34 「でもレオン、それで貴方にもしもの事があったら……!!」
手紙を読む前は不安に満ちていた瞳も、手紙を読んだ後は悪戯に細まっていた。途中母親がコーヒーを出してくれ、「有り難う御座います」とウィルが嬉しそうに飲んでいる。
「クララ、ウィル。教えに来てくれて有り難う。あの人が無事で本当に良かった。それに、貴女達が手伝いに来てくれて助かるわ。頼りにしてた父がね、一昨日雪で滑って腰を痛めてしまって……正直困っていたの」
はあ、とカリンが続ける。最初抱いた気弱そうなイメージの女性は、父親を相手にしているからかどこか遠慮がない。
「私からもお願いします。出産手伝って下さい。勿論その間はうちに泊まって下さい、ラップ人の牧場が隣で嫌かとは思いますが……」
それには曖昧に笑って返すしかなかった。
こんな気弱そうな女性の口からもサーミ人の蔑称は飛び出してくる。その事実が悲しくて、目を伏せてしまうのを耐えるように話題を変える。
「あっ、あのピアノってカリンさんのですか? 弾いても良いですか? 好きなんです、ピアノ」
「ええ、私がカウトケイノに居た頃に使ってた物で、今もたまに弾いている物よ。もうみんな起きてる頃、音は気にしないで。どうぞ」
許可を貰ったので早速ピアノの前の椅子に座る。カリンも弾いたばかりなのだろう。モーツァルトの楽譜が開いたままになっている。せっかくだから使わせて貰おう。
気分を変えたかったのもあり、明るい曲を弾きたかった。選んだ曲はモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジーク。シンプルながらコツの要る曲だ。
屋内に居るおかげで温まった指を鍵盤の上に這わせる。ヒヤリとした感覚に気持ちが浮き立つ。
この瞬間は何時もワクワクする。鍵盤を押して音を響かすと、そこはもうコンサートホールだ。
ウィルも、カリンも、母親も。室内で誰かが動く気配が止まった。みんなが自分の演奏を聴いてくれているのが分かる。これ程嬉しい瞬間は無い。
夢中で最後の小節まで弾き指を止めると、パチパチと大きな拍手が聞こえてきた。
「まあ、凄いのね! 聞き入っちゃったよ」
「本当! 私よりもずっと上手……。お腹の子も喜んでいるわ。また次も弾いて頂戴」
「是非! 有り難う御座います」
「うふふっ。ルーベンは貴女のピアノを聴けなかったんだと思うと、得した気分になるわ」
満面の笑顔で話し掛けられてこちらまで嬉しくなるし、自分はピアノが大好きだと再確認する。
ふと、テーブルの端で拍手を送っている金髪の青年に何も言われていない事に気が付いた。どうもきちんと大人しくしているらしいその姿が、勝手にも今は少しつまらなく感じた。
「どうだった?」
だからか、この部屋に居る人物の中で1番感想を貰いたい人に話し掛けていた。ウィルは一瞬だけ口を動かす事を躊躇したが、最終的には口を開いてくれた。
「素敵でしたよ、音にも命ってあるのでしょうね。改めて思いましたよ、……俺は貴女を守りたいんだって」
何を思ったのか堅物騎士のような真剣さで言われ、ぎょっとすると同時に恥ずかしくなった。きっと今振り返ったらカリンが微笑んでいるだろう。
「そ、そう……」
――その時。
ガチャリ、と音を立てて居間の奥の木製扉が開いた。外観から間取りを推察すると、あそこが寝室だろう。
中から出てきたのは、杖を突いて腰を庇って歩く体格のいい初老の男性。どうやらこの人が件の腰を痛めた父親のようだ。
「今のピアノはカリン、お前かい?」
「あ、お父さん。今のはクララさんのピアノの音よ。クララさんとウィルさんはね――」
すっかり表情が明るくなったカリンが自分達の事を男性に伝えてくれた。ルーベンが事故に遭った事に眼球が飛び出しそうな程驚いていたが、話が進むと自分達を歓迎してくれた。
「お力になれるよう頑張りますね!」
カリンの出産予定日は明後日だという。分娩の手伝いは特に自分に、日常生活の手伝いは2人にお願いしたい、と母親に頭を下げられた。
「座っているだけで腰が痛いから横になりに戻る」と立ち上がった父親は、ふと極寒の厳しさを見つめるような表情で振り返り、こちらに濁った灰色の瞳を向けこう言ってきた。
「ああそうそう、お2人さん。ここら辺の森はトナカイを狙って狼が出るから気を付けろよ」
と。
ウィルは慣れているのか顔色1つ変えずに頷いていたが、自分は耳元で黙示録を朗読されたような気持ちになっていた。
トロムソ本島は海に囲まれた町であるせいか比較的狼は少なく、あまり町まで下りてこない。そんな環境で育ってきた自分は、人よりもあの灰色の生き物を視界に映してこなかった。もし目の前を狼が立ちはだかったら足が竦んで動けないだろう。
「は、はい……ご忠告有り難う御座います」
自然と神妙な顔になりながらも頷く。その後自分は母親に助産の心得を聞いたり、ウィルと共に町の地理を覚えつつ買い出しに出たりした。
「はあ……早く産まれると良いな」
気持ちを吐き出すように白い息を吐いた。
日が出てもカウトケイノの風は冷たくて強い。その風は「余所者は早く出て行け」と言っているかのようだったが、出産の話を聞き気持ちが昂ぶっている自分には追い風にしか思えなかった。
***
「変わるには誰かが声を上げる必要があるんだよ、リーナ。そしてその声を聞いてくれる人を増やす事が大事なんだ。変化を待っているだけじゃ、ノルウェーはサーミを食い潰すだけで何も変わらない。お腹の子が僕らみたいな扱いを受けない為にも、僕はサーミ人の未来を明るくしたいんだ!」
「でもレオン、それで貴方にもしもの事があったら……!!」
北部ノルウェーの小さな村。
サーミの血から逃げるようにリーナ・シュルルフは夫と寒村に落ち着き、周囲から煙たがれながらも慎ましく暮らしていた。
今度子供が産まれる。春が咲き始める頃には家族が増える予定だ。きっとあの時レオンと結婚せずに山で暮らしていたら、こんな幸せ知らなかったろう。
けれどその掌ほどの幸せは、真夜中に訪れたサーミ人の集団が奪っていった。




