『夢遥か』弐ノ章 月下氷人②
バタン! という激しい音を立て、社殿の引き戸が倒れた。
蹴破られたらしい、と、沙夜は振り返る前に気付く。気付きながら振り返ると、そこに黒光りする武者装束を纏った野侍が数人立っていた。
その体の輪郭は陽炎の如く揺らめき、目は爛々と血走っていた。完全に、人間としての理性を失った色。
「堕ち武者……!?」
転瞬、
「沙夜、避けいっ!」
堅塩が、こちらを庇うように進み出て懐から呪符を取り出した。
法唱の詠唱と共に、それをぱっと放つ。
「守備に当たっていた者たちは、一体何をしておったか!」
「先生、あれを!」
沙夜は、はっと気付いて声を上げる。
獣の唸るような声で法唱を唱え、堅塩の放った呪符を空中で静止させた野侍たちの足元。そこに、儀式の間社を護っていた村番衆の男たちが倒れ伏していた。刀は根元からへし折られ、或いは中段に構えたまま押し切られたのか肩口や顔面にその峰を食い込ませている。
人間の力ではなかった。堕ち武者にしても、自然発生した魍魎の類が乗り移っただけではこのようなものは生まれない。
沙夜の中で、不吉な想像が確信へと変わる。
「百鬼連……!」
「隠れよ、沙夜!」
堅塩が叫んだ瞬間、空中に留められていた呪符が爆発した。白煙が立ち込め、野侍たちは怒号と共に足並みを乱す。堅塩に押されるように、沙夜は祭壇に駆け寄ってその陰に身を潜めた。
目だけを覗かせて様子を窺うと、煙が晴れた後、侵入してきた野侍は堅塩に向かって斬り掛かっていた。声を上げそうになる口を、沙夜は両手で懸命に押さえる。
堅塩は沙夜の隠れている祭壇の方に手を伸ばし、糸を手繰るかの如く指先を動かした。楠棚の上に祭具の一つとして置かれていた宝刀が、空中を滑るようにして彼の手元に引き寄せられ、収まる。
堅塩──抜刀。……型の構えに入る。
「鵤羽原流刀術──色惨華」
横一文字の刀軌。しかし、最後に刃を返し、文字の「跳ね」を描くように短い二撃目を放つ。襲い掛かって来た野侍三人の首の間で放たれた斬撃は、最後の一撃で向かって右側の敵の頸動脈を刎ね斬った。
勢い良く噴き出した動脈血が、社の内壁に打ちつけた。堅塩はそれを見、微かに眉を潜める。
「このような野卑なる者の血で、神聖な社を穢してしまった事をお許し下さらんか、天照よ」
「ウオオオオオッ!!」
辛うじて生き残った野侍の一人が、豺狼の如き咆哮と共に刀を突き出した。たちまち、堅塩と野侍との間で凄まじい斬り結びが始まった。鋼の刃同士が交差し、火花が飛び散る。
侵入して来た野侍たちは、完全に堅塩に気を取られていた。あと一人、現在彼と交戦している者が敗れるか退いたらすぐに動こうと見守っている敵が居るが、その侍の目も祭壇からは引き離されている。
(人を呼んで来なきゃ!)
沙夜は、壁沿いに足音を殺しつつ祭壇の陰を這い出す。
堅塩は強力な呪者であり、また刀術の腕も立つ。何せ、この歳で主が剣術道場である秋嵐塾の塾頭を務める程であるのだから。
しかし、彼は今沙夜の法を解放する為、膨大な気を使ってしまっている。相手が本当に百鬼連の力を宿した堕ち武者であれば、如何に彼であっても勝利出来るかは覚束ない。
父修成か、それが無理でも他の村番衆が呼んで来られれば。
手遅れになる前に急がなければならない。そう思い、気が急いた事が仇になったのかもしれない。
無意識のうちに早足になった沙夜は、堅塩の方を向く野侍の真後ろに差し掛かった時、緊張のあまり床板を強く踏み、軋音を鳴らしてしまったのだ。突然背後で起こった物音に、野侍はぎょっとしたように肩を震わせ、刀を構えたままこちらを振り返った。
その眼光に、沙夜は蛇睨みに遭った蛙の如く立ち竦んだ。
堅塩がこちらに気付き、「沙夜!」と叫ぶ。
「何故出て来たのだ……ぬしの身に大事があれば、日出国全土を恢復するという我らの長年の悲願も水泡に帰すのだぞ」
「でも、先生……このままじゃ、先生が!」
「へへへ……健気なものだな。おい貴様、その爺をしかと抑えておけよ」
沙夜の方を向いた野侍が、蛇の如く二又に裂けた舌先を覗かせ、村番衆の血に濡れた刀身をちろりと舐めた。堅塩と刀を交えている野侍は、歯茎が見える程に切歯を剝き出して嗤う。
「言われずとも分かっている」
「さあ娘……操が守られているうちに、さっさとくたばりな!」
「逃げるのだ、沙夜!」
堅塩が叫び、野侍が一足跳びに斬り掛かって来た。
膝が笑ってしまい、足が動かなかった。痙攣は全身に広がり、手にも力が入らなくなる。お守りの如く握り締めていた簪が、からりと足元に落ちた。
激痛の予感に、強く目を瞑ったその時、
「彼河化粧!」
鋭い叫び声と共に、社殿の入口から飛び込んで来る姿があった。
はっと目を開き、その姿を認めた時、ああ、と、溜め息のような声が喉の奥から漏れ出した。
彼が、そこに居た。向かい合う沙夜と野侍の側面から割り込んできた彼は、手にした刀を高い位置で縦に振り下ろす。刀を振り下ろしかけていた野侍の顔面が削がれるように斬り割られ、敵は仰向けにどうと倒れた。
半分涙声になりながら忙しなく彼の名前を呼ぶ沙夜に、彼は屈み込んで優しく尋ねてくる。
「沙夜、大丈夫?」
声を詰まらせたまま、沙夜は何度も肯いた。
彼はこちらの背に腕を回すと、刀を置き、床に落ちた簪を拾ってそっと手に握らせてくれた。
「僕からの贈り物、落としちゃ駄目じゃないか」
「……ありがとう」
「いいんだ。沙夜さえ無事なら、それで」
彼は微笑み、振り返る。
堅塩が、戦っていた野侍をやっと倒し終えてこちらを向いたところだった。
「何故、ぬしがここに──」
「先生」
彼は、堅塩よりも先に言った。
「京までの道中に、僕も同行させて下さい」




