花の香より君の香
ヘキーチ領にやって来て一か月が過ぎた。
オーウェンは思いの外快適な毎日を過ごしていた。
辺境伯の屋敷に滞在し、辺境伯の抱える領兵団の兵士たちと一緒に鍛錬する。
辺境の兵士たちは王都の騎士に比べ朴訥で真っ直ぐだ。王都の騎士団内にあった権力闘争や足の引っ張り合い、上司に対するおべっか使いなど微塵もなく彼らは始めこそオーウェンの口調に戸惑ったもののすぐにそういうものだと受け入れた。オーウェンの第八隊は権力闘争に無縁だったが形だけでも高位貴族の令息のオーウェンは足を引っ張られたり敵視されることが多かった。それにある理由でオーウェンは気の休まるときが無かったのである。
滞在が決まった次の日に皆の前で辺境伯と手合わせをして勝利したことも皆の尊敬を集めることになった。
辺境伯は敗れて悔しがったもののそれでオーウェンを恨むでもなく素直に褒めたたえ滞在中だけでも領兵団を指導して欲しいと持ち掛けた。
「指導にゃどとおこがましい事はできませんがにゃ、訓練に俺も交ぜてもらえれば嬉しいにゃ」
そうしてオーウェンは領兵団の一員のように鍛錬したり魔物討伐に出かけたりして日々を過ごしていた。
三か月の滞在が決まって直ぐに第二王子へは手紙を書いて事情を説明し滞在許可は貰っている。
「オーニャン、ドーイナック山に行かない?」
その日の朝食後、ナタリーが話しかけてきた。
「魔物討伐かにゃ?」
魔物討伐で何度かドーイナック山には足を踏み入れていた。今回もそうだと思ったのだが。
「違うわ。今ちょうどまたたび草の花が満開なのよ。またたび草をまだ見たことがなかったでしょう?」
そう言えばそうだった。呪いを解くにはまたたび草が必要なのにオーウェンはまたたび草をまだ見たことが無いのだった。
支度を整えナタリーと騎馬でドーイナック山に向かう。
二人で屋敷を出ようとしたところでわらわらと兵士たちが近寄ってくる。
「ナタリー、どこに行くんだ?」
声を掛けてきたのは副団長のエイベルだ。
「ドーイナック山だよ。オーニャンにまたたび草の花を見せてあげるんだ」
「そうか。オーニャンが一緒なら大丈夫だとは思うが気を付けて行って来いよ」
エイベルの言葉にナタリーはわずかに膨れる。
「私一人でも危険な目になんか遭わないよ」
「わかったわかった、ナタリーは十分強いさ。そうむくれるな」
領兵団の兵士たちはナタリーをすごく大事にしている。このじゃじゃ馬で男勝りな娘を皆が愛しているのがひしひしと伝わってくる。
ナタリーは辺境伯の唯一の子供としてこの地を守ろうと幼いころから精一杯頑張ってきたらしい。もちろん剣の腕前はかなりのものだ。剣だけでなく弓も上手い。そうやってたゆまぬ努力を続けてきたナタリーのことが兵士だけでなく屋敷の使用人たちも可愛くて仕方がない。
ナタリーの母上、辺境伯夫人は目下療養中だ。元来身体が弱く病弱な夫人は領地南西部の温泉施設で長期療養中らしい。オーウェンは会ったことがない。
そして辺境伯は月に一度は夫人の元に出かけているらしい。その間はナタリーが領主代理を務めるという。
「ナタリー、デートか?」
「違うって!」
「オーニャン、頑張れよ!」
「だから違うって!!」
兵士のみんなの揶揄いをナタリーが必死になって否定する。
オーウェンは少し微笑みながら目礼をしてナタリーとその場を後にした。
「オーニャン、何笑っているのさ」
「いや、笑ってなどにゃいにゃ」
「笑ってるよ」
「そうかにゃ」
これもオーウェンは意外な事だった。王都に居たときはニコリともしないオーウェンだったのだ。
いつも険しい顔をしているオーウェン、笑わないオーウェン、魔物退治しか興味がないオーウェン。令嬢たちは怖がってオーウェンには近づかずオーウェンも興味がなかった。
実はまともに喋った令嬢はナタリーが初めてだったりする。
だけど喋りやすく緊張しなかった事が意外だった。口調を笑われないかとそちらばかり気にしていたせいもあるがナタリーの男っぽいさばさばした口調のせいでもある。
面白いことにナタリーは屋敷でスカートを履いている時はそうでもないのだが今のようにズボンを履いて男っぽい恰好をしていると口調も男っぽくなるのだった。
山の中腹、小川のほとりでナタリーは馬を下りた。
「ここからは馬が入りづらいからここに馬を置いていくよ」
「馬をつにゃいだりしにゃいのかにゃ?」
「繋いだら魔物が出たときに馬が逃げられないだろう。大丈夫だよ、この子たちは賢いから私たちが戻るまでここで待っているか危険になったら屋敷まで勝手に帰るから」
オーウェンは感心した。騎士団で遠征したときは従者がついて来ていて馬を乗り捨てるときは従者が世話をしていたが辺境の馬は大分賢いようだった。
ナタリーと暫く木々がうっそうと生い茂る山を歩く。獣道のように踏み固められた小道を歩いていくと程なくナタリーは足を止めた。
目の前には大木。辺りの大木に一斉に白い小さな花が咲いている。
「これがまたたび草かにゃ」
「そうだよ。可愛い花を咲かせるだろう?」
「こんにゃ大きにゃ木だとは思わにゃかったにゃ」
その言葉を聞いてナタリーは笑い出した。
「違う違う!よく見て!大木に巻き付いている蔓がまたたび草だよ」
「は?」
木に近づくと木に蔓状の草がびっしりと巻き付いているのがわかった。
「またたび草はここでは繁殖力が強くて手当たり次第に蔓を巻き付けるんだけどここ以外では育たないんだ」
オーウェンはその小さな可憐な花に顔を近づける。ふわっとえもいわれぬ甘い良い香りが鼻をくすぐる。
「この花の香りは酔うことがあるから気を付けて」
「え?」
振り返ったオーウェンの目の前、思いもよらぬ近い距離にナタリーの顔があった。二人で花に顔を近づけていたせいらしい。
「「!!」」
焦って二人飛びのく。花の香ではない爽やかないい香りがオーウェンの鼻をかすめた。
「すまんにゃ!」
「こっちこそごめんなさい!」
頬をうっすら染めたナタリーの可愛さにオーウェンはしばし見とれた。
先ほどの爽やかないい香りは彼女をこの腕の中に閉じ込めたらまた嗅ぐことが出来るのだろうか……
「あーーオーニャン、これから足を延ばしてカイセンの港町に行かないか?」
ナタリーの言葉が不埒なオーウェンの思考をぶった切った。
「そ、そ、そうだにゃ」
「カイセンの港町に美味い魚料理の店があるんだ」
その言葉にオーウェンはごっくんと唾を飲み込んだ。
魚料理!!!それはオーウェンが最も欲していたものだった。
ヘキーチのお屋敷で出る料理は肉料理が多い。食べることはできるがオーウェンの身体は魚を欲していたのだ。
ああ、それも呪いだったな……とオーウェンは思いながらナタリーの後を追った。