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アストリッドと夏至祭の魔法使い  作者: 上津英
Ⅰ Trollmann―魔法使い―

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11 「痛っ、ロヴィーサ様、聞いて、下さいっ……!!」

 バンッ! と大きな音を立てて扉が開き、部屋に痩せぎすの女中が飛び込んで来た。

 隣の女中頭がアストリッドが本当に居ない事にようやく気付いたようで、「えっ」と息を詰まらせたのが分かった。

 何か言ってやりたい気持ちも少しは沸いたが、こんなに大きな音にも反応しないレオンの事を考えるとその気持ちは瞬時に霧散した。


「な、なななに馬鹿を言ってんだい! 地下牢に居るお嬢様が居ないわけないでしょっ!」

「それが本当に居なかったんです! それに気付いた時私も腰を抜かしましたよ! ねえ本当に知りませんっ!? ロヴィーサ様に知られる前に探さないと!」


 痩せぎすの女の顔色がどんどん悪くなっていく。確かにあの気性の激しい――特に今は一層――女主人にこの事が知られたら、叱責はまず免れない。

 分かっている。分かっているのだけれど。

 レオンは自分の支えなのだ。レオンを失う事だけは避けたい。一刻も早く診療所の扉を叩きたかった。

 先程部屋に居たのがアストリッドならアストリッドはまだトロムソに居る筈。自分が居なくても支障は無いのだから。

 普段はレオンに優しい彼女らの視界に息子が少しも映らなくなった事に、胸がはち切れる思いだった。何時もなら育児の事も少しは相談に乗ってくれるが、今は取り合ってくれなさそうだ。


「あの、レオンを医者に連れて行きた――」


 それでも朦朧とした息子を前に動かずには居られなくて。気付けばリーナは女中達に訴えていた。


「馬鹿ラップ人! それどころじゃないのが分からないの!?」

「そうよ! 私達はこの家以外住めないのだから、ロヴィーサ様の気を損ねるわけには……!」


 即座に返ってきた言葉は保身的な物。この様子では自分がこの場から抜け出す事を許してくれないだろう。

 ――レオンには優しかった筈なのに。

 世界が瓦解していく奇妙な感覚に襲われる。何か1つあるだけで、サーミ人への態度はこうも変わるのか。


「私が何ですって?」


 開け放したままの扉の前に、気付けば赤毛の婦人が立っていた。

 薄暗い廊下に立っている主人の声に、雪崩を目の当たりにした時のような寒気を覚える。

 木製の編み棒を持って仏頂面を浮かべている主人に、誰も声を発する事が出来ずにいた。そんな自分達を見て主人の顔が険しくなる。


「うるさいから編み物を中断して様子を見に来たのだけど……どういう事? アストリッドが消えたと言うのは本当なの? 答えなさい!!」

「きゃっ!!」


 ロヴィーサが声を荒げるのと同時、カンッ! と床に勢い良く編み棒が投げつけられる。音は大きくなかったが、動作は大きく思わず目を瞑ってしまった。


「も、申し訳ありません……! 先程お嬢様の様子を見に伺ったところ、ど、どうしてか地下牢からお嬢様の姿が見当たらなくて……!」

「古い牢屋の事ですから、施錠に不備があったんだと思います」


 1秒でも早くロヴィーサにアストリッドが消えた事を納得して貰い、レオンの為に時間を使いたかった。

 ロヴィーサの顔からざっと血の気が引く。


「も、もしかして家出……? 音楽をやりに行くの? 私が守ってあげられないところに行くと言うの!?」


 最初は呆然と呟いていた主人は、次第に困惑と動揺と微かな戦慄を滲ませる。鬼気迫るその表情を前に言葉に詰まった。


「そ、そうだリーナ! あんた、配膳に行った時にはもう気付いてたのでしょう!? だからお嬢様の部屋に居たんでしょう? なのに息子可愛さにお嬢様の捜索を後回しにしたわね!? どうしてその場でお嬢様を連れ戻さなかったの!?」

「なっ!?」


 女中頭が畳み込んでくるように口を挟んできた。強引に部屋から連れ出したのはそちらではないか。

 事実を捻じ曲げる糾弾に、目を見張ったまま思考が停止する。何か言う間もなく鋭く細められた青い瞳がこちらに向けられた。


「どういう事? 貴女はアストリッドを見逃したという事?」

「ち、違います! 私は確認しようとしたんです! そこを――」

「お黙りなさい!! 次は無い、って言ったばかりでしょう! 何を考えているのこのラップ人!」

「きゃっ! やめて下さいっ!」


 無実を訴えようとしたが、主人は自分の話に耳を傾けてくれなかった。

 ドレスから取り出した白樺の樹皮で出来た鞭で、頭に巻いた三角巾がずれる程激しく頭を叩かれる。鞭が髪に絡まり何本も抜けた。


「私達は屋敷を探してきます……」


 主人の怒りの矛先が1人に向けられたと分かったからか、残りの女中達はこれ幸いとばかりに小声で断りを入れ、そそくさと部屋から逃げていく。


「この、このっ!」

「痛っ、ロヴィーサ様、聞いて、下さいっ……!!」


 ただ痛め付けたいだけ――そんな鞭を暫く振るわれた後、主人は唐突に身を起こしこちらを睨み付けてくる。 

 いつの間にか床に押し倒されていた。床板で膝を擦りむいたようで、打たれた上半身も、血が滲んでいる脚もズキズキと痛む。


「ふう……貴女もさっさとアストリッドを探しに行きなさい! さっきまでは屋敷に居たと言うのなら貴女は港まで探しにお行き! トロムソは連絡船でしか出られないのだからまだ間に合う筈よ!」

「ロヴィーサ様、その前にレオンを! レオンを医者に診せるお金を頂けないでしょうか? お給料の前借りをさせて下さい!」


 濃紺のドレスの裾にしがみついて懇願する。


「レオンが酷い熱なんです! 早く医者に診せないと……!」

「次は無いって言ったわよね? レオンよりもアストリッドの捜索を優先なさい! お金はその後よ、それに不満があるなら屋敷を出てお行き!」


 にべもなく断られてしまった。

 ロヴィーサにもレオンは見えている筈なのに後回し。絶望から目の前が暗くなる。先日、主人はレオンの靴下を編んでくれたと言うのに。

 けれどお金が貰えないとレオンを診せに行けないのも確か。主人は何もレオンを見捨てるとは言っていない。ただアストリッドの方が先だと言っているだけで。


「……」


 こんなところでもロヴィーサの下は良い職場なのだ。だから何としてでもしがみついて、理不尽だと思わずにレオンを守るしかない。

 一度深呼吸をして気持ちを落ち着かせて、チラリと愛しい息子の顔を見る。夫に良く似た顔は今は青く、呼吸も弱い。


「さ、探します……っ」


 瞬きをする度溢れる涙。それを見たロヴィーサは不潔な物を見たかのように眉を潜め、自分の横を通り抜ける。


「ああリーナ。私の知らないところでレオンを入院させたら、貴女は強盗を働いたと見做すわ。だから強制退院させたレオンと即刻地下牢に入って貰う。ラップ人を退院させるのなんて簡単なのよ。それがどういう意味か分かって?」

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