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夢遥か  作者: 藍原センシ
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『夢遥か』弐ノ章 月下氷人⑧

  ③ 千与


 とうとう、彼に告げねばならない日が来てしまった。

「深森の屋敷」の奥座敷、勉強部屋で机の前に正座しながら、千与は膝からわくわくと込み上げてくる震えを懸命に抑えようとしていた。それが上手く行っても行かなくても、そうしなければならない己が情けなかった。

 机に立てた筆の影が、巳の刻を示すのを待つ。普段は待ち遠しさ故に長く感じるこの時間が、今日はその性質を変えている。未だかつてない程長い体感時間に、千与は自分の中で、早く彼が来て欲しい、という気持ちと、このまま来ないで欲しい、という気持ちのどちらが(まさ)っているのかが分からなかった。

 鬩ぎ合う気持ちに、今までは待ちきれず玄関まで迎えに行く程だったのに、と自嘲しようとしても口角が上がらなかった。

 定時より早くやって来たのは、彼の方だった。

「千与ちゃん」

 廊下から足音が聞こえ、戸の向こうから呼び掛けられた。

「おはよう、私だよ。……入ってもいいかな?」

 どうぞ、と千与は(いら)える。滑るように、やや軋んだ音を立てて戸が開き、彼が姿を見せた。藍鼠(あいねず)色の地に由比家の家紋である竜胆(りんどう)を染め抜いた着物を纏い、数冊の教科書を持った青年──由比忠綱先生。

 彼は前回この屋敷を訪れた時よりも、やや痩せたようだった。しかし、少年の頃から変わらないその優しげな顔を見た瞬間、千与は喉が詰まったようになって何も言えなくなってしまった。

「ごめんね、最近来られなくって。……千与ちゃん、元気ない?」

「い、いえ……そんな。変わりありませんよ」

 教わった言葉遣い通りにそう言うのがやっとだった。

 どう切り出そうか。言ったら、彼はどのような反応をするだろうか。

 言葉を探しているうちに、胸中で渦を巻く様々の思いが、いよいよ大きな波情となって込み上げてきた。必死にそれを呑み下そうとする千与だったが、出来るはずもなく、

「先生! 私……私は……っ!」

 わっと声を上げて泣き伏してしまった。


          *   *   *


 忠綱先生は、千与よりも五つ上の読み書きの教師である。出身は千与と同じく由比の分流で、本家当主・容昭の再従弟(はとこ)──即ち千与の母・縫の方の兄──である氏篤(タミアツ)の次男。千与にとっての従兄(いとこ)に当たる。

 武士の身分ではあるが、家名だけを継承し本家との血脈がそこまで強い訳ではない彼は、元服した後も(もっぱ)ら学問に身を入れていた。その域は武士が当然持ち合わせるべき教養の範疇に留まらず、氏篤殿からは武芸や狩猟も疎かにしてはいかん、と苦言を呈され、母君もまた蔭室に籠って書物ばかりを(あさ)っていると色ばかり白くなってしまう、と顔を顰めていた。

 とはいえ、武士としての猛々しさを欠く代わりに、本領である学の腕は立つ男だった。千与の母と氏篤が兄妹であり関わりが深い事から、彼は従妹の学問の先生として呼ばれたのだ。

 分家が現当主の頼母一家とその他の者たちに分かたれ、前者が「深森の屋敷」に移る以前、千与は忠綱先生と同じ屋根の下で暮らしていたらしい。それは千与が三つになるよりも前の事であり、今の自分にその記憶はない。だが、千与は七つにして初めて彼と”対面”するよりも前、この屋敷に移り住んで間もない頃に彼を知る事になった。自分の事として覚えている記憶の中で、最も古いものだ。

 それは千与にとって、初めて自らの法を──「(たわむ)れ」を自分の意思で使用した時の事だった。

 当初、千与はそれこそが一家のこの屋敷に移った理由であり、その原因である自分の隔離された理由であるとは知る(よし)もなかった。後に母から教えられた話では、千与が初めて法を発動し、(やしろ)で霊能者であるとの診断を受けたのは一つになる前後の事であったのだから。

 その時千与はただ、この座敷から徒然(つれづれ)なる心のままに窓を眺めていた。真昼の陽光が畳に格子の影を落としていた事まで、最古の記憶は鮮明に名残(なご)り続けている。その窓に、一羽の黄鶲(きびたき)が留まった。

 外で遊ぶ事は、許されていなかった。鳥獣に心を寄せ、()()()()()()()という法が詳らかになっていたのだから、このような森の中では当然の事だったろう。自身で法が制御出来るようになるまでは、千与は度々雀や鴉、猫、果てには騎馬武者の駆る馬にまで同化した。仮に森を棲家とする猛獣、更にいえばそれらが化ける妖怪に乗り移ったりなどしたら、何が起こるか知れたものではなかった。

 きっと幼い自分は、その事に疑問を抱きはしなかっただろう。三つにもなれば外の世界の存在は知っていただろうが、そこに出てみたいという思いは起こらなかったに違いない。

 故にその時、千与は何故自分が、その鳥になって窓外に飛び出してみたいなどと思ったのか分からない。

 突発的な、願ったというより”思ってみた”程度の衝動だった。

 それが叶い、一連の出来事を体験するに至った為に、千与にとってこの出来事が重大な意味を持つものになった。

 気が付けば千与は、黄鶲の目から自分を見ていた。畳の上に両足を外側に折って座りながら、自分の体は虚ろな双眸を窓に向けたまま硬直していた。

 翼を広げ、風を受けると、千与は飛ぶ事が出来た。飛び方自体は鳥の体に刻み込まれた記憶であり、それにとって千与は、自分が鳥になったのではなく、鳥と自分が感覚を同じくしたのだと悟った。千与はそのまま、山林を飛び回り、裾野を滑降し、城下町を見に行った。

 町外れの草原で鷹狩りをする武家の若人(わこうど)たちに遭遇してしまったのは、降って湧いた災難としか言いようがない。

 彼らの使役するよく訓練(なら)された鷹は、山から飛び出して来た黄鶲──千与を見、いい獲物を見つけたとばかりに襲い掛かって来た。草原の草丈があと二、三寸ばかり短ければ、或いは千与という人間の意識が鳥に宿っていなければ、鷹たちは獲物を殺す事に成功していただろう。

 翼の一部を浅く裂かれた千与は、泣きたいのを堪えながら山に引き返そうとしたものの、体力が続かなかった。見覚えのある屋敷──それは当然の事で、そこは前の年まで自分が住んでいた由比分家だったのだ──の前で力尽き、飛べなくなってしまった千与が心細さで一杯になっていると、

「だ、大丈夫……?」

 七つ、八つ程の小さな男児(おのこ)が、躊躇うように声を掛けてきた。

 千与が一族の中で出会った者たちの中で、最も幼かったであろう彼。しかし(よわい)三つであった自分にはその子が、自分が決してその歳に追い着く事が叶わないと思う程に大人に見えた。

 その子供が、元服後に名を忠綱と変える小蝶丸(コチョウマル)だった。


          *   *   *


 こっそりと部屋の中に連れ帰り、怪我の手当てをして食べ物も少し与えてくれた彼は、その間ずっと黄鶲の千与に語り掛けていた。ややもすると、彼は自分が人間の心を持っている事を知っているのではないか、と思う程に。

 そうではない事は、彼がこちらが返答するとは全く考えていない様子である事から分かった。小さな子供が、人形や愛玩動物に向かって話し掛けるのと同じような事だったのだろう。しかし千与は、それで彼が如何に”命”に対して優しい心を持っているのかという事を知った。

 以来、千与は何度も様々な鳥の体を借り、彼に会いに行った。無論彼と言葉を交わす事は出来ないが、遠くから見、時折声を聞く事が出来るだけで千与は心が満たされるのを感じた。

 あの頃からきっと、千与の彼に対する想いは始まっていたのかもしれない。

 それは「好き」と名付く事の出来るような想いでありながら、今から思えばまだ幼心の行き着いた結果、萌芽した感情に過ぎなかった。忠綱先生と”対面”してからというもの、千与は

「千与、先生の事好きだよ」

 何度もそう言った。妙に懐くようだ、と、周囲の大人や先生本人から思われながらも、千与は以前から自分が戯れを使って彼に会いに行っていた事を、口に出して明かしたりはしなかった。

 先生もまた、千与のそのような想いを「幼心故の恋」と受け取ったようだった。子供に懐かれる事に対して嬉しい気持ちは感じていたようだし、実際に「私も千与ちゃんが好きだ」と返してくれる事はあったが、それがいつしか、千与の中で男女の付き合いという意味での「好き」に変わり始めた頃になっても、彼は自分を誤解しているようだった。

 女として口にするその言葉が大きな意味を持つようになり、また身分ある令嬢としての立ち居振舞いを学ぶ中で、千与が彼に対する想いを口に出せる事は徐々に少なくなった。

 その事を寂しく思っているのは、千与自身の方だった。

 もどかしかったのだ。今まで軽々しく口に出来ていた事が、次第にそう出来なくなっていく事が。

 それは教育によって植えつけられた観念のせいではなく、自分自身にいつしか萌していた羞恥心の為だった。忠綱先生は未だにこちらの事を「千与ちゃん」と呼び、教師として接してくるが、千与は自分を一人の女性として考える時、その事が嬉しいような、一方で昔の何倍も気恥ずかしいような気持ちになるのだった。

 千与は法を使い、城下町に居る彼をこっそりと探りに行った事もあった──知るのが怖いような、知ってしまった方が牴牾(ていご)も消えて楽になるのではないか、というような、両面感情は否定出来なかったけれど。それでも彼は自宅で、教え子である千与に関する事は一切口に出していなかった。

 幼い頃、自分は幾度も彼に好きだと言った。背中から抱きついた事も、軽く接吻(くちづけ)をした事もある。だが、まだ女の性も自覚していなかった頃の自分のそれらの行動について、畢竟彼はどのように思っていたのだろう?

 全ては千与の推測でしかなく、またそうである事が、彼を男として慕いながら自分は結局、この上なく近い所に居る彼の心を知る事も出来ないのだ、という証明になってしまいそうで怖くもあった。

 未だに歳の近い異性の教師が教えに来、その人物と密室で二人きりになる事が母や頼母殿に許されているのは、幼馴染故に千与と忠綱先生が互いに異性という意識を持たないという先入観に基づいた状況だ。それは大前提であり、自分の気持ちが露見するような事があれば、彼がこの屋敷を(おとな)う事も許されなくなってしまうかもしれない──。

 そのような事を自分への言い訳にし、千与は忍び続けた。

 いつか(きた)るべき日、呪者となり家の(くびき)から逃れたら──自分が年老いた頃の事と同じくらい、今はまだ未形(つねなし)の将来に居る自分にその選択性を委ねて。

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