『夢遥か』弐ノ章 月下氷人⑦
* * *
「……煙、未だ縷々として雲上に立ち昇りたるとぞ語り伝へたるとや」
声が聞こえてくる部屋に辿り着くと、僕と俊輔は微かに襖に隙間を開け、室内の様子を窺った。
四畳半程の、正方形の座敷。書斎のようで、窓際には文机が置かれている。
その前に、本家の奥座敷で見た少女の姿があった。しかし、当然ながら纏っているのは死装束ではなく桜紫色の着物で、綺麗に結われた髪に縁取られた頰も豊かで血色がいい。
姿勢良く背筋を伸ばし、本を読み上げる彼女の左斜め後ろに正座しているのは若い男で、同じ本を膝の上に置きながら目を閉じ、彼女の声を”味わって”いるような様子だった。
「先生、どうでした? もう煌姫のお話もちゃんと読めるようになったでしょ?」
少女──千与さんは、くるりと青年を振り返る。
先生と呼ばれた青年は、ゆっくりと目を開け、ふわりと微笑んだ。
「上手に読めるようになったね、千与ちゃん。君にはまだ難しいんじゃないかと思ったけど、ちゃんと読めていた。間違った箇所はないし、これは評価とは関係ないけど千与ちゃんは声も綺麗だ」
「えへへ」
「けど、書く方はもう少し要練習かな」
「渡海の字は難しいんだよー」
「とはいっても、法唱はそっちの字で書かなきゃいけないんだから。それに武家の嗜みでもあるよ。……大丈夫、千与ちゃんが大人になるまで私が何度でも教えてあげるからさ」
先生が言うと、千与さんはぱっと顔を輝かせた。
「忠綱先生、大好き!」
彼女に抱きつかれ、先生は両手を「降参」の形に上げて声を上擦らせる。
「い、いけないなあ千与ちゃん……武家の娘たる者、十を越えたならもう少し慎ましやかに……」
心から幸せそうに笑う千与さんを見、僕と俊輔は互いに顔を見合わせた。
中央武家の女子たちは、幼年期から歯を見せて笑ったりするなどの事ははしたないと言われ戒められる。しかし目の前の千与さんは、その仕草も言葉遣いも、僕の知る村の女の子たちとさして変わらなかった。
「堅苦しい行儀を教えられていた訳じゃなかったのか、それとも──」
「本当の彼女は、こういう娘だったのか」
僕の台詞を引き継ぎ、俊輔は言った。
「凄く、溌剌としているな。武家を離れた俺の目から見れば、とても活き活きとして魅力的だ。こう在る事が、彼女が本当に望んでいた日常だったんだとしたら……悲しいな」
「彼は、誰なんだろう?」
僕は視線を忠綱先生に戻し、微かに疼く胸の奥を宥めながら疑問を口にする。
そうは言ってみたが、見る限り素性は一目瞭然だ。由比家の教育役で、千与さんの読み書きの教師。しかし、そういった意味合いではなかった。
「よしっ、それじゃあ今日はここまで。千与ちゃん、また明日ね」
「ちょっと待って、先生。蓬の間に行って座っててよ。お茶とお菓子持って行ってあげる」
「いつも悪いね、私は構わないんだよ」
「いいの。私がしたい事なんだから」
忠綱先生は「ありがとう」と会釈し、僕たちの覗いているのとは反対側の戸から部屋を出て行った。
千与さんは彼が戸を閉めるまで目を離さず、彼が見えなくなった後で先程まで読んでいた本を取り、両腕で胸にぎゅっと抱き締める。やがて彼女は本を机上に置き、頰杖を突きながら深々と溜め息を吐いた。
何処か物憂げな表情を浮かべ、和綴じの表紙に描かれた煌姫の垂髪を指先でなぞっている。僕は思い至った事を口に出そうとし、
「あのさ」
俊輔と声を揃えてしまった。
「あっ、いや……ごめん。俊輔から先に言って」
「いいよ、俺は別に。多分、お前の言おうとしている事と同じだ」
「それじゃあ、ちょっと言ってみて」
「お前も一緒に」
僕たちは、「恋煩い」とまた声を揃えた。
「だよね?」「だな」
間違いない、と、俊輔は大きく肯いた。「一見すると、庶民の小さな子供が近所のお兄さんを好きになるような──それこそ、大人になったらお嫁さんになるの、と言うような感じだ。実際、あの様子だとそうだったんだろう。昔はな」
「今の忠綱先生っていう人も、きっとそう思っていたはずだ。けど、いつしか千与さんの気持ちは、大人として彼を愛する気持ちに変わっていたんだ。……待ってよ、それじゃあやっぱり」
──家同士が決めた婚姻には、納得していたはずがない。
そう思った時、僕の脳裏に蘇るものがあった。
夢惣備を始める前──「夢遥かの世界」に潜行する直前、耳にした幾つかの台詞だった。
──当初、ご当主様は彼女を……教師役のあの男と共に倒れ、既に体温を失い心の臓も止まっていた彼女を発見された際、死斑や創傷などの一切ないその様子から異変を察知された後も、引き続きそのお体を「深森の屋敷」に置くようご意向を示されたのです。
炳五郎殿の言葉。或いは、
──今年最初の夢見の刻、一族の男と瀬利家の御曹司との私闘に巻き込まれて落命し、「夢遥かの世界」に接触。
弥四郎による、千与さんの紹介の言葉だった。
彼らの言う「教師役のあの男」、もしくは「一族の男」というのは、忠綱さんの事なのではないか。その彼が、千与さんの許婚と喧嘩した? その結果、彼女は忠綱さんと共に命を落とした?
嫌な予感が、体幹を駆け上がって来た。
僕は気付けば立ち上がり、襖を思い切り引き開けていた。千与さんが、ぎょっとしたようにこちらを見る。
「鶴来、迂闊だぞ!」俊輔が叫んだ。「信号を上げないと!」
「接触しなきゃ、真実は分からないんだろう!」
僕は叫び返すと、怯えたように大きく見開かれる彼女の目を見た。
僕たちは、この夢の世界での彼女の幸せを──恋い慕う気持ちに悩んでいる状況すら、愛おしく思っているのであろう彼女の”今”を壊してしまう。けれど、それは単なる否定ではない。
彼女の未練を断ち、解放するのだ。想いを捨てさせるのではなく、止揚する。
それが、夢の惣てを備らかにする、或いは備えるという事だ。
それによって、この世ならざる場所から魂を連れ戻し、再び人の世に”結ぶ”という事なのだ──。
「あなた、誰……?」
(来い、心象)
戸惑いがちな千与さんの瞳と視線が交錯した時、僕は念を送った。
俊輔の体を介してここに潜行した時の如く、体からするりと僕自身が抜け出て彼女の目の中に飛び込んで行った。
* * *
走馬灯の如く、断片的な無数の風景が周囲を舞う。淡い光の靄に包まれた円い薄闇の空間を、僕は鳥の如く抜けて下って行く。
少し先を揺蕩う不定形の光。僕には、それこそが千与さんなのだと直感的に分かった。それに向かって手を伸ばし、真っ直ぐに翔ける。心に入り込むまでの間が、これ程ゆっくりと感じられたのは初めてだった。
──君の心と話してみるよ、千与さん。
次第に僕の意識は彼女と同調し、心の中に彼女の思い出が流れ込んで来た。




