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夢遥か  作者: 藍原センシ
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『夢遥か』弐ノ章 月下氷人⑩


          *   *   *


 忠綱先生が帰って行った後、千与は座布団を片づけると、(しとね)も敷かない畳の上に下(がさね)だけになって仰向けに横たわった。林を吹き抜けた涼風が格子窓の隙間から入り込み、時の流れが緩やかになったように静かに室内を巡る。

 頭の中では、一つの自問だけがぐるぐると回っていた。

(先生は、何のつもりで私にあんな事言ったんだろう?)

 結婚するなら、幸せになって欲しい。彼はそう言った。

 裏を返せば、自分が幸せになれないと思う結婚なら、無理にする必要はないという事だろうか。たとえそれが、家の意向に逆らう事になったとしても。そのような決定権があるならば、これ程悩んではいない。

 そうだとすると、千与が「幸せになれる相手」として彼を見ているのだと分かったら、彼はそれを否定しないのだろうか。その上で、千与の事を女として好いてくれるのだろうか。

 ──千与ちゃんは私にとって、単なる教え子じゃないんだ。

 ──せめて最後くらいは、私にも格好を付けさせてくれないか。

 最後じゃないんだよ、先生、と、千与は心の中で彼に語り掛けた。自分に愛されて自分を愛する、というのは、男女の愛だろうか。それとも、それらを差し置いても大切だと思う自分への献身だろうか。

 問いは、いつまでも途切れる事なく渦巻き続ける。

 彼がこちらの想いについて気付いていないかのような事を言ったのは、彼自身もまた自分と主膳様の婚姻に心を悩ませている為か。それは彼が主膳様を、彼自身の恋路を阻むものとして見ている為なのか。

 ここまで至ると、最早完全な希望的観測だ。

 自分と忠綱先生は、師弟関係を除けば幼い頃からの友だった。その仲は限りなく親友に近い。強固な絆で結ばれている。もしも、自分にとって最も仲の良い異性に抱く感情が限りなく好きに近いものだというのが本当なら、彼は私を──?

(何考えているんだろう、私)

 千与の淡い予感は、全てが根拠のない「たら」「れば」の上に成り立っていた。

 彼が自分を幸せにしたいと言ってくれたのは、仲人(なこうど)としてだろうか。それとも一人の男として? 後者であったのならば、自分は嬉しい。だがその場合、自分は彼に何と言えば良いのだろう。

 煌姫の物語を思い出す。

 三月ばかりで絶世の美女となった彼女は、五人の貴公子から求婚を受け、また時の大君からも寵愛を受ける。多くの愛を受けた彼女はしかし、自分が月桂の都の姫宮だという宿命に抗えず、月見月の十五夜に月へと帰ってしまう。地上で生きた思い出の一切を忘却して。

 自分も煌姫のように、行くべき場所に行き着く時、全てを未練共々忘れてしまえたのなら、どれ程楽なのだろう。いっその事何も言わないまま、家の為と割り切って瀬利家へ(かたづ)いてしまえば易い事なのだろうか。

 考えながら、千与は何度も寝返りを打っては棒の字になり続けた。

 不意に、窓辺から可愛らしいさえずりが聞こえてきた。

 気怠げにそちらに目をやると、格子窓のすぐ外に小鳥が一羽留まっている。この山林でよく見かける、千与が最初に感覚を共有したのと同じ黄鶲(きびたき)だ。部屋の中を覗いているそれを何とはなしに見ていると、鳥の方も千与の方に顔の向きを変えて小さく首を傾げた。

(ちょっとだけ、先生に会いに行こう)

 先程まで直接会い、授業を受けていたのではあるが、これは「戯れ」を使ってという意味だ。

 先生が屋敷に来られなかったここ半月の間、千与は昔のように動物の体を借りて彼に会いに行こうとは思わなかった。もしもそのような事をし、彼の顔を見てしまったら、(さらし)の如く胸を圧し潰そうとするこの不安が堪え難くなって決壊してしまうような気がしたのだ。

 彼がどのような気持ちで自分と主膳様との婚姻に関わるあれこれを処理していたのか、本当の事を確かめるのが怖い自分が居る事は否めなかった。だが、彼がどのような思いであのような言葉を口にしたのかが分からない限り、たとえ自分たちの終わりの形が変えられないのだとしても、千与は彼に対して何らかの返答(いらえ)をする事は出来ない。それは、恩人である彼に誠意を見せる事なく、(あまつさ)えその想いを不意にする事になるのだと思った。

「……よしっ」

 千与は腹を決めると、気合いを入れるように声を出した。

 背中を使い、ぴょんと起き上がる。靄立つ気持ちを具現化したかのように肌に纏わる薄(ぎぬ)を脱ぎ捨てて裸になり、鳥の黒豆の如き瞳と自分の視線を合わせる。眼球の裏側から頭蓋(とうがい)にかけて、ぴりぴりと電光が走るような感覚があった。

「ちょっとだけあなたの体を貸して貰うわね、小鳥さん」

 口に出して小鳥に話し掛け、千与は法を使用する。

 一瞬──視界が揺らぎ、暗転。

 肌の上を直接流れる風に皮膚感覚を集中──気流、風の音、匂い……鳥瞰で捉えた下界の風景。段々と部屋にあるものからの報せが遮断され、五感が羽毛の受け取る報せに置換されていく。

 暗闇の中に幻視が出現し、明度を上げた時、千与は既に自分のものとなっていた翼を広げた。窓辺の鳥が舞い上がり、樹梢を抜けようと宙空へ真っ直ぐに翔け出して行った。


          *   *   *


 昔、千与が鳥の感覚を借りて様子を見に行く時、忠綱先生は大抵部屋で学問に励んでいるか、思索に耽っているかのどちらかだった。

 だが今年に入って時折密かに(おとな)ってみると、彼は何かに悩むように頭を抱えていたり、床に臥して眠っている姿が多く見られるようになった。千与の知らない禿頭の一族の人や、(やしろ)禰宜(ねぎ)が来ている姿も見かけた。

 一月前、千与が前回最後に法を使った時がそうだった。考えてみれば、その時期は千与の縁談が持ち上がり、先生が仲人(なこうど)を言いつかった頃ではないだろうか。禰宜らしき人物が直接彼を訪っているのも、式の段取りなどについて打ち合わせを行っていたからかもしれない。霊能者の婚姻に至っては、それが神託によるものでなかったとしても天照道が特に厳格に管理を行うのだ。

(私がどんな選択をするにせよ、先生に負担が掛かる事は変わらないのよね)

 千与は、内心で小さく溜め息を()く。

 と、同時に視界が揺れ、いけない、集中せねばと自分に言い聞かせる。自分の法は魂を対象の動物に移すのではなく、あくまで感覚の共有。気が(そぞ)ろになると途切れてしまう事もある。

 既に通い慣れた道──といっても空路なので道などないが──を縫うように鳥を飛ばせ、分家の元の屋敷を目指す。中流武家の屋敷は大抵二階建てだが、先生の部屋はその二階にあり、窓のすぐ外に大きな柿の木が立っていた。千与はそこに鳥を留まらせ、中の様子を窺った。

 先生は、先程「深森の屋敷」からの帰宅を済ませたらしく丁度部屋の中に入って来るところだった。教科書類を収めた手提げ行李(ごうり)を下ろすと、窓外に鳥の視覚を借りた千与が居るとも知らず着替え始めるので、千与はどぎまぎせざるを得ない。

 元々痩せている方ではあった彼だが、その上半身にやや(あばら)が浮かんで見える事に気付き、千与ははっと息を呑んだ。直接先生の体を見た事はなかったが、窶れたという印象は間違っていなかった。

 心なしか、顔色も優れないようだった。彼は手早く白い寝間着に着替えると、布団を敷いてさっさと潜り込んでしまう。

(お午睡(ひるね)……じゃないよね。先生、そんなに自堕落じゃないもの)

 いずれにせよ、これでは千与の目的は達成出来そうになかった。今日はもう帰ろうか、という考えが兆しかけた時、

「小蝶丸」

 突如、戸の向こうから彼を呼ぶ声が聞こえた。

 彼を元服前の名で呼ぶ人物は、氏篤殿の奥方である寿和(スワ)の方しか居ない。彼が少年の頃は千与もそちらの名前で呼んでいたが、教師と教え子という関係上、礼儀は守らねばならないとして今では「忠綱先生」に変えている。実際にそちらの方がしっくり来るので、千与が未だに呼び間違うという事はない。

 先生は目を閉じてはいたものの、すぐに眠った訳ではないようだった。すぐに身を起こし、「どうぞ」と言う。

 戸が開き、寿和の方が姿を見せた。

「小蝶丸、あなたはまた『深森の屋敷』に行っていましたね?」

「いけませんか」

 やや難詰するような母親の口調に、忠綱先生の声が強張った。

「またとは仰せられるが、今月に入ってからは今日が初めてです。私が千与殿にものを教える事は、大伯父様との間に仕事として結ばれた契約にござる、授業料を頂いている以上、あまり手前の方で休む訳にも参りません」

「……随分と躍起になって弁明するのですこと」

 寿和の方の声音は冷たかった。

「伯父上がどう思われていようと、そろそろあなたも己を顧みる事です。ここまで文道を通したのですから、今更武の方面に矯正(ただ)そうとは父上もお思いになりません。けれど、ならば町塾などもっと広く学問を指導出来る働き口を見つけなさい。千与殿はもうじき、瀬利の家へ行かれてしまうのですよ」

「分かっております、私は仲人(なこうど)なのですから。しかし、僭越ながら母の言葉を勘繰ろうとする私の無礼を大目に見てはくれませんか。どうも私には、この一件に於いて母上の憂えている事柄が、私の身の振り方についてではなく、じき輿(こし)入れを控えた千与殿と私の間にまつわる事に思えてなりません」

「小蝶丸、分かっているのならば外聞を気にしませんか」

 千与は聴きながら、元々唾液の少ない鳥の口腔内がからからに乾いてしまったような気がしていた。

 寿和の方は、厳かな口調で続ける。

「自覚のないのは、当人である伯父上の一家のみなのですよ。あなたは、自らの置かれている状況を理解していません。この間、あの方たちまでが仰ったでしょう。我が一族が法ろいを信じるか否かには容喙せずとも、これ以上彼女に汚名を着せる事のなきように、と。夫を持つ身でありながら、親類の男児(おのこ)と私的な相渉を持っているなどとある事ない事を囁かれれば、由比の名が泣きます。いやしくも家の名を名乗る者として、一族の恥となりかねない噂の種を自ら助長するような行動を取ってどうするのですか」

「本人しか知り得ない心中の事柄について、下世話な容喙を致すのが中堅武家だと仰られるか、母上!」

 先生は声を(たか)くした。千与の感覚を預ける鳥が、びくりと震える。激した彼を見る事は、千与にとっても初めてだった。

 ああ、と、泣きたいような気持ちになった。

 幼心の延長線上の事、などとして看過されているのは、「深森の屋敷」の中でだけの事だったのだ。由比家の多くの人間たちが、自分と彼との仲を師弟関係ではなく男女のそれと見ている。

 そして、必然的にその事について危ぶまれている。ありとあらゆる交際から、当事者である自分と彼だけがその中に取り残されているのだ。

「あなた方がそのつもりなら、この際私ははっきりと言いましょう。私はその風聞について、私個人の気持ちの上では真実であると宣言します。その上で私は、敢えて誰の心算(こころづもり)を以て彼女の婚姻を由比の意思とするか、疑を呈する事なく月下氷人の役を引き受けたのです」

「小蝶丸……」

「なればこそ──これが最後であるからこそ、私は彼女に会いに行かねばならぬのです。最後である事は、私自身が最もよく理解しているつもりです!」

 声を張り上げた先生は、そこで勢い込みすぎたらしくごほごほと(しわぶ)いた。海老の如く背を丸め、苦しそうに喘鳴を発する彼に、厳粛な顔を保っていた寿和の方も慌てたように傍に行って彼の背を(さす)った。

「落ち着きなさい、小蝶丸」

「申し訳ない……」

 苦しげに絞り出す彼に、母君は幾分か声を和らげて問うた。

「あなたはまだ、千与殿には本当に何も言っていないのですね?」

「その必要がありますか、母上。今日、私ははっきりと分かりました。彼女は今、今回の婚姻について非常に悩んでいる。その状況で、私が殊更(ことさら)に困らせるような事を申す訳には参りません」

 心配めされるな、と彼は言った。

「引き受けた事については、精一杯に責任を果たします。向こうとの付き合いの事もある、彼女が今を乗り越えて主膳殿と上手くやっていけるようになったならば、私の事など言う必要はないでしょう」

義妹(いもうと)に……縫殿には?」

「全てが終わった後、父上から説明して頂く。端くれとはいえ、武士の子として生を受けたからには最後まで気高く在らねばなりません」

 ──私に言っていない? 何を?

 千与は、鳥のものか、はたまた自分のものか分からぬ心の臓がドキドキと拍動するのを感じた。つまり、どういう事か。

 ──私に言って、困らせてしまうような事? 私が主膳様と上手くやれるようになったら、言う必要がなくなる事? 最後までって何? 気高く? だから先生が言えないような事なの?

(はっきり分かったって……何を?)

 忠綱先生は、私を女として好いていてくれたという事か。

 思考がそこに行き着いた時、拍動が最高潮に達した。自身の体の感覚に集中してしまった為、幻視が消え、千与は弾かれたように自らの体に返る。

 軽い落下感と共に五感が部屋に戻った千与は、背中から倒れ込むように仰向けになった。

 もしかして、という淡い予感が、未だ治まらない激しい鼓動に押し出されるように胸の中から浮かんできた。

(先生……武士の子だから、男だから言えないだけなの? ほんとは私と主膳様の結婚の事、納得していないの? それは……私が掛けるべき言葉、好きだよって一言を待っているって事なのかな……)

 考えてはいけない事だ、と千与は思った。

 しかし、その考えを頭から振り払うには──どうしようもない程に、自分は恋に悩む一人の女の子なのだった。

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