1 犬だった頃の僕の記憶。
エイだ!
やっと、やっと見つけた。
この匂い、エイに間違いない!
☆
僕の前世は犬だった。
多分、犬だったのは江戸時代。
時代劇でよく見る家とか服装とか、覚えているから。
人間として生まれた時から記憶があって、僕は人として常識を少しずつ学んで、人らしくなった。
犬だったころの癖とか、十六年間、人として暮らしていると全部忘れるものだ。
だけど一つだけ、癖が残ってしまった。なんでも匂いを嗅いでしまう。
これは僕の本能みたいで、無意識だ。
当時、犬だった僕は町の人に可愛がられていた。誰かに飼われているわけではなくて、みんなのアイドル?みたいな感じで、どこに行っても餌をくれたり、撫でてくれたり、地域の犬だった。
そんな中で、一番僕を可愛がってくれたのはエイだ。
お屋敷に遊びに行くと、いつも残り物のご飯をくれた。今思えばあれはエイのご飯だったじゃないかって思っている。
エイは大きなお屋敷の女中で、とても優しい娘だった。
ある時、にやけた男がエイに話しかけてきた。
他の人間の話を聞いていると、その男は美男の部類に入るらしく、エイも顔を真っ赤にして対応していた。僕に対する態度とは全然違くて、むかむかした。
よくエイに話しかけるので吠えたら、エイに怒られた。
だから悲しくて、翌日からしばらくエイのところへ行かなくなった。
そしたら、なんとエイがその男と逢引していた。
いつもより少し明るい着物を着て、笑顔で。
悔しかったけど、エイがとてもうれしそうだったので、僕は我慢した。
だけど会いに行くのは癪で、エイのお屋敷に寄るのをやめた。
「八郎。ご苦労だった」
食事を終えて、河原をぶらぶら歩いているとあいつがいたので、なんとなく後をつけてみた。あいつはエイのところに寄るんじゃなくて、もう使われていないお寺に向かっていく。
そこには数人の人間の男がいて酒盛りをしていた。
「なんだ、その犬は?」
「犬?」
あいつ、八郎ではなく、お寺にいた男の一人が顎をしゃくって僕のことを指す。
「くそ犬が!」
八郎はそう吐き捨てると、手に持っていた徳利で僕を殴ろうとする。
仕方ないので僕は逃げ出した。
下手に抵抗したら、後ろの男に切られそうだったからだ。
お寺の中にいた男は刀を差している奴が数人、何か殺気立った雰囲気で、物騒な奴らだった。
「あら、しろちゃん。久しぶり。会いたかった!」
なんだかエイが心配になったので、その足でエイのお屋敷へ走った。
久しぶりに見るエイは以前と同じで変わっていなかった。
僕の体をぐりぐりと撫でまわす。
「お腹すいてるでしょう?」
エイはそう言って屋敷の中に入ると、お椀に入ったご飯を持ってきた。魚の欠片が入ったご飯はお腹が空いていなかったけど、おいしかった。
「しろちゃん。私、好きな人ができたんだ。八郎さんっていって、とてもいい人なの。私をお嫁さんにしてくれるっていうのよ。信じられる?」
エイは嬉しそうに話す。
あいつがいい人だって?
僕を殴ろうとしたぞ。あいつの友達もなんか物騒だったし。
僕は違うと言おうとして、吠えてしまった。
するとエイがびっくりして僕から距離を取る。
屋敷から他の女中や丁稚が出てきて、僕は逃げ出した。
吠えるとたまに怒られる。
それを知っていたのに、やってしまった。
だけど、エイ。あいつはいい奴じゃない。
翌日、気になったけど、僕はエイのいる屋敷へ行かなかった。
だけど、あいつが本当にいい奴かどうかが気になって、あいつの友達のところへ行った。すると様子がおかしかった。皆黒っぽい服を着ていて、顔を布で覆っている。
「八郎。準備はいいんだろうな。あの女は本当に戸を開けるのだな?」
「勿論です」
鍵?
「おい、またあの犬だ!」
「おっぱ、いや、殺せ!」
八郎のやつは懐から小刀を取り出し、僕に切りかかった。逃げようとしたけど、別の男が飛び出してきて、僕の体を押さえる。
八郎の刃物がお腹に刺さり、痛さで鳴き叫ぶ。
痛みが酷くてもがいた。そしたら、僕を押さえていた奴が手を放して自由になる。
八郎がまた小刀を振り上げたので、必死に逃げだ。
「八郎。ほっとけ。犬ころなんか。あの傷じゃすぐに死ぬだろう」
背中のほうからそんな声が聞こえたけど、僕は構っていられない。
必死に手足を動かして、前に進む。
嫌な予感がする。
エイに、八郎は鍵を開けさせる。
それは絶対に悪いことだ。
何度か気を失いながら屋敷にたどり着いたのは、真っ暗な夜だった。人の姿が見えないから、かなり遅い時間だ。
いつもは堅く閉まっているはずの扉が開いていて、人が倒れていた。
懐かしい匂い、血の匂いに混じって。
顔を確認したら、それはエイだった。
僕は吠えた。
悲しくて。
「おい!犬の声が!」
八郎が屋敷の中から現れる。
「くそ犬!」
八郎が駆けてきた。その手には小刀が握られている。僕の体はもう動かなかった。視界も暗くなっていて、眠けもひどい。
「死ね!」
僕が最後に聞いたのは憎い八郎の声。
最後に、最後にエイの声が聞きたかったのに。
ごめんね。
僕が知っていれば、もっと早く教えたのに。
犬の僕は賢くなかった。
人であれば、あいつらの正体がもっと早く分かったのに。
僕の犬の生はそこで終わり、人の生が始まった。