『夢遥か』壱ノ章 夢遥か⑤
③ 栄華沙夜
〽佇参道聞跫 燦然降葉光
可憐陽映簪 愈項背成皓
(参道に佇み跫を聞く/燦然と葉光は降る/憐れむべし 陽の簪に映じて/愈項背の皓く成れるは)
夕染の光にその赤色を淡くする鳥居の下で待っていると、彼はやって来た。暇に任せ、石段を往来する村人たちの装いを眺めたり、お気に入りの詩を小さく口遊んだりしていた沙夜が小さく手を振ると、彼もまた同じように振り返してくる。その肘には小さな巾着袋が、お守りの如く提げられていた。
「沙夜、お待たせ」
「遅いわよー、待ちくたびれちゃった」
実際には自分が着いたのもつい先程だったのだが、普段待ち合わせをする時はいつも先に来て待っている彼だ。ここで見栄を張らずにこんな台詞を言えるのは女の子の特権だ、と思い、少々悪戯っぽい気持ちになりつつ沙夜は言う。
彼は頭を掻きつつ、「ごめん」と首を竦めた。
「母上から、祭りに行く前にお遣いを頼まれてさ。堅塩先生の所に、今月の塾の収支報告書を届けて欲しいって」
「あー、もうそんな時期かあ……」
彼の母親は、秋嵐塾の会計役を務めていた。
「お母様、最近ちゃんと休まれてる? 忙しすぎたりしない?」
「それはまあ、ね。だけど、先生もちゃんと分かって下さっているから。竹細工作りも僕が手伝っているし、京に売りに行くのだって……」
それでも、収入の不足分を補う程度の内職である事に変わりはない。彼が母子共に奉公で月謝を賄いながら秋嵐塾に通い続けているのは、まだ元服の歳に至っていないながらも村番衆の一員となり、収入を得る為だった。また、そうで在る為に彼が他の同胞たちよりも人一倍刀術の稽古に励んでいる事も知っている。
沙夜も彼も、今年でもう十六だった。
彼が世間的にも一人前の武士となり、領主から俸禄を賜るようになれば、厳しい家計も潤いを取り戻す事だろう。それまでは母には苦しい思いをさせてしまう、と、心優しい彼は昔から気に病んでいた。
沙夜は同じ秋嵐塾の同胞であり奉公人でもある彼に、何かと気を回していた。夜遅くまで塾で算盤の仕事をしている彼の母親に、門限を破ってこっそり家を出、夕餉の余り物を届けた事は何度もある。気を遣わせるといけないと思い、父から頼まれて夜遅くに出ている、と伝えたところ、後になって向こうから家にお礼を言われ、露見してしまった事もあったが、父母は沙夜を叱らなかった。
「私に出来る事があったら、いつでも言ってね?」
「ありがとう。沙夜には、本当にお世話になってる。母上も沙夜が居てくれる事が本当に救いになっているって」
図々しい事かもしれないけど、と、彼はまた頭を掻いた。
「母上の事、これからも宜しくね。僕だけじゃどうしようもない事、この先もきっとあるだろうから」
「勿論よ」
沙夜が勢い良く肯くと、その拍子に髪が解けかけた。南天の髪飾りがぴーんと弾け飛び、沙夜は彼と顔を見合わせたまま固まる。
普段は髪を下ろしている自分だが、特別な日である今日は銀杏返しにし、項が見えるようにしていた。昨年までは母に結って貰っていたが、今年は自分一人で試してみた。無論、彼の目を意識しての事だ。
──が、やはり上手く結えてはいなかったらしい。
繊細な造りの髪飾りだが、地面に落ちて欠けてしまうような事はなかった。二人で無言のまま、小刻みに揺踊しながら静かになるそれを見つめていると、
「……ふふっ」
彼が、刹那の沈黙の後に噴き出した。最初は浴衣の袖で口元を押さえていたが、やがて腹を抱えての大笑に変わる。
「そ、そんなに笑わなくたって……」
沙夜は微かに頰を膨らませたが、彼の笑いの発作は止まらない。それはそれは、失礼な程に──。
気が付けば沙夜も、彼に釣られて笑い出していた。揺蕩いかけたやや深刻な空気感は、それで雲散霧消してしまう。一頻り笑った後、彼が笑いすぎて滲んだ涙を指先で払いつつ、
「はい、沙夜。これ」
肘に提げていた袋を開けた。
取り出されたものを見、沙夜は息を呑む。薄紫色の桔梗の簪だった。
「これって……?」
「京で買って来たんだ。沙夜に渡そうと思って」
彼は、舂く空の光を頰に受けながら言う。心なしか、やや早口になっている。
沙夜は咄嗟に言葉が出て来なくなり、瞬刻を置いた後に慌てて両手首を振った。
「受け取れないよ、私……高価なものだったんでしょう?」
「毎月、僕の稼ぎの分から少しずつ貯めたお金だ。貧しいからってこういう事、しちゃいけない訳じゃないだろう? 母上も、正直に話したけど怒りはしなかった」
「私に義理とか恩とか、そういうのならいいんだよ、気にしなくて。私は好きだからやっている事なんだもの」
言ってから、「好きだから」というのは口が滑った、と羞恥が込み上げる。彼は気付いてか気付かないでか、激しく頭を振った。
「そういうのは、今は関係ないんだ! 僕は沙夜に、簪を贈りたかった──もし僕や母上が、君のお世話になっていなかったとしても」
「………!」
沙夜は、まじまじと彼の顔を眺める。その視線から韜晦するように、彼は顔ごと斜め右下を向く。
もうその頰の赤らみは、夕陽を理由に出来るものではなくなっていた。
簪を贈るという事が何を意味するのか、沙夜も知っていた。
恐らく、彼も知っている──つまり、確信犯だ。
「……いつから、そうだったの?」
尋ねてもどうにもならない事を、沙夜は尋ねる。
「……分からない」
彼もまた、沙夜の予想通りの答えをした。
昔からそうだった。沙夜自身が、そうであったから。
心身が大人になるに連れ、その感情の持つ意味も徐々に移り変わった。だがそのような意味など、問う必要がない事も分かっていた。
「着けてよ、その簪。私に」
沙夜は、はにかみながら言った。彼は俯きがちになっていた面を上げ、こちらを見つめ、目を円くし──ぱっと、顔を輝かせた。やはりそれは、赤らむのと同じくらいに夕陽のせいには出来ない。
──沈みかかった夕陽の何倍も、輝いていたのだから。
「……男の僕じゃ、上手く出来るか分からないけど」
彼が手を伸ばす──髪に触れられる。解けかけた銀杏返しの根元を留めるように、軽い触覚。息遣い──聞こえない。大切なものを扱うように。熱──少し。
元の距離に戻ると、彼はほっと息を吐いた。
沙夜は、もう一度微笑んで言う。
「ありがとう」
どちらからともなく手を繋ぎ、二人は鳥居の内側へと足早に進んで行く。
彼も自分も、どちらも決定的な言葉は言わなかった。通過儀礼など必要ないくらいに、分かっていた事だったから。祭りが終われば、昨日までと同じ変わらない夜が来る事は理解していた。自分たちには、それで十分だった。
──しかし、それは本当の事だろうか?
冒頭の漢詩には返り点がつきますが、「小説家になろう」では一・二点が実装出来なかったので白文になっています。




