『夢遥か』弐ノ章 月下氷人③
② 日向鶴来
杏子色が見えた。と思ったら、瞼の裏側だった。
光が降り注いでくる方向に向かって、僕は仰向けに寝ているのだった。無意識的に手の甲を上げ、眼上の光を遮りながら目を開く。
「あ、起きたー!」
近くで、お胡尹の声がした。僕は首を動かし、そちらを見る。
俊輔と弥四郎、お胡尹が、落ち葉の上に腰を下ろして僕を見ていた。
「夢の中で寝てどうするよ」
俊輔は、やれやれというように呟きながらもほっと息を吐き出す。僕は起き上がりつつ周囲を見回した。
「僕、気絶していたの?」
森の中だった。夏の日差しが、木漏れ日となって燦々と降り注いでいる。下草は柔らかく萌え、遠くからは潺々と水の流れるような音も聞こえた。
夢の中──ならばここが、「夢遥かの世界」という事か。
夢というので荒唐無稽なものを想像していたが、思いの外普通──というより、ここ数日間現実で歩いて来た山道とあまり変わらない。囚われた人々の願いが具現化されるのなら、これが全てという事でもないのだろうが──。
「まあ、仕方ない事ではあるが大事がなくて良かった。お前はまだ霊能者で、呪者としての力が完全開花している訳じゃない。こういう事をするのには、どうにも負荷が避けられないんだろう」
お胡尹も最初はそうだったしな、と俊輔が言うと、彼女は「ふえ?」と声を出して自分の顔を指差した。
「自分の意識を、俺の法でこっちに、更にまた別の人間の中に送り込んだんだ。接触する際に衝撃を受けたんだな」
「僕、どれくらい気を失っていた?」
「四半刻も経っていないんじゃないか。その程度なら特に問題はないさ」
「問題?」
「気絶っていうのは、まあ意識が途絶した状態だからな。『夢遥かの世界』は現から魂を切り離して潜行する場所。そこでも意識がなくなれば、非覚醒状態の魂が体から抜けっぱなしの状態って事になる。それは、死んでいるのと同じ事なんだよ。下手をすればそのまま理によって幽世に送られてしまうか、運良く世界から弾かれて肉体に戻ったとしてもまた負荷が掛かる。こっちは、『夢遥かの世界』に潜る時よりも更に大きな衝撃を伴う」
「沢登りに喩えたら理解しやすいんじゃないか」
弥四郎が容喙した。片手を折り、傾斜を作る。
「下流の方が現世で、上流が『夢遥かの世界』とする。勢い良く登れば上手く登り切れるが、漕ぎ方が足りないと流されて下流に逆戻りする。落ちる時の方が、力を入れて登る時よりも衝撃が大きい」
「ふうん……」
僕は、差し伸べられた俊輔の手に縋りながら立ち上がった。その途端に立ち眩みを覚え、よろめいて彼の肩に寄り掛かってしまう。
「おい鶴来、大丈夫か?」
「平気……なるほどね。これじゃ確かに、もっと大きな衝撃が来たらひとたまりもないや」
如何に屈強な武士でも、爆発を間近で受けたり高所から落下したりすれば容易く命を落としてしまう。僕は唾液を嚥下し、自分でどうにか出来る問題ではなさそうであるにも拘わらず「気を付けよう」と思った。
「まあ、『夢遥かの世界』で受けた傷によってやられるのは肉体じゃなくて、精神の方なんだけどな」
弥四郎とお胡尹が立つのを待ち、俊輔は説明を続けた。
「こっちの世界で傷を受けても、軽いものならすぐに治癒する。重傷を負ったとしても、それで気絶して幽世に、なんて事が起こらない限り現実の俺たちの体が傷の影響を受ける事はまずない。けれどその分、あらゆる怪我は”心の傷”として精神に返される事になる。酷いと廃人のようになってしまうな」
「それじゃあ……ここで、主観を作っている霊能者の魂が死んだら?」
「それは例外。また、『夢遥かの世界』での生活が始まった地点に戻り、一切の記憶はなくなる。辻褄合わせの為、恐らくその時同じ主観の世界に潜行している俺たちみたいな奴らも巻き戻るんじゃないかな。それで現実の時間が削られる事もない。そもそも、現と夢じゃ時の流れも違うらしい」
一通り語り終えると、彼は「で」と言葉を切った。
「ここはそもそも、何処の山の中なんだ?」
「大和国じゃないの? 千与さん、そこの出身なんだし……」
僕が言うと、俊輔は「いや」と頭を振った。
「早合点は禁物だぞ。『夢遥かの世界』に反映される願望には、何処何処に住みたいとか、帰りたいとか、そういうものも含まれるだろうからな。そこが本人の見た事もない場所だったりすると、或いは現実にはない土地になっている事も否定はしきれないんだ」
「そ、そっか」
「それに、『夢遥かの世界』にも妖は出る。特に百鬼連の横行している輓近の時勢では、妖はもう野生動物のような”自然の一部”として人々に認識されてしまっているんだから。妖怪の場合、地方によって出没するものの種類や性質は一変する。元になる動物の形態が違うんだから、まあ当然といえば当然だよな。俺もその全てを把握出来ている訳じゃないし、鎮西の方に行くともう手に負えない」
「目印になるようなものがある所まで、歩いて行くしかないか」
弥四郎が言い、ぐるりと四顧した。
「近くに渓流があるらしいな。水の音を頼りにそこまで行って、流れを下れば麓には降りられるだろう。人が居たら、そこで聞いてみればいい」
「よし」
行こう、と言い、俊輔は歩き出す。すぐ後ろに続く弥四郎、お胡尹を見ながら、僕はやや出遅れたような気持ちで彼の後を追った。
「何だか皆、夢惣備に慣れているみたいだ」
誰に言うでもなく、僕は呟いた。
「初めての世界なのに、手順が決まっているみたいに……」
「そりゃ、慣れもするさ」
俊輔は振り向き、微かに笑みを湛えて応じた。
「本当に長い間、俺たちは『夢遥かの世界』に居たんだよ」




