上で聞いた。聞かずにはいられなかった。

 主膳様はやはり、気を悪くされた様子はなかった。

「其方は、わしが嫌いか?」

「い、いえ、そんな」

「お千与。どのように親しき仲であるにせよ、離れてしまえば疎遠となろう。しかしそこまで行かずとも、人並みに円満にやっていく事さえ出来れば、どのような相手でも共に生きてはゆけるものだ。

 其方は霊能者であったな? わしは、幸運に恵まれただけだ。こうして、常より想っていた女性との婚姻が天照道に認められたのだから。しかし仮にそうでなかったにせよ、後からでも伴侶を愛したとは思う。畢竟他人の生涯を、この上ない幸いにしようなどと大言壮語を吐くのはおこがましいし、無責任だ。もしも其方に真に想い人が居て、その者への思慕が断ち切り難いのであれば特に。だが、わしは愛した女を不幸せにはせぬつもりだ。それは、家であろうが心であろうが、何が根本にあったとて変わらぬ」

「それでは、これももしもの話なのですが──」

 千与は言葉を止める事が出来なかった。

「もしも、許婚(いいなずけ)に選ばれたのが私でなかったとしたら、主膳様は私を思い切る事はお出来になったのですか? その時、あなた様はお相手に……今仰った事と、同じ事を仰いましたか?」

「………」

 また、沈黙。主膳様は本当に言葉を失ってしまったかのように、口を閉ざした。

 木々の葉擦れや、水面(みなも)を渡る秋向(わび)風のそよぎのみがさわさわと響いた。数拍置き、彼はふっと息を吐き出す。

「無責任であっても、論理を無視した言葉が必要になる時はあるらしい」

「主膳様?」

「そのような『もしも』の未来に考えが及ぶ程、わしは(さか)しくは在れん。お千与、わしには其方しか居らん。……これで、良いか?」

 すまない、という小さな声が、庭を吹き抜けた風に乗ってやけに大きく千与の耳に届いた。何故謝るのだろう、と思い、千与は俯く。

(ごめんなさいを言うべきなのは、私の方なのに)

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