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夢遥か  作者: 藍原センシ
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『夢遥か』弐ノ章 月下氷人⑤


          *   *   *


「深森の屋敷」という名前ではあるが、当然ながら武家屋敷がそこまで深い山奥にあるはずがなく、山道に戻って下って来た小川の流れを遡って行くと半刻足らずでその建物は見つかった。

 徐々に丈を伸ばした下草が、その土地だけは本の部分だけを残して丹念に刈り取られていた。群生する茂みも一部分が除去され、その土地に続く獣道のようになっている。

 木々の間を抜ける時、僕はそこに建つ平屋を囲むものを、上部に尖った忍び返しの付いた板塀だけのように認めた。しかし接近するに連れ、屋敷はその板塀の外側をぐるりと囲むように掘割が巡らされている事が分かってきた。その幅は、葛城の市庭(いち)で見た本家の掘割よりも遥かに広かった。

 水は、深い泥緑色に濁っていた。水深は把握出来ないが、時折水中で何か鱗のようなものが光るのが見える。水練に長けた者が泳いで渡る可能性を閲し、肉食魚か何かを飼っているのかもしれない。

 板塀の向こう、屋敷を含む土地はそれなりに広闊だ。日根の村でいえば、村(おさ)の屋敷程の面積はあるだろう。ここからでは敷地内を覗く事は出来ないが、四つ角には見張り(やぐら)まで建てられている。

「この中に忍び込むのか……」

 僕は忍び返しを見上げ、思わずそう口に出してしまう。

 細い丸木を削って作られたはずのそれは、葉間から射し込む日光を浴びて本物の槍の穂先の如くぎらぎらと光っていた。

「堀を渡るのも厳しそうだね」

「と、思うだろ?」

 俊輔は、何故か得意げに言った。

「ところが弥四郎が居ると、こういうところは簡単に済むんだ。お胡尹に会いに行く時、山城国の武士団が谷間で仕掛けてきた落石の策から身を守る事も出来た。鶴来が加わってから今まではお披露目の機会がなかったけど、まあこの通りだ。弥四郎、宜しく頼む」

 彼に指名されると、弥四郎は無言で肯いた。進み出、屈み込んで絶えず敷地の周囲を流れる掘割の水に手を翳す。

 次の瞬間、水の動きが不意に止まった。

 凍りついたのではない。霜が降りたように白変したりはせず、淀んだ泥や藻の色を留めたままぴたりと静止したのだ。側壁に当たって小波(さざなみ)を立てていた水は波頭の形をそのままにして固まり、水中で魚が動いた拍子に跳ね上がった飛沫(しぶき)は空中で水玉のまま留まっている。

「……一応、外周全ての水を止めた。見たところ、何処かに水車でもあって循環させているらしい、流れがある。一部分を止めただけじゃ、それ以外の所から残りの水が押し寄せて来るだろうから」

 弥四郎は言うと、そこで額に皺を寄せた。

「やっぱりこれだけの量の物体、しかも流動的で不定形なものを止めるとなると負荷が大きいな。息苦しいったらありゃしない……」

「びっくりしただろ、鶴来?」

 俊輔は誇らしげに笑うと、弥四郎の背を叩いた。

「こいつの『時柵』は、ものに流れる時を止める事。水に使えばこのように運動は止まるし、腐敗したり藻が発生する事もない。落下物は頭上で止められるし、弓から放たれた矢を防ぐ事も、振り下ろされた刀を止めて敵に一瞬の抵抗を与える事も可能になる。まあ刀の場合は、人間を止めない限りまた振られるから完全に防げるって訳じゃないけど、初速が重要な居合斬りとかは剣速を殺せるから実質無効化出来るって事だな」

「それ、人にも使えるの?」

 僕が目を円くして聞くと、俊輔は「まあな」と肯いた。

「全身に使えばその場で固まるし、血流や心の臓の拍動も止まる。戦い向けに思えるかもしれないが、無敵って訳じゃないぞ。対象者は弥四郎に止められている間、窒息とかで死ぬ事はない。血管が切れていても血は流れないし、そもそも状態が変化しないから刀も通らなくなる。だから戦いで使うなら、敵からの攻撃を余裕を持って躱す時くらいだな。つまりは、対象を完全に時の流れに取り残す法なんだよ」

「もう一つ弱点がある、忘れないでくれ」

 弥四郎が、依然苦しそうに言う。

「俺に、時の代償が回ってくる事だ。このように目方が大きなものを止めると身体機能のあちこちも止まるし、止めた分の時は不慮の事故がなかった場合の俺の寿命から差し引かれる。目方は一貫区切りだ」

 彼がそそくさと停止した水面(みなも)に足を踏み出すと、なるほど、それは滑る事も踏み抜かれて沈む事もなく、彼は堀の上を歩き出した。

 俊輔は、肩を竦めながら彼の後を追う。

「説明する時間くらいはいいだろう? 呼吸数回分の時間なんて、人の一生に比べたら一瞬みたいなものじゃないか」

「その転瞬倏忽(てんしゅんしゅくこつ)が積み重なって、一生になるんだろう」

「はいはい」

 俊輔に続き、お胡尹も堀に進んだ。

 僕はおっかなびっくり足を伸ばしたが、水面に爪先が当たると石畳のような感触が伝わってきた。本当に、完全に静止している。

「対岸、というか塀の一部に門があるだろう? あれを堀に向かって倒すと橋になるっていう寸法だ。本家の屋敷みたいに、物見窓で外を見て来訪者があれば橋を架けるんだよ」

 俊輔は、板塀の一部を指差した。

「滑車を動かせば外からでも開けるようになっている。こんな法を使う奴が水の上を歩いて近づいて来るなんて、誰も想定しなかっただろうからな。上手い事近づいて橋桁を渡したら、堂々と門から入るとしよう」

「そんなに大胆で大丈夫なの?」

「そうだな。元々分家の別荘だから、常日頃からそれ程人は詰めていないらしい。家臣も侍が数人だけ、それに俺の予想が正しければ──おっと、これは言わないお約束だったな。とにかくこの屋敷は、千与殿が生まれて霊能者と診断された直後に建てられたものだ。彼女が瀬利家に嫁いだ後、取り潰される予定だった」

「取り潰され……」僕は言葉を失う。

「石高の高い旗本は租税の額も大きいから、財政にそこまで余裕があるって訳じゃない。あまり人の居ない屋敷を多く持っていると、管理に掛かる費用が嵩むって事なんだな。元来分家は分家で一つの屋敷があった訳だし、まとめられるものはまとめようという事になったんだろう。それに、近頃ではこういう(ふう)に山の中に屋敷を置いていると危険が大きい。妖が出るから」

 俊輔は言ってから、「彼女の婚約にしてもなあ」と独りごちた。

「由比と瀬利、両家の繋がりを強める為の婚姻だからさ。元々嫡流じゃなく、次代を告げない彼女だ。(かたづ)けるなんて言い方は可哀想だけど、そうでなきゃ母君の縫の方みたいに、将来は見知らぬ親類の側女(そばめ)だ」

「個人の感情より男たちの論理が優先される世界なんだ、武家というものは」

 弥四郎が、やりきれないというように後を引き継ぐ。

「損得勘定で定められた道を歩まねばならないっていうなら、武士の子を続けなくて良かったとつくづく思う。そんな事を続けていたら、戦で死んで怨霊となり、百鬼連に加わるしかなくなる」

「百鬼連の実態を知らないで言うなよ、弥四郎」

「民草の恐れの対象としては知っているつもりだ。怨霊になった魂は、幽世(かくりよ)にすら行く事は叶わないんだろう」

「まあ、その通りだけど」

 僕はふと、僕と俊輔の母も似たようなものだったのだよな、と思った。

 乙の君という僕の母も、夫を持ちながら細川家、大内家の結びつきを強める為に隣国に嫁いだ。彼女の、元の夫への断ち切り難い思慕と(たま)さかの機会がなければ、僕は生まれてこなかったという事だ。

 思いがけない出来事から地方武士の子となり、沙夜という恋心を許された女の子と出逢った僕。

 他方、実父の急逝から家を出、呪者となる事で武家の(くびき)から逃れた俊輔。

 本来ならば出会うはずのなかった僕たちだった。しかし、僕がたまたま近くに移った沙夜は天照の形身であり、同時に僕にもその候補であるという神託が下った。俊輔の言葉通りなら、それは天意ではなく、僕の官能気が天照や沙夜のそれに近かったというだけだ。これもまた、偶然の結果だ。

 今こうして、僕は出会うはずのない異父兄と共に夢惣備を行っている。

 あらかじめ運命づけられた事があまりに強固だと、誰がどう逃れようと足掻いたところで(ことわり)が”必然”への修正を行ってしまうのかもしれない──。

「この世界の千与さんは」

 僕は考えながら口を開いた。

「当然、瀬利家御曹司への輿(こし)入れは決まっていないんだよね?」

「さあ、それは千与殿の心次第だな。彼女の、将来は家を出て呪者になりたいという願いが叶わなくなったのは事実だけど、彼女が相手の御曹司をどう思っていたのかにもよる。もしも彼女が、その人に嫁ぐ事で自分が幸せになると思っていたなら、裏の事情はどうであれこの婚姻は慶事であったはずなんだ」

「僕は……そうは思えない」

「俺もだ。その場合、好きでない誰かに嫁ぐなんて現実の事柄はこの世界に反映されていないはずだ」

「でもさでもさ」

 お胡尹が、小さく挙手しながら言う。

「それじゃ俊輔君は、どうしてここがもうじき取り潰されるから人が少ない、なんて事が確信出来るの?」

「千与殿にとって、事実は”『深森の屋敷』には人が少ない”っていう事だけだからだ」俊輔は、噛み砕くようにゆっくりと丁寧に答えた。「彼女自身は、恐らく自分の嫁いだ後でこの屋敷が取り潰されるなんて知らされていない。彼女の中では、人が減っている事と自分の婚姻の間には因果関係がないんだよ」

「……なんか、複雑」

 お胡尹は、頭が痛くなる、というように額を押さえた。

「『夢遥かの世界』で反映される事のない現実にも、それ以外の部分から推測出来る事があるなんて」

「身も蓋もないような事を言うが、『夢遥かの世界』では目に見えるものだけに惑わされちゃいけない。鶴来が心渡りをして読み取った事だけが現実、これを各々(おのおの)が改めて肝に銘じておいて欲しい」

 俊輔が言い、僕、弥四郎、お胡尹は揃って肯いた。

 間もなく対岸に到達し、俊輔が滑車を下ろすと橋桁が下ろされた。

「奇跡的に肉食魚を避けて泳ぎ渡っても、脳天からこんなものを振り下ろされたら死ぬな」

 鈍い軋音を立てて影を落としてくる橋桁を見ながら、弥四郎が呟いた。

 その上に上がると、彼が法を解く。首尾良く塀の内側に入り込むと、すぐに橋桁を上げ戻し、なるべく人目につかぬよう傍にあった井戸の陰に身を隠した。

 とはいえ、屋敷の前庭は完全に無人だった。

 物見窓を覗いている者が誰も居ないのは、掘割を渡って来た時から予想はついていた事だ。が、それのみならず、屋敷の周囲を巡邏している侍の姿も、庭土の上を掃き清めている使用人の姿もない。西側の一画に設けられた矢場には、練習に使われたと思しき矢が数本散らばっていた。

「閑散としている、とはいってもここまでとはな……」

「元々、外からの攻めに対してそこまで警戒すべき理由もないのかもしれない。人の来ない森の中である上、由比家の中で重要な位置を占めている家門もここには居ないんだから」

 その方がやりやすいからいいか、と言い、俊輔は縁側を指した。

「探索を始めよう」

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