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夢遥か  作者: 藍原センシ
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『夢遥か』弐ノ章 月下氷人⑨


          *   *   *


「千与ちゃん、どうしたんだよ……? 私が来るのは半月ぶりじゃないか、いつもみたいに嬉しそうにしてくれなきゃ。宿題はちゃんと出来たかい? 煌姫のお話、読めるようになった?」

 忠綱先生は、当惑した様子ながらも泣きじゃくる千与の髪を撫でてくれた。

 その優しさが、今の千与には苦しかった。

 ──先生は本当に、私の気持ちを何も知らないの? どうして、ごく普通にそんな事が出来るの? 私には、泣く為だけに先生の胸を借りる事も、もう出来なくなってしまったのに。

 そう尋ねたかった。

「先生、あのね……」

 自分に残された時間は、もうあと僅かだった。

「……私の愚痴、聴いてくれる?」

 未だ(きた)らざるいつかの自分に委ねる時間は、なくなってしまった。

「言って、千与ちゃん」先生──真剣な声。

 逃れる前にその道を封じてしまう事が、家というものの宿命だった。

 千与はしゃくり上げるように呼吸を整え、がばりと(おもて)を上げた。心に不要な躊躇いが生じる前に、一息に口に出す。

「瀬利家との縁談がまとまったの! 私が知る前に、本家との段取りは決まっていたの。嫁入りの準備は進められていたし、私はもうじき瀬利のお屋敷に行って、そしたら……」

 先生にはもう会えなくなる。

 その言葉が、続けられなかった。

 先生は、ぐっと押し黙った。勢い良く上げた顔が、彼の視線から韜晦(とうかい)するようにこわごわと下がっていく。彼の表情がどうなっているのか、という事を思うと、千与には直視する事が出来なかった。

「──怖がっているの?」

 やがて先生は、着物の膝の上でぴくぴくと痙攣する千与の手を、そっと包むように握ってきた。その体温に何かが融かされたように、再び涙が落ちる。

「分からない……私にも分からないよ……」

「お相手は、ご長男の主膳(シュゼン)殿?」

 千与は肯いた。

 瀬利公順條(ヨリエダ)の世継ぎ・主膳とは、戦勝祝いの宴や容昭公の当主交代の儀などに列席させられた折、何度か顔を合わせた事があった。幼い頃から美少年で物腰もすこぶる柔らかく、旗本の家とはいえ由比本家に近い家々の女子(おなご)たちからも是非お近づきになりたいと言われていた。

 政略結婚だったとしても、本当であれば千与にとって申し分のない相手だった。瀬利家傘下の武家が由比のみでない事を鑑みても、玉の輿(こし)に乗ったと言われるような話だ。分家出身の妾腹の私生児だという事と、曲がりなりにも当主の血を引いているという事、武門界に於いてどちらが優先されるべき事柄なのかは分からないが、とにかく好機である事は事実である。

 主膳様は、自分の事を妻として愛して下さるだろう。実際に彼が自分に想いを寄せているという事は縁談が持ち上がってから幾度も母や頼母殿から聞かされたし、自分もこれを承諾すれば彼らを安心させられる。何より、(けだもの)と心を同じくするなどという法──法ろいを宿した娘を生んだという事で、本家から母に向けられていた冷風を()ます事が出来る。自分も満足し、彼の事を主人として愛する事が出来ただろうとは思う。

 しかし、千与には想いを寄せる相手が居るのだ。

 千与は早いうちに、相手を伴侶としてではなく”男”として愛する事を知ってしまっていた。誰かが聞けば、二者は同じ事だと言うのかもしれない。しかし、自分は主膳殿を愛せるかもしれないとは思いながらも、千与がそう想っている相手はどうしようもなく忠綱先生なのだ。

 この時系列と、どうにも変え難い感情によって、千与は非常に微妙な点に於いて瀬利家御曹司の愛を受け容れる事が出来なかった。

「……思ったよりも」

 不意に忠綱先生が呟いたので、千与は思わず嗚咽を止めた。

「思ったよりも早く、君が知る事になってしまったね」

「えっ?」驚き、背筋が伸びる。「先生、前から知っていたの?」

「一月前から。大伯父(おじ)様──頼母殿が千与ちゃんに伝えるよりも前だよね。ご当主様から(ふみ)が届いたんだ、瀬利家との話がまとまったから、婚姻に向けて私に仲人(なこうど)を務めて欲しいって」

 この半月、先生が「深森の屋敷」に来られなかったのはこの為だったのか。

 千与は納得しながら、(ほとん)ど顔を合わせる事もない生みの父を恨めしく思った。忌みの対象にし、長い間無関心を装っておきながら、自分と忠綱先生との交流が深い事は知っていたのだ。

 何故そこで、年頃の男女の関係についてまで思いを巡らしてくれなかったのだろうと思うと、不条理と言う(ほか)なかった。

「それなら、どうして私に教えてくれなかったの?」

 (なじ)るような口調になってしまわないように、千与は精一杯の努力をせねばならなかった。

「いつ君に話が伝わったのか、分からなかったから……何せ、ご当主様と瀬利家の間で決定された事だ。私のような末梢の者が、当事者である君に勝手に伝えられる訳がないだろう。バレないようにするにしても……君自身が、この結婚を望んでいるとも思えなかったしね」

 忠綱先生の言葉に、千与ははっとなった。

「そう見えたんだ、私」

「如何に相手が、主膳殿であったとしてもね。昔から、そんな気はしていた。私の家の方で、周りの誰かが家来の家に嫁いだ、とか、婿養子を迎える事が決まった、とか話す度に、君は何処か──そうだな、怯えているような感じがした」

 ──そうだ。千与は納得する。

 いつか自分も、先生の話してくれる女子たちのように、誰かと婚姻を結ぶのだという想像。或いは先生も、元服と同時に周囲の者たちと同じように妻を迎える事になるのではないか、という予感。それに先生への思慕が加わり、複雑な気分になる事があった。

 あれは、不安だったのか。

(私は、主膳様が怖い訳じゃない……結婚そのものが、怖かったんだ)

 千与がそう思っていると、先生はやや逡巡するように唇を震わせてから「理由を聞いてもいいかな?」と問うてきた。

「君は誰か、明確に一人の男を好きになっている訳じゃないの?」

 それなら悩む理由も分かるけど、と彼は言った。千与は迷う。

 この問いを発した事で、やはり先生は自分が、彼の事を好きでいる事に気付いていないのだ、と分かった。それは即ち、彼もまた自分の事を、一人の女として好いてくれてはいないという事なのか。

(もしそうなら、こんな聞き方はしないよね)

 ならば、ここで肯定してしまったら──先生は、それが彼自身の事だとは思わずに終わらせてしまう。自分の恋も終わってしまうのだ。

 (しば)し思考を低回させた後、千与は(かぶり)を振った。先生は力が抜けたように「そうか……」と呟き、座布団の上で膝の位置を整えた。

「千与ちゃん。私はずっと昔から、君の事を見てきた。家同士の問題であったとしても、その上で主膳殿は君にとって申し分のない男性だと私は思う。だけど、結婚するなら君には幸せになって欲しいんだ。だからもし悩み事とか、都合の悪い事があるんだとしたら、どんな些細な事でもいい、私に言って欲しい。私は出来る限りの事をして、それを解決したい。

 無責任な事を言っているとは、分かっているよ。だって私は、ご当主様から見れば再従妹(はとこ)の甥でほぼ他人、頼母殿から見ても甥孫なんだから。自分に何が出来るのかも分からない……けど、そうでもしなきゃ私は、千与ちゃんを心から祝福してあげる事は出来ない!」

 彼の言葉に、次第に熱が込もっていった。

 千与は、口の中がからからに乾いたように思う。彼の言葉は決して、その場だけの浮泛(ふはん)なものではない”本気”を帯びていた。

 涙に濡れた視界の中で、心なしか先生の瞳も潤んでいるように見えた。

 刹那──矢庭(やにわ)に先生の両腕が、こちらの頭に回された。彼の広い胸に顔が押しつけられ、薄い着物の奥で心の臓が大きく脈を打った。

「忠綱……先生?」

「千与ちゃんは私にとって、単なる教え子じゃないんだ。小さい頃から私は、君からも沢山の事を教わった。色んなものを貰った。私の存在の為に、千与ちゃんが必要だったんだ。せめて最後くらいは、私にも格好を付けさせてくれないか」

 彼の熱に浮かされたような言葉に、千与は頰が、溢れ出す涙とは別の理由で熱くなったのを感じた。

 やや(しば)し呆然としてしまい、その後で「ごめんなさい」と謝った。

 幾つもの自分の声が、心の中で言っていた。──彼はどうして、ここまで言ってくれるのだろう?

 或いは、──言ったら困らせちゃうじゃない……他でもない先生を好きでいるせいで、こんな始末になっちゃっているなんて。

「本当に、自分で自分が分からないの。ちょっと、家を出るって事に過敏になりすぎているんだと思う。ほら私、物心ついた時から、公用以外でこのお屋敷を出た事なんてないから」

「千与ちゃん──」

「もし言葉で言えるようになったら、ちゃんと言う。きっと。先生だって、私にとってただの先生じゃないんだから」

 それ以上の事は、言おうにも言えない台詞だった。

 ──きっとその時が、私に与えられた最後の機会なんだ。

 そのような思いが、胸裏で頭を(もた)げた。

 先生に抱き締められているという状態が終わりを告げる事を、少々名残(なご)り惜しく思いながらも千与は自分から体を離した。

「先生、じゃあいつも通りに……ご教示をお願いします」

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